メンバーズレビュー一覧

Rachmaninov: Complete RCA Recordings<完全生産限定盤> / セルゲイ・ラフマニノフ

内容については他の方が書かれている通りだと思います。
これはもう、レコード芸術の極致・レコードによる世界遺産の極致だとしか言いようがありません。
もっと凄いのはこの「世界遺産」が誰にでも数千円で手に入り、ずっと人生の「糧」にもなり「慰め」にもなることでしょう。

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ゴジラさんが書いたメンバーズレビュー

(全247件)

アンタル・ドラティはおそらくカラヤンと同じくらいレコードがある巨匠だが、中古市場でも現役盤でもほとんど入手出来ないのが悲しい。
名オーケストラ・トレーナーでもあり、主としてアメリカで活躍したせいか、ハイドンの交響曲全集くらいしか知られていない。
私は、急にドラティの1812年序曲が聴きたくなって、探すのが面倒だったので、タワレコさんに注文したら今日にはもう届いたので、今聴いているところだ。
1812年はドラティの得意曲で、ハイファイでも有名だ。やはりこの曲はドラティがいい。昔、大音量でこの曲をかけていたら最後の大砲が鳴るところでスピーカーがプツといってエンストしてしまったことがたびたびあったのを懐かしく思い出す。
「凄い音」というのはこういう音なんだとつくづく感心した。
この2枚組CDにはチャイコフスキーの交響曲・協奏曲を除く有名管弦楽曲全てが入っていて、音も演奏もよくとても気の利いたアルバムだと思う。
ドラティは日本でももっともっと高く評価されていい巨匠だと思う。

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これは大変なレコードを見落としていたものだ。
ユダヤ系ドイツ人でソ連に亡命し、ソ連の大物演奏家とたくさん協演したクルト・ザンデルリングの指揮、鋼のギレリス、チェコフィルという取り合わせ。
何より気迫が凄い。これぞベートーヴェンという感じで気合が入っている。今どきのやわなお上品な演奏とは全然違う。
ピアノも凄いがオケも凄い。チェコフィルもこんなにゴリゴリとタイトな演奏ができるなんてビックリだ。ザンデルリングは地味だがオーケストラの魔術師だ。チェコフィルじゃなくてドイツのどこぞのオーケストラみたいな音にすっかりなっている。
これはライヴだから推進力と鋼鉄のような響きが凄いが、残念ながら音がだいぶ割れる。しかもモノラルである。旧EMIから出ているが放送局からテープをもらったのかもしれない。でも演奏がいいからすぐ音は気にならなくなる。拍手も凄い。
演奏がいいとこんなに早く曲が終わってしまうものかとまたびっくりする。
間違えないように無難に弾いて一丁上がりで、何でもかんでもブラボー・大拍手という儀式化した今の演奏とは違うごっつい演奏。こういう演奏を時々は聴き直してコンクール優勝者の練習場みたいな今の演奏会に終止符を打たないとクラシック音楽の愛好者はますます少なくなりますよ。
フルトヴェングラーが言っている。「大事なことは全部楽譜に書いてある。でも一番大切なことは書いていないのだ。」

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なぜワルターのブル9がブル9の名演奏に入らないのだろうか。
ブルックナーはアメリカのオーケストラでは聴かないというひともいる。
ブルックナーはウィーンやドイツのオケで聴くのがいいと思っているのかもしれない。
私は、このワルターのブル9の3楽章を聴いてブルックナーが好きになった。
その頃は曲を聴くことが第1でオーケストラがどうのという贅沢は言えなかった。
聴いてよい曲だと素直に思った。この曲、ワルターの演奏は物理的な時間は決して長くはないのだが、実際に聴いているとゆっくりとゆとりをもって演奏されているように聴こえる。
3楽章はひたすら美しい。2楽章はティンパニがとても快く元気に響く。
第1楽章は大げさではなくひたすら自然に奏せられる。
そして全体のまとまりが非常によい。
評論家諸氏はすぐにアメリカのレコード録音のための寄せ集めオケで音が薄い、などというが、真の芸術というものは聴いて、そして聴いたひとの頭の中で形作られるものが全てなのだ。
そういう意味で、ブルックナーファンなら必ず聴いておいた方がよいレコードなのだ。

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以前、タワレコから出たワルターのマーラーのSACDのセットを買って持っていたのだが、どこをどう探しても出てこないので、今聴いているのはパルジファルの音楽が付いた通常盤である。
以前はグランドスラム盤とかSACDにこだわって、アンプはマッキントシュ、スピーカーはタンノイの同軸、プレーヤーはCDプレイヤーの老舗のマランツの高い奴…とかドイツのヴィンテージ・スピーカーとかいろんなものを試してみたが、結局、聴いているのは「自分の耳」。高いのを買っていい音がするように聴こえるのは、間違いなくプラセボ効果なのだ。
大事なのは、演奏に対して目利きになることだけだ。ふつうのオーディオ装置があれば十分に鑑賞し感動を得れる。評論家のいうことなんかも気にしない方がいい。どうせ「名曲漫談」程度のことを言ってるだけだ。
マラ9は交響曲の中でも深い深い曲だ。評論家は戦争末期のウィーンフィルとのものを奨めるが、私はこのコロンビア響とのものがワルター最期の大名演だと思う。
私は「復活」も8番も好きだが、これはエネルギーが外に向かって放出されている。
9番は違う。エネルギーはひたすら内側に向かっている。だからワルターのこの最後の録音のように深く静かに落ち着いてやるのがいいのだ。
たいていの有名指揮者は力んで最後に息切れしている。
私はマラ9をそういう風に聴いている。他の聴き方があってもちろんよい。聴き方は個人の自由だ。
私のような聴き方をするものにとっては、おそらくワルターの「白鳥の歌」であろうこの演奏が一番ピッタリくる。
私も一時はオーディオ通を気取って随分と大切な時間とお金を無駄にしたものだと今は思う。
































































































































































































































































































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ブラームスは「回りくどい」作曲家である。言いたいことにいつもベールがかかっている。
私自身は、ブラームス交響曲全集をザバリッシュ・ウィーン響で聴き始めた。2枚組LPの表裏に全4曲が入っている徳用盤だった。でもそれまでベートーヴェンの交響曲を順番に聴いていた私には、この優柔不断な音楽は「なんじゃこれ」という感じでちっともこころに響かなかった。
レコード屋の店員さん(その頃はクラシック音楽の専門家だった)に聞いたら、フルトヴェングラー・ベルリンフィルで聴いてごらんなさい、と言われた。
フルトヴェングラーの演奏で3番・4番を聴いたらブラームスの言いたいことがすぐに分かった。フルトヴェングラーはまるでブラームスもベートーヴェンの交響曲のように怒涛のように演奏する。結果、ブラームスのベールはぶっこ抜かれてブラームスの本音が飛び出すというわけである。
フルトヴェングラーはやはり凄い。だから、今でも聴いている。音が悪いだって、フルトヴェングラーの演奏を聴いて音がどうのこうの言ってちゃだめだ。
同じベルリンフィルでもカラヤンの演奏は全然だめだ。ゴージャスなだけで、ブラームスのけつまがり、屈折、回りくどさが全然感じられない。カラヤンだって百も承知していたのだろうが、流麗な演奏哲学を捨てられなかったのであろう。
カラヤン・ベルリンフィルんの最後のブラームス交響曲全集のすぐ後にアバドが全集を完成しているが、これが同じベルリンフィルかと思うほど音が違う。
どこかにドイツの田舎臭い匂いを残している。ブラームスの音はこれでよいのではないか。フルトヴェングラーのダムの決壊のような怒涛もないし、カラヤンのように肩ひじ張ってもいない。
比較的ゆっくりとしたテンポで落ち着いてやっている。
ベルリンフィルでブラームス交響曲を聴くならアバドがいい。
もしブラームスの回りくどさが気になるならフルトヴェングラーの演奏を先に聴いておけばいい。
クラシック音楽と言っても所詮、西洋の音楽である。演歌を聴くのとは違う。よさが分かるにはそれなりの工夫が必要なのだ。と私は思うのだがいかがなものでしょうか。

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パルジファル組曲はアバドの編曲のようだが、この長たらしい名曲をこれだけ簡潔に纏めて全部を聴いたような気分にさせてくれるこの編曲と演奏はまず何といってもありがたい。
パルジファルはクナッパーツブッシュの十八番だったが、これを全曲通して聴くとなると相当な忍耐を必要とする。
それに、私見に過ぎないが、このパルジファルという楽劇、ワーグナーの最後の作品だが、さすがのワーグナーにも疲れが感じられる。その「疲れ」をどう聴かせるかが、指揮者の腕の見せ所なのだが、フルトヴェングラーのように神秘的・哲学的に聴かせるのももちろんありだと思うが、アバドのこの最後のベルリンフィルとの演奏のようにひたすら「美しく」聴かせるというのも十分に説得的だと思う。アバドはこの曲の哲学的な内容よりは、曲を「美しく落ち着いた雰囲気」で聴かせるということに主眼を置いているように思える。
私はそれでよいと思う。1つの作品でも演奏家はいろんなものを引っ張り出せる、そこが演奏というものの再現芸術たる所以であり、レコード芸術の神髄だと思うからである。

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アバド・ベルリンフィルのブラームス交響曲全集はカラヤン在任中から2番が録音されていた。
この1番は、まるで氷上を重戦車が滑っていくようだ、と言われたカラヤンの1番より卓れた演奏だと私は確信する。アバドの絶頂期の演奏だとも言える。
まるで、フルトヴェングラーが憑依したかのような重々しく落ち着いた演奏である。ベルリンフィルの音が、巧いけど「薄軽」になる前のフルトヴェングラーが作ったと言われる重厚な音になっている。
フルトヴェングラー・ベルリンフィルの1952年の1番のライヴはもちろんとても魅力的な演奏だが、録音がよい分、アバドの1番ははるかに聴きやすい。
カラヤンのように、これでどうだ、というような力みもなく、そこにあるのは「謙虚」の2文字である。
もしベルリンフィルでブラームスの交響曲全集を聴きたいのなら、断然この全集を自信をもって勧める。
これを聴くとアバドというひとがいかに指揮者として秀でていたかを思い知らせる演奏である。
マゼールという大方の下馬評を裏切ってアバドがベルリンフィルのシェフになったのは正しかったのだ、と私は思う。
ただ、このCDの残念なところは、初版には悲劇的序曲ではなく、「運命の女神の歌」が入っていた。これがまためっぽうよいのだ。
最初4枚で出ていたときには、「アルト・ラプソディ」「運命の歌」「悲歌《美しきものも滅びねばならぬ!》」という声楽曲が入っていた。これが交響曲全集と同じくらい素晴らしい名演なのだ。
だから、初版のまま出してほしい。
エソテェリックのアバドの同じ全集を買ったら、声楽曲は全部カットしてあった。音のよさを追求するのはいいが、「音楽」が全然わかっていないのがエソテェリックだとは間違っても思いたくないが、相当がっかりした。
これからアバド・ベルリンフィルのブラームス交響曲全集を聴こうとするひとはぜひ、声楽曲も一緒に聴いてほしい。交響曲とはまた違った意味で、大きな感動を手に入れることが出来ると私は信じる。

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ゴジラの映画は田中友幸、利光貞三、志村喬、本多猪四郎、円谷英二、そしてゴジラのテーマを世界中に轟かせた伊福部昭の天才中の天才が戦後すぐに集まって創造した人類の未来を予見する映画だった。
テーマは「原爆」「水爆」の核兵器だった。
ゴジラは水爆大怪獣であり、原爆、水爆、そして芹沢博士がもう1つの脅威になるオキシーゲン・デストロイアをゴジラともども自身の生命とともに葬り去ったのであった。
伊福部自身も戦争のための放射能実験を国から課され、大きな健康障害を負っていた。兄はやはり同じ仕事をして命を落としている。
伊福部がゴジラ映画に賭けた仕事の重みは言葉では言い尽くせない。自分が経験しているからこそ、ゴジラの音楽は聴くもののこころをとらえてはなさないのだ。
曲には、ゴジラのために滅多に使われない楽器が使用されていたり、低音に重点を置いた音楽作りがなされている。それはまさに竹みつではなく真剣を使った「真剣勝負」の音楽である。
戦争の惨禍と平和への祈りが音楽に深く刻まれる。
私は初代ゴジラを超える映画は未だ生まれていないと考える。
あの映画を「ゼロ」から作ったのだ。奇跡に近い。
初代ゴジラには以後のゴジラ映画の音楽の萌芽が全て使われているといってよい。
ゴジラの音楽もまずこれを聴くべきであろう。

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ヨッフム翁が好きな私は、昔、ギレリス・ヨッフム・ベルリンフィルのブラームスピアノ協奏曲1・2番を何回も聴いたが、この定番に感動することはなかった。
今回、ヨッフムが珍しくドレスデン管・ベロフで2番をライヴ録音しているCDが出たので買って聴いてみた。
結論から言うと、期待していたほどはよくなかった、というところだろうか。
まず、録音がうすっぺらに聴こえる。
ヨッフムとドレスデン管がそんなに馬が合うとも思えない。これは、ブルックナー交響曲全集のときにも思った。全集なら断然グラモフォンの旧盤の方がよい。
ドレスデン管が特別に好きな人は買ってもよいと思うが、ベロフのピアノもそんなによいとも思えない。
まとめれば、可もなく不可もない平凡な演奏だということだ。

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バルビローリはウィーンフィルとブラームス交響曲全集を録れているが、それは名盤として名高い。
ここではバレンボイムと録れたブラームス・ピアノ協奏曲第2番を聴いてみた。
曲は悠然と始まる。ピアノ付き大交響曲の面目躍如だ。ピアノも呼吸がぴったりで聴いていて気持ちがいい。
イタリアの明るい空の下が思い出される。
しっとりと2楽章が奏され、3楽章はリズミックで明るくいつものくすんだブラームスと違ってどっか吹っ切れている。この辺、バルビローリのリードが実にうまい。
なにもかもうまくいって演奏はあっという間に終わる。もう1回聴こうかなという気持ちにさせる。
隠れたる名演がここにも1枚。
バレンボイムが指揮者として録れた最初の曲が、ロンドンフィルとのドイツレクイエムだったが、これはシカゴ響と録れた新盤よりはるかにすがすがしく透明な音楽になっていて私は好きだが、これもまた隠れたる名盤だろう。

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バレンボイムがまだ純粋にピアニストであったころの演奏。
ドイツのピアニストの歴史は戦争でケンプ、バックハウスで中断したようにみえるが、それを埋めたのがバレンボイムやアラウだったような気がする。
私はブラームスのピアノ協奏曲では1番が好きだ。25歳の若書きとはとても思えない老成した曲に思える。
ブラームスの音楽のよさがこんなにも素直に出ている曲もないと私は感じる。
落ち着きと渋さと懐かしい哀愁…みんなブラームスのものだ。
聴くとしみじみと落ち着く。
曲はゆっくりと落ち着いて多少の粘り気をもって進む。バルビローリの持ち味が全快だ。
それに堂々としたバレンボイムのピアノ。オケと呼吸がぴったりと合っている。
ブラームスのピアノ協奏曲1番は難しい曲だと思う。上手に演奏してもちっとも感動しない演奏もある。
私は、カーゾン・ベイヌム・コンセルトヘボウ管、ケンプ・コンビチュニー・ドレスデン管、アラウ・ハイティンク・コンセルトヘボウ管などで聴いてきたが、これに新たにこの演奏が加わった。
バレンボイム盤が「決定盤」の1つであることは間違いない。
これらの演奏に共通するのは「大人(おとな)の音楽」になっているということだ。
みんな一歩ひいたところで演奏している。ほほえみがある。決してわめかない。
こういう音楽が実は一番難しいのだ。
でもそういうところがいかにもブラームスらしくてよいのだ。

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ブラームス・ピアノ協奏曲第1番は個人的には2番より好きだ。なぜか分からないが、平和でのんびりした大成した2番より、ひたむきで緊張感のある1番が自分に合っているからかもしれない。
1番を大好きなシュターツカペレ・ドレスデンの渋い伴奏で聴きたくなって探してみたら、新しい盤では、ポリーニ・ティーレマンのがあった。ポリーニはあまり聴かないし、ティーレマンは私には意味が分からないところで加速・減速するのであまり好きになれないでいる。
古いレコードだが、ケンプ・コンヴィチュニー・ドレスデンという珍しい組み合わせのレコードがあったので、これを聴いてみることにした。
1957年のモノラル録音だが、これがとってもよかった。
ゆっくりしたテンポで始まり、そのまま実に自然なテンポで曲は進行する。やっぱりドレスデンの音はブラームスには非常に合っている。このころのドレスデンは最高レヴェルにあったのだろう。コンヴィチュニーの指揮もあわてず・さわがずで最高だ。ケンプのピアノもすっかり曲に溶け込んで、ピアノ付き交響曲そのものだ。
これは間違いなく隠れたる名盤の1枚だろう。

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まず、私はフリッチャイの大ファンであることを断っておく。
フリッチャイがその天才を全部生かしきれないで早世し、この悲愴は術後最初の、グラモフォン最初の悲愴ステレオ録音だそうな。
正直名演だと思う。そして録音されたときの情況を加味して聴くとこれはもう最高の悲愴と言ってしまう。でも最初聴いたときからこの演奏はどうしても全部楽しんで聴けた、というわけではない。
私は大学の教員をしていた時分、よく授業の前にジュリーニ・フィルハーモニア管の悲愴を聴いていったものだ。悲愴を聴くと妙に落ち着いて自信が持てるのである。明るい気分になる。悲愴交響曲にはそういう側面もあるのだろう。
ところが、フリッチャイのこの演奏では授業に行く気になれない。
なぜ、オーケストラはベルリンフィルではないのか。
第1楽章は特に私と馬が合わない箇所がある。
本人も1楽章を録れ直したくてお蔵入りしていたレコードであるという。
今ではどうしようもないがそういうレコードを早世物語をくっつけて売ろうとするのはどういうものか。
今再びフリッチャイの悲愴を聴きながらそんなことを考えている。

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ベイヌム・カーゾンのブラームス・ピアノ協奏曲第1番、大変な名演である。どうしてレビューがないのだろう。話題にならないのが不思議である。
カーゾンはクナッパーツブッシュ・ウィーンフィルと2番を録れているがそれよりずっといい。
これはバックがよいからだろう。何しろ最高の状態にあったコンセルトヘボウ管にベイヌムの最高のコンビである。最初の1音から引き込まれる。
何しろオーケストラの音色が最高な上に技術的にも最高である。これ以上は望むべくもない。
戦後、コンセルトヘボウ管をここまでにしたのはベイヌムにほかならない。ベイヌムはメンゲルベルクのような独裁者ではない。楽団員と一緒に音楽を創っていく。そういうタイプの指揮者であったという。全体のリハーサルが終わった後でも必要があれば楽団員と相談しながら音楽を創っていたらしい。
だからそれぞれの奏者が納得のゆくまで練習し自発的な力強い音楽にしていったようである。
ベイヌムのブラームスはみな名演奏だがこの演奏もそうである。
出だしから絶好調である。1950年代初めの古い録音だが、オケと指揮の素晴らしさはしっかりと刻まれている。適切なテンポとあたたかみとしぶさのある音色、適切なテンポと楽器運び、まるでタイムマシーンに乗って当時の会場で聴いているような錯覚におちいる。
ベイヌム・コンセルトヘボウ管は油の乗り切ったところでベイヌムが早世してしまったが、幸いにして名演はかなりの量が残っている。その後のコンセルトヘボウ管の世界的名声はベイヌム抜きには考えられない。

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私はチャイコフスキーが大好きだが、ヴァイオリン協奏曲だけは最初聴いた時から今までずっと苦手である。それにフェラスというヴァイオリニストも私にはもう1つピンとこないのである。
カラヤンはムターともこの曲を録れているがそちらは残念ながら聴いていない。
この演奏は、演奏自体は完璧だと思うしフェラスもこれ以上ないほどうまいと思うが、なぜか感動が得られないのだ。
はっきりいうと、カラヤンの「もったいぶった感じ」がどうもこの曲に合っていないような気がするのである。カラヤンはピアノ協奏曲はいつも共感いっぱいの名演奏を聴かせるのにこの曲とは馬が合わないような気がするのである。もちろん私ひとりの錯覚かもしれないのだが…
楽しめないからこのレコードはふだんあまり聴かない。きょうは珍しく久しぶりに聴いているが前に抱いていた感じとあまり変わらない。

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カラヤンがチャイコフスキー・ピアノ協奏曲第1番を伴奏したレコードはリヒテル、ワイセンベルク、ベルマン、とこのキーシン盤の4種類ある。
それぞれのピアニストに合わせて、それぞれがこれぞ名盤というレコードだと思う。
その中で、このキーシン盤は聴いていなかった。ライヴ録音だ。キーシンはまだ若いしどうせカラヤン主体の演奏だろうとたかをくくっていたこともある。
聴いた感想を率直に言うと、これがなかなか、というより、「とってもいい」のである。
一番感じるのは、カラヤンの「こころ静か」な感じだろうか。
チャイコフスキーの気持ちがほんとうに素直にこころに届く。
チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は、こんなにもよい・内容を感じさせる曲だったのだ。
最初の超有名な箇所が突出することなくどこもかしこもこころがこもっていていい曲だと感じさせてくれる。
カラヤンが自分の解釈をキーシンに押し付けている感じも全然ない。
最初から最後まで「静かで落ち着いている」。
キーシンのピアノもそれにとっても合っている。
録音もすこぶるよいし、カラヤンの遺したチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番では特別の演奏ではないか。楽器の音もとてもきれい。
カラヤンは膨大な録音を遺したので、聴いていない録音のなかにもこんな珠玉の名演があるのだ。

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マタチッチ・ウィーン響のこのブルックナー交響曲第9番の演奏、聴いているうちにだんだん録音が下がってくるのだろうか。宇野功芳氏がいたら駄目なものものを褒めるのか。馬鹿じゃないの。
音楽の聴き方や評価はいろいろあってよいと思うけど、宇野が何を言おうといよいものはよいし、録音レベルが聴いていると下がってくるなどというたわごとを言うなかれ。どこを聴いたら録音が下がっていくのか。
私はルイージ・ドレスデン管のブル9を聴いたがノーテンキで全然よいと思わなかった。ルイージはマーラーはよいと思うがブルックナーは体質に合っていない。
マタチッチのブル9は久しぶりに聴いた。
以前聴いたときより、マタチッチがずっと深い音楽を実現していて、この演奏は枯れた内省的な演奏と言われているが、3楽章になっても力強さは全然落ちない。こういう演奏をマタチッチは意図していたのだ。
確かに音楽が深まれば内省的にはなるが、力強さも失っていない。
これが、ウィーンフィルだったりベルリンフィルだったりすればもっと音に厚みや艶が生まれたであろう。
しかし、1楽章の肩ひじ張らない、しかも丁度良いかげんの迫力、自然な進行、2楽章のティンパニが自然に浮き上がってくるような心理的強さ、そして、3楽章は、永遠に参画するやさしい表面と内面の崇高さ。これは「せっかち」に感じられるシューリヒトさえ成し遂げ得なかったところだ。
マタチッチはそういう先輩たちの演奏をいやというほど聴いて、このブル9の演奏を演出しているのだ。
宇野がどう言おうがもういいではないか。宇野にこだわるのは「宇野病」だ。
そこに鳴っている音楽だけを聴けばよいのだ。

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ケンペ・ウィーンフィルのワーグナー名演集である。
ローエングリンとパルジファルとトリスタンとイゾルデである。
いずれもケンペが得意としていたワーグナーばかりである。
ケンペが指揮するとウィーンフィルからこんなによい音がするのだとびっくりさせられてしまう。
ローエングリン第1幕の前奏曲は限りなく美しく神秘的だ。第3幕前奏曲もやたらと元気というだけでなく慎ましさも失わない。いつも聴いているのと別の発見がある。
パルジファルは前奏曲と聖金曜日の音楽を聴いただけで全部を聴いたような崇高な気分にさせてくれる。
トリスタンとイゾルデがまた素晴らしい。こんなに落ち着いて聴けるトリスタンの前奏曲と愛の死はほかにない。
録音は新しくないが、このころの最高のウィーンフィルの音を最高の音で記録している。
これはワーグナーを愛好するひとすべてが持っていてよいレコードである。
ケンペという指揮者の凄さが全部出たレコードである。

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フルトヴェングラー・ベルリンフィルのブラームス交響曲第4番のスタジオ録音とルツェルンのドイツレクイエムの組み合わせ。
交響曲第4番は旧EMIのライヴと2日違いのスタジオ録音らしい。落語家がお客を前にして反応を見ながら落語を演じるのとお客なしで話をするのとどれほど違うのかを思い起こさせるような演奏。
当然お客を前にした方がいいに決まっている。だいたい客のいないところで落語をやるなんざ不自然の極みである。だから、このCDの4番はちょっとも面白くない。
聴きものは、ドイツレクイエムの方だ。
全曲正真正銘のフルトヴェングラーの演奏なのはストックホルムフィルだけで音も一番まし。というのが通り相場だ。あとのは(ウィーンフィル?とこれ)はつぎはぎで音も落ちる。
でも私は、この演奏に感動するのである。音が悪い?でも不思議と気にならない。同じころ、カラヤンがウィーンフィルを振ってホッターとシュワルツコップで同じドイツレクイエムを旧EMIに録れているが、感動だけを取ればそれを凌ぐ出来栄えである。
私が感じていることが嘘か誠かはこの演奏・CDをきいてみるしかない。ルツェルンのドイツレクイエムが他のいくつもの海賊版レーヴェルからも出ていることを考えると私の他にもこの演奏を聴いて感動しているのだろう。音が悪くても感動する、残念だが、どうしてだか私には分からない。

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このセットの中に1956年にバンベルク響を振ったブルックナー交響曲第9番がある。モノラルの放送局のスタジオ録音らしい。多少の音質の瑕疵はあるが、ハンブルク響のような乾いた音ではなく、潤いのあるホールトーンでとても聴きやすい音である。これが飛び切りの名演である。
カイルベルトというひとはなんでブルックナー9番をこんなに素晴らしく指揮できるのだろう!
なにもいうことがない。一点も非の打ちどころのない演奏である。
遅くもない早くもない丁度よいテンポで、素晴らしい楽器のバランスで、真情がこもっていていて、こころの中になんの障害もなくすーっとブルックナーの音楽がしみ込んでくる。
かつて岩城宏之は「カイルベルトの音楽は嘘がない」と言ったというがまさにその通りだ。
カラヤンと同年生まれで、とても仲が良く、誕生日には二人でニコニコしながらお祝いをし合ったというが、周知のようにカイルベルトはトリスタン指揮中に長逝してしまった。カラヤンと二人で仲良く80過ぎまで生きて活躍してくれていたら…と誰しもが思っているだろう。
しかしないものねだりはやめよう。カイルベルトはバイロイトなどにも不滅の足跡を遺したのだから。

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昔昔、ブル4「ロマンティック」は、クナッパーツブッシュ・ウィーンフィルの演奏で死ぬほど聴いた。
旋律もほとんどそらんじている。フルトヴェングラーでも聴いた。ケンペでも聴いた。ヨッフムでも聴いた。ヴァントでも聴いた。チェリビダッケでも聴いた。聴いた聴いた…
水を差すようで申し訳ないのだが、久しぶりで4番を聴いた。オケはバイエルン放送響でヨッフムが鍛えたのだから、少なくともブルックナーはベルリンフィルよりうまい。
でもブルックナー・オタクの私でさえ4番はほとんど聴かない。
私にとっては4番はあまりというかピンと来ない曲である。
ブルックナーは作曲に自信がなく、でも第3交響曲(初版にはワーグナーからの引用があったので「ワーグナー交響曲」と言われている)をワーグナーに大いに褒められて気をよくした・自身も付いたブルックナーが次に書いたのがこの4番である。
なんでまたこの曲に「ロマンティック」などという名前?が付いたのだろう。どこがロマンティックなのだろう。へそ曲がりな私は悩む。
要するに、私にとっては、この曲はあまり聴かない魅力のない曲なのだ。
ブルックナーと言えば「内省」の作曲家である。そこが曲にうまく出ているから魅力的なのだ。この4番は最初からいけいけどんどんでそういうものがあまり感じられない。
私が敬愛してやまないザンデルリングの演奏を久しぶりに聴いてみたがその感じは変わらない。
でもこれ以上オーケストラをうまく鳴らすのは無理というところまでやっているザンデルリングのオーケストラ・コントロールの天才が証明された演奏だ。
誰にでも好き嫌いはあるものだが、ブルックナー・オタクの私にとって4番は苦手ということだけは言っておこう。
4番が好きなひとにとってはこの演奏は超名演とだけ言っておく。

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山田一雄の世界

山田一雄、他

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

この「山田一雄の世界」というCD、実にいいのである。
最初のマイスタージンガーをかけたら、妻が傍らにやって来て「懐かしい!」と実に感情を込めて言うのである。「優しいおじいちゃんが指揮しているみたい」と言うのである。
昔、小学校に小編成のホンモノのオーケストラがやって来て有名曲をやさしいおじいちゃん指揮者が指揮することがあった。
あの時に似ている。
このレコードを聴くと山田一雄というひとがほんとうに好きになってしまう。ほんとうにそこに現れては消える音はその音楽家の人柄というものを表している。
山田一雄という日本にマーラーの音楽を根付かせた大きなひとが身近に感じられる。
最初の、誰でも知っている「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が前述したように実に懐かしくて、すぐに山田一雄が創り出す音楽の世界に引き込まれる。
選曲も演奏も実によい。ロザムンデの間奏曲はなんともやさしくて美しくてシューベルトのおしゃべりするような音楽の魅力満載である。アルルの女もビゼーの才能満開でカルメンより有名ではないが音楽感情は深い。
最期の1812年序曲はもう、合唱を伴って山田節がいっぱいの名演である。アルバムの最後を飾るにふさわしい。
日本にも小品の大名演奏家がいるのだ。カラヤンのドイツ訛りの小品集より山田一雄を聴く方がずっとよい。音楽がずっと近くで鳴っている。
これは山田一雄という稀有な指揮者を最初に聴くには最適なレコードだ。日本にも西洋音楽をこんなに魅力的に上手に聴かせる音楽家がいたのだ。実にうれしい!

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今、お前は指揮者の中で誰が一番好きかと言われれば、迷わずクルト・ザンデルリング(クでなくグであるらしい)と言おう。
何十年もクラシック音楽を聴いてきてこのひとほど安心して心から身を任せて聴ける指揮者は他に決していない。
その代わり、無駄なレコード録音は一切しない。全集を作るついでにあまり得意でない全集中の他の曲を録音することも全くない。全集があるのは例外的にブラームスが2回、ラフマニノフのピアノ協奏曲を4年かけて1曲ずつ、シベリウス、それにフィルハーモニアとの偶然クレンペラーの補佐に入った時にフィルハーモニア管と録音したベートーヴェンの交響曲全集だけである。
ああそれと内田光子とのベートーヴェンピアノ協奏曲全集があったが、これもザンデルリングに惚れ込んだ内田が頼み込んで実現したものであろう。
とにかく無駄なものは一切録音しない。だから、ザンデルリングの録音したレコードは1つ残らず名演である。そして、ドイツで生まれロシアにも故郷を持つこのひとの音楽は、とてつもなく深く堅固でしかも何より温かい人間のぬくもりと哀しさを無限に持っている。これほどそのひとの持っている人間としての徳の高さが音楽に自然に反映しているひとを私は他に知らない。
いささか前置きが長くなったが、このグリモーと協演したブラームスもそういった意味で大変な聴きものになっている。
まず、冒頭の決して理性を失っていない大きさにびっくりする。これは、ブラームス25歳の時の若書きだが、そういう若さと25歳にして大家であったブラームスの両方を感じさせる。
ザンデルリングは決してピアニストを抑圧しない。ザンデルリングの揺りかごの中で自由に自主的にのびのびと弾いている。それが自然に交響している。
どこもかしこも納得しながら最初から最後まで音楽は進んでいく。これは永遠の響きだ。
ザンデルリングの指揮でブラームス・ピアノ協奏曲第2番もきいてみたくなる。
でも、ザンデルリングは2番は演奏していない。1番だけである。
あんなに素晴らしいブルックナーも3番4番7番しかない。
でもそれでいい。
ザンデルリングは自分で納得したものだけを録音してくれたのだ。
それで十分だ。
ザンデルリングは歳を取ってから指揮を頼まれると「自分よりいい指揮者はたくさんいるから…」というのが口ぐせだったという。そういうひとの音楽こそ聴いてみたいものだ。

0

大事なのは「感動」だと思うのだが、どうだろう。
私は、時期は違うがコリン・デイヴィスの指揮でドレスデン・シュターツカペレの音を実際に聴いている。
曲はベートーヴェンの「運命」「田園」だった。
その時の音を思い出すと国内盤のおとなしめの音が、その時聴いた音に一番近いような気がする。
私は国内盤DENON3枚組全集初発盤で聴いているが、いい音だと思う。
ゴールド盤も出ていたし、普通盤、いくつかの高音質盤も出ていたし、それに、いくつかの外国盤全集も出ていたが、交響曲第3番の途中でCD盤が代わるなど不便を感じるものもあった。
そこにタワレコからSACDが出た。正直言うと「凄いよい音」になったというのが私の感想だ。
でもこれは、実際聴いたドレスデン管とは違う感じもする。
これだけ国内外で同演奏異盤が出ているのは、この全集がたくさん売れて評価が高い=感動的な見事な演奏、だということの確かな証明だと思う。
結論から先に言うと、どのCDで聴いても、クルト・ザンデルリング(クでなくグと濁るらしい)・ドレスデン管のブラームス交響曲全集はびくともしない名演奏だということだ。どのレコードで聴いても、壮大な「感動」が得られる。
私は、この同じ演奏を気分によっていろんなCD、LPレコードで聴いているが、そういうことが出来るのが「レコード芸術」の楽しみだと思っている。

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ブルックナー:交響曲第8番

井上道義、他

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

井上道義氏のブルックナー交響曲第7番を聴いた。それぞれの奏者が指揮者に抑圧されることなく自主的に演奏しその結果美しい響きがする、録音の良さと相まってまれにみる名演奏だった。
当然、井上氏の8番が聴きたくなった。今のところ井上氏のブルックナーは残念ながらこの2つしかない。
京響は井上氏が8年間にわたって育て上げたオーケストラである。
このブル8はその総決算的な演奏である。井上氏が慕っていた朝比奈隆が聴いたらばさぞかし喜んだであろう。
このブル8の演奏には7番と同じことが言える。
まず、その響きの美しさ。よくここまで根気よく京響を育て上げたものだ。
それに、これは聴けば誰でもすぐに気が付くことだが、音楽の「呼吸の深さ」である。特に、ブル8のような長大な曲は呼吸の深さがないと途中で息切れしてしまう。
これが簡単なようでなかなか出来ない。歴史的名盤であるクナッパーツブッシュ・ミュンヘンフィルの演奏を聴けば誰でもその「呼吸の深さ」に驚くであろう。
父親のように慕っていたという朝比奈隆も誰もが知るブルックナーの権威であり、そのブルックナー演奏に魅了され弟子入りしたチェリビダッケも晩年は禅に深く帰依した「呼吸」の音楽家であった。
井上氏がこれらの師から影響を受けたことは想像に難くない。
井上氏は大きな編成の曲がうまい。ショスタコーヴィチ、マーラー、そしてブルックナー。
ショスタコーヴィチとマーラーはやや常軌を逸した作曲家であるが、ブルックナーはベートーヴェンから繋がるドイツ正統派の道の上にいる作曲家である。
朝比奈隆がブルックナーだけでなくマーラーにも「復活」や8番(日本初演)といった名演奏を遺しているのと同様に井上氏もマーラーだけでなくブルックナーにも名演奏を遺した。
井上氏はマーラーやブルックナーの全集を遺したわけではないが、日本ではじめての優れたショスタコーヴィチの全集を遺した。人間そうなんでもできるわけではない。それで十分である。

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このドイツレクイエム、バレンボイムの指揮者としてのデビュー盤らしい。
バレンボイムは指揮者として大成してからもピアニストとして活躍している。
チェリビダッケとの協演も映像で観たがよかった。チェリはフルトヴェングラーの唯一の弟子?だったから、バレンボイムが尊敬していたフルトヴェングラーと戦後の一時期ベルリンフィルを振り分けたチェリと協演するのはバレンボイムにとっても憧れのひとを思い出すよすがになったのかもしれない。
ドイツレクイエムには名演がたくさんあるが、私はどうしてもフルトヴェングラー・ストックフィルムフィルに手が伸びてしまう。
そこには「感動はひととひととの間にある」ということが如実に証明されているからだ。
この原理原則はフルトヴェングラーとチェリビダッケとバレンボイムの3者に共通しているように思われる。フルヴェンとチェリがレコード録音に懐疑的だったのは、そういうことだったのだろう。
バレンボイムにとって録音がどういう意味を持っているのかは分からないし、現に彼のレコードはたくさんある。
けれど、この指揮者としての最初の仕事、ドイツレクイエムの演奏にはそういう精神にあふれているように感じる。
もちろん、ディスカウ、マチスという超有名な歌手が支えている。
それにしても、この演奏の感動は確かにひととひととの間にある。
だから素晴らしいのだ。
バレンボイムの後ろにはフルトヴェングラーが立っているような気さえする。
のちに、シカゴ響とも同曲を録れているが感動は断然落ちる。
音楽とは不思議なもので、円熟、老熟すればいいというものでもないらしい。
聴衆も成長するものだが、今聴いてもこのドイツレクイエムには感動する。
廃盤にしておくには惜しいレコードだと思うのだが…

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ブラームスの交響曲は、初めからそんなに人気があったわけではないらしい。
地味だし、くすんだ音だし、マーラーやブルックナーのように突然大きな音がしたり、突然音が止まってしまって、あら・なぜかしら、とひとを驚かすこともない。どこもかしこもだいたい淡々としている。
私が、最初に聴いた全集はザバリッシュ・ウィーン響だったが、「なんじゃこれ」というのが正直な感想だった。今考えると滑稽だが、二流の現代音楽みたいだった。
それが、フルトヴェングラーの演奏で同じブラームスを聴いてみて、いっぺんで、これぞ名曲と評価が逆転した。
フルトヴェングラーのブラームスはとにかく分かりやすい。ブラームスがうじうじと書いているところをあらゆる手練手管を使って分かりやすく聴かせてくれる。怒涛の3番。しぶーい4番。最初からカンカンと元気のいい1番。2番だけはもう少しおとなしくやってくれた方がと思ったくらいである。
ボールトとフルトヴェングラーの共通点は、先輩のニキシュを尊敬していることである。
同じ師からこんなに違う演奏が出て来るのだから、ニキシュというのはとんでもなく凄い指揮者だったのだろう。
ところで、ボールトの演奏だが、いかにも英国紳士という演奏だ。
仕掛けはいろいろあるのだろうが、そういうことは表面には一切出てこない。ウイスキーの宣伝文句ではないが「何も足さない・何も引かない」演奏に聴こえる。老獪な演奏である。
フルトヴェングラーの演奏を聴いて興奮しきった後に聴くと、これがまたたまらなく爽やかに心地よくきこえるのであるから演奏とは不思議なものである。
同じ楽譜なのに違う曲に聴こえる。
演奏は再現芸術である。
名指揮者で作曲もしたマゼールが言っている「いくらこう演奏してほしいと、楽譜に書いても、書ききれない」と。
だからそこに指揮者が出てきて解釈し伝えようとする。
楽譜を音にしていく演奏というものはなんと複雑なんでしょう。
だけどそこが面白いんだよね。ボールトとフルトヴェングラーのブラームス演奏の違いは私にそんなことを考えさせてくれて楽しい。

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ブルックナー:交響曲第7番

井上道義、他

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

昨年末を以て引退してしまった井上道義さん、けれんみたっぷりの話の面白い、いい意味でのタレント性・大衆性のあったひとだから、引退は寂しい。井上さんに代わるような面白いひとはそう簡単に出て来るとは思えないから余計残念だ。本人の弁によれば「ボク、よれよれになってみっともなくなるまでやりたくないから」ということなんだそうだ。
日本でショスタコーヴィチを広めた大功労者。ブルックナーの朝比奈隆、マーラーの山田一雄に匹敵するような大きな仕事をした人だ。
ショスタコのあまり有名でない交響曲も取り上げて「この曲知らないでしょ。でも美しいよね。ボクら知らないこといっぱいあるよね。いいことも、ワルいことも。」なんて言いながら「ショスタコはボク自身だ」と言いながら、きっとショスタコが好きだったのでしょう。いい演奏をいっぱい遺して全集も作った。
前置きがながくなったが、井上さんはショスタコやマーラーやブルックナーなど、大編成のオーケストラをドライヴするのがうまかった。
マーラーは結構前からやっているが、ブルックナーはチェリビダッケの演奏を聴いてすっかり虜になり、最後はチェリの弟子になってしまった。
その井上さんが指揮したブル7。
井上さんはチェリからいろんなことを学んだが、1つだけ真似したくないことがあると言っている。それは楽団員を抑圧することだと言っている。(私自身はチェリが楽団員を抑圧しているようには見えないのだが…)
でも、演奏はその通りで、かなり余裕を持ったテンポで、各奏者が自発的に音を出している(ように聴こえる)。それに、特筆すべきはその響きの美しさだ!
だから、聴いていて凄く心地よい、安心して身を任せて聴いていられる。
今まで、シャイーがコンセルトヘボウへ行く前のベルリンのオケとやったのが美しい演奏だと思っていたが、井上さんのブル7はそれよりはるかに美しく聴こえる。
何もドイツ・ウィーンのオケでなくともこんなによい演奏が足元に転がっていたのだ。
愛聴盤があっても新しい演奏を聴いてみるべきだ。そこに思いもよらない宝物が転がっているかもしれない。

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ザ・ラスト・モーツァルト

仲道郁代

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

このレコード、毎日新聞25年6月18日「Interview 仲道郁代 この瞬間だけの輝き、弾いた 指揮・井上道義と紡いだ「最後のモーツァルト」」を読んですぐに注文した。
終始、仲道のイノウエに対するリスペクトが感じられる。
川端康成が言った「末期の眼」が感じられる。
初めて聴いたような新鮮な感じ。
「これは祝祭なのか、お葬式なのか、天国なのか?みたいな非日常感が漂っていました。違う次元にいるみたいな感じがしました」と仲道は言っている。
他人に聴かせようとする演奏ではない。自自分に向かって聞かせている演奏である。
引退した井上との最期のモーツァルト・コンサート。
なぜか井上の指揮者人生の全てが詰まっているような演奏である。それに仲道が奉仕している。
こういうことは人生に1回しかないのだ。
大好きな23番、ハスキルの演奏を忘れた。画家の東山魁夷が好きだった第2楽章。
粛々と音楽は流れていき、そして井上が「もう終わり」というくらい音楽はあっけなく終わる。
終わると何度でも何度でも聞き直してしまう誠に不思議な演奏である。
「ザ・ラスト」ではなくモーツァルトは永遠に続いていく…

0

LP時代の昔から「新世界」と言えばアンチェル・チェコフィル。
どこにもなんの欠点もない完全無欠の永遠の名盤。
チェコフィルもアンチェル時代が最高のサウンドだと私は確信する。
対抗盤はいろいろあってキリがないが、ケルテス・ウィーンフィル、カラヤン・ベルリンフィル、それにコシュラーがいかにもチェコという名演奏を聴かせてくれる。
新世界・運命のカップリングが人生ではじめて買ったLP.。擦り切れるまで聴いた。
この聴き飽きているはずの超有名曲だが、アンチェルの演奏はいつ聴いても強く、優しく、懐かしく訴えかけてくる。
2楽章のおなじみの「下校の音楽」もしみじみとしていてこれ以上ないほど「生きていることの哀しさと素晴らしさ」を感じさせてくれる。深い深い音楽だ。
アンチェルが戦争で家族全部を失いそれでも音楽する喜びに満たされている、まさにそれこそがこころの「新世界」であったのであろう。アンチェルにとって新世界とはアメリカのことではなく、過ぎ去った不幸と今音楽をする慰めの世界であったのであろう。私はそう思う。

1

このセットの中でひときわ光彩を放っているのは、ブルックナー交響曲第5番だろう。何しろ版がシャルク盤である。
それが何の断りもなくセット化されている。
昔は、ブル5のシャルク盤なんか誰も相手にしなかった。
唯一クナッパーツブッシュがウィーンフィルとステレオで録れたブルックナーがこの5番であった。
もちろんシャルク版である。原典版の時代になっていたのによくデッカが許したものだ。以後、契約の問題か、クナはデッカにブルックナーを録音していない。
クナ・ウィーンフィルでブル8のスタジオ録音が行われていたらどんなに音楽の宝になっていたことだろう。
ロジェヴェンが原典版とは全く異なるシャルク版で正規録音を遺してくれたのは、ブル5シャルク版にお墨付き・市民権を与えた画期的な業績であろう。
演奏もゆっくりしたきわめてまともな演奏でシャルク版が悪意のある改訂版ではないことを分からせてくれる。
クナが1959年にミュンヘンフィルと演奏したブル5は、当時の新聞にはレアな曲目として紹介されている。
クナやヨッフムの努力でブルックナーがコンサートの通常演目になった証としてロジェヴェンのブル5シャルク版を評価したい。

0

ルイージのマーラーも、8番、4番、6番、5番と聴いてきていよいよ大好きな2番「復活」を聴いた。
「復活」はマーラーの愛弟子であり初演にも参加したクレンペラー・フィルハーモニアを定番で聴いてきた。特別なことは何もしていないのに心に染み入る演奏をするのがクレンペラーである。
ルイージの復活を聴く前に師匠のミラン・ホルヴァートの復活を聴いた。バーンスタイン盤に匹敵する「隠れ名盤」として一時話題になった演奏である。
ホルヴァートの演奏はバーンスタインというよりテンシュテット・NDR盤(海賊盤だが音はいい。)の演奏によく似た爆演だと思った。両者とも爆演でも理性を失わずちゃんと手綱を締めているところが凄い。
では肝心のルイージの復活はどうなのか。
確かに師匠のホルヴァートの復活に骨組みは似ている。
だが、ホルバートやテンシュテットやバーンスタインのような情に傾いた爆演にはなっていない。
なっていないのだが、爆演の中身はちゃんと伝わってくる。迫力も大したものだ。ライヴだから音楽にノッテイルし推進力も半端ではない。
これは、クレンペラーの何もしない凄さと師のホルヴァートの情を両方とも兼ね備えている。
このことは凄いことである。復活をライヴで録った意味が分かる。
ルイージは復活で自身のマーラー演奏のフォルムを完成させたように思える。
まだCD化されていないマーラー交響曲演奏が本当に楽しみだ。

0

ルイージのマーラー交響曲は8番、4番、6番の順で聴いてきた。
今回、5番を聴いた。
演奏後の拍手がないから、これはスタジオ録音か。
結論から言うと「いいぞ、ルイージ、いけいけルイージ」という感じか。
4番、6番よりずっといい。
何より知と情のバランスが取れていて聴いていて心地よい。
4楽章の超有名なアダージェットも甘ったるすぎず、かといってそっけなくもなく丁度良い。アダージョは「カラヤン アダージョ」で超有名曲になったが何回も何回も聞いているともたれてくる。
ルイージのようにあっさりこってりやった方がよい。
全体の中にアダージェットをうまく落とし込んでいる。
その他の楽章も有機的なつながりが顕著で、ぶつぶつ切れるように感じられがちなマーラーの音楽に統一感を与えている。
最近の演奏にもこんなに良いものがあるのだ。
音質も優れているし、オーケストラもうまいから定番になるかもしれない。

0

Mahler: Symphony No.6

ファビオ・ルイージ、他

4:
☆☆☆☆☆
★★★★★

ファビオ・ルイージのマーラーはN響との8番の2部がとてもよかった。美しくてしっとりしていて慰めに満ちていて透明で…聴いていると静かな落ち着いた船に乗って心静かに落ち着いて川を流されるような良い気持ちになって自然に時が流れて行って気が付くと曲が終わっているような、そんな感じがした。
8番がよかったので、少し前の録音だが4番と6番を聴いた。
正直なところ8番ほどの感動はなかった。
4番は「歌」があってイタリア人指揮者には合っているのか6番よりはよかったが、まだ成熟途中の演奏という気がした。
6番ははっきり言って物足りない。この曲は一応「悲劇的」という名が付いているが随分とのんきな音楽に聴こえる。これはドレスデンでのブルックナー9番を聴いた時にも同じような感想を持った。
まだ巨匠として確固たる個性を作り出す前の演奏だ。
ルイージの師はミラン・ホルヴァートなのは有名だが、ホルヴァートの「復活」はバーンスタイン並の凄い演奏で、ルイージとは大分違う。今、タワレコさんにルイージの復活を頼んでいるから、近いうちに聴き比べがが出来るので楽しみにしている。ルイージの5番もまだ届いていないがこれも楽しみだ。
ホルヴァートの6番も届いていないが、全部聴いたら、師弟のマーラー演奏論みたいなものをほかの頁で書いてみたい。果たしてルイージは巨匠になるべき大器なのか私にはまだ未知の指揮者だ。

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私が朝比奈のブルックナーを聴くようになったのは、同じ職場に朝比奈信者がいたからである。半ば強制的にジャンジャンの全集を買わされた。
それまで朝比奈のブルックナーは近くの図書館で借りた0番のLPがよかった。それから聖フローリアンの7番もよかった。全集もジャンジャンのほかにこの全集も持ってるし、家には数個の朝比奈ブルックナー全集が転がっている。
私は、朝比奈のブルックナーはほとんど映像付きのDVDで視聴した。そしてえらく感動したものである。
ところがである。朝比奈が長逝してから全然聴かなくなった。
あの朝比奈人気は何だったのだろう。先頭に立って旗振り・プロパガンダしていた宇野功芳が死ぬと火が消えたように話題に上らなくなった。
演奏会場に足を運んだ聴衆にありがたいオーラを放っていたご本人はいなくなり、残った音源だけで勝負せざるを得なくなった。
私も、この全集をいくつか聴き直してみたが0番以外は全然心に響いてこない。全集も個々バラバラに買った朝比奈のブルックナーも数が多すぎて何が何だかサッパリ分からない。
朝比奈はこんなにブルックナーの全集を作る必要があったのか。
ヨッフムだって2回全集を作っただけだ。
そのほかに、朝比奈のベートーヴェン交響曲全集、ブラームスの交響曲全集、マーラーからリング全曲まで膨大な数のCDが存在する。
しかし、買ったはいいが封も切っていないものがいっぱいある。今後切る見込みもない。
私は山田一雄のファンである。この人は日本のマーラーの先駆的開拓者であり、8番などを聴くと心の底から感動する。日本にもこんなに凄いマーラー指揮者がいたのかと感服する。しかし、それを記録した録音はちょっぴりしかない。これはどうしたことなのか。
朝比奈と山田は日本のクラシック界を牽引した2巨人なのに、朝比奈は録音過剰、山田は聴きたい録音もなかなか出てこない。
こういう現状をレコード会社とプロパガンダをまき散らす「音楽評論家」は考えてほしい。日本はレコード批評の貧困大国である。ろくな演奏批判の本が出ていない。若い人は頑張ってほしい。
詳しくは書かないが、ブルックナー交響曲全集なら、若杉弘・N響の方がずっと私には優れた演奏に聴こえる。
音源だけで勝負しなければならなくなった今現在、朝比奈のブルックナーを再評価するなら、良心的な評論がし直されなければならないだろう。

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ハスキルのモーツァルト・ピアノ協奏曲第23盤は永久不滅の名盤である。
この演奏を聴いてこの曲の虜になり、モーツァルトの最高傑作はこの23番と「プラハ」とレクイエムだと思うようになった。
プラハとレクイエムには名盤がいくつもあるが、23番だけはこのハスキル盤は別格で、ほかの演奏で聴いても決して満足することはない。
録音もモノラルの最上級で、バックのパウル・ザッヒャーとウィーン響も最高だ。
このハスキルの23番は人類最高の音楽遺産の1つで間違いない。

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ブルックナー交響曲第7番で、このクナッパーツブッシュ・ウィーンフィル1949年(ザルツブルク)の演奏ほど深く心に染み入ってくる演奏はない。
第1楽章冒頭のウィーンフィルのチェロの深い深い響きを聴いただけで深い深い心の営みにいやおうなしに入ってゆく。
適切なテンポ、これ以上はない楽器のバランスと響き合い、時間とともに深い深い心の底に沈潜していくような神聖さ、全体の構成の見事さ…言えばきりがないほどの演奏の最高・究極の行為が哲学をもって進行する。残念だが、最近の演奏からはそういう気持ちが湧いてこない。
クナッパーツブッシュ・ウィーンフィルは神の化身としてこの演奏を司ってゆく。
演奏がどうのこうのなどの批判は薬にしたくとも無い「凄い」演奏である。
1949年の音響のよくないザルツブルクでこんなによい音で聴けることもほとんど奇跡に感じる。
orfeoのマスタリングは音を薄めたように厚みがなく聴こえる。
私はarkadiaの古いCDで聴いているが、この方が演奏の実態をよほどよく伝えている。
arkadiaはイタリアの海賊盤だが、orfeoのひどいマスタリングを上回ることもある。

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今まで、ブル8と言えば、古くはフルトヴェングラー・ベルリンフィルとクナッパーツブッシュ・ミュンヘンフィル、比較的新しい演奏ではチェリビダッケ・ミュンヘンフィルが定番だった。
カラヤン・ウィーンフィルのこの演奏は今まで通常盤で聴いてきたが、ずっとこころに引っかかるものがあって、esotericのSACD盤で聴き直してみた。
通常盤ではきつい音に感じたが、esoteric盤では随分柔らかく自然体の音になった。
カラヤンの演奏に対する印象も随分と変わった。
カラヤンはベルリンフィルを指揮するときは随分と肩ひじ張っているが、同じウィーン人同志でしかも最晩年のカラヤンが指揮するウィーンフィルを指揮したこのレコードは、老指揮者をウィーンフィルがやさしく抱えるように支えており、カラヤンもそれに全く身を任せているようにみえる。
「楽団の帝王」などとプロパガンダされてきたカラヤンがその重責を逃れて音楽を「楽しんでいる」ように聴こえる。
だから、この大曲がフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュのような「圧」を感じることなく自然に耳に届く。身構えなくともこの大曲に自然に浸ってゆく。そういう快さが最晩年のこの演奏を決定的にしている。
全てを神(宇宙・森羅万象の創造者)に任せきってたじろがない。
最晩年のカラヤンの演奏には、これが最期の演奏ではないかという、生への憧れと死の受容と諦念が自然に音化している、そういう自然さと柔軟さにあふれている演奏なのだと強く思った。
そう感じさせてくれたesoteric盤になぜか感謝したい気持ちになった。

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もう出すものがなくなったのか。
フルトヴェングラーなら何でも買うファンがいることは事実だ。
でもチャイコ5番とハイドンv字では無理だろう。
チャイコ5番は聴衆の勇み足で演奏が中断?するが、巷間言われるほどワルイ演奏ではないことは認める。
しかしである。
「グランドスラム」は、「正規メーカー盤より良い音」で聴かせるのが最大の売りであったはずである。
LP初期盤からの板起こし商品の頃は、劣化したオリジナルテープにない新鮮さがあり「グランドスラム」の意義は十分にあった。LPの出典もきちんと書かれてあった。
次に出してきたのは、テープ起こしの歴史的演奏のCD化だった。これにも良いものはあった。
が、テープがどこから持ってきたかものなのかの肝心なオリジナルテープの出どころの記載はなくなった。
だが、アセテート盤からの復刻が、従来盤より良い音で聴けるのは無理なことは素人でも分かることだろう。
かてて加えて、フルヴェンのチャイコ5番は入手困難盤でもなく、ハイドンV字は日本では不人気曲である。V字が好事家の話題に上ることはほとんどない。リヒャルト・シュトラウスのティルとおなじである。ドイツ人には分かっても日本人にはピンとこない曲もあるのだ。
平林氏も歴史的名演奏の聴きすぎと書きすぎ、CDの出しすぎでだんだん宇野功芳に似てきた。同じものをこっちでは褒め、あっちでは貶すという矛盾を起こしていて自覚がない。
突っ走るだけでなくこの辺で自分のしてきた仕事を顧みてこれからすべき仕事を考える時期に来ていると思うのだが、「復刻の大家」に向かっていいすぎだろうか…

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チェリビダッケは、「音楽」は奏者と聴者の協同探求の中にしか産まれないと考えていたから、「録音」を商業化することをかたくなに拒んだ。
しかし、奇跡というものは起こるものだ。
CDから発せられるチェリビダッケの「音または響き」は「私の魂」と協同探求し、時々刻々と「尽きない感動」を産んでいく。
いかにふだん聴いているものが安っぽくインチキなまがい物であるかを徹底的に私に感じさせ、私を「真実」に追い込む。
これがほんとうの「レコード芸術」に違いない!

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カラヤンはバッハから現代音楽、イタリアオペラまで器用に一流の演奏を遺したが、どうしてもこれはカラヤンでなければという演奏は意外に少ない。むしろ「アダージョ・カラヤン」に代表されるように小品名曲などがおはこだとも思ってしまう。ベートーヴェンもブラームスもブルックナーもマーラーもどうしてもカラヤンでなければ…というものでもない。支持者は多いけれどももっといい演奏は山ほどある。
が、リヒャルト・シュトラウスというと事情は違ってくる。
やはり、リヒャルト・シュトラウスはカラヤンでなければ…である。交響詩・オペラ何を聴いてもよい。
対抗馬はリヒャルト・シュトラウスと親しかったベームだろうが、リヒャルト・シュトラウス自身は自曲の演奏は、ベテランならクレメンス・クラウス、若手ならカラヤンに演奏してもらいたい、と言っていたそうである。
フルトヴェングラーの演奏は、自分が思っているのとは違うが、こういう演奏もあってよい、と言っていたらしい。
特にツァラストゥラは断然カラヤンがいい。ショルティやライナーがシカゴ響を指揮したものがかろうじてカラヤンに迫る演奏である。
カラヤンがリヒャルト・シュトラウスを指揮するときはまるでリヒャルト・シュトラウスが憑依したようだ。
ツァラストゥラはウィーンフィルとベルリンフィル新旧のスタジオ録音があるが甲乙つけがたい。
リヒャルト・シュトラウスだけはカラヤンのがあればあとはいらない、と宇野功芳にならって言ってみたい。

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チェリビダッケは終生、クナッパーツブッシュを罵倒し続けた。
これはなにもチェリがクナを軽蔑したり、馬鹿にしていたのではないことは、同じミュンヘンフィルを振ったブル8を聴いてみればすぐに分かる。
クナはレンガを丁寧に積み上げていってやがて大伽藍になるという演奏を最初から最後まで徹底的にやっている。その根気と律義さとそこから出てくる宇宙的な巨大さは一体何に例えたらいいのだろう。「人格を持たない森羅万象の全ての創造神」といっても決して過言ではない。
これを聴いて人生観も変わらず冷静でいられるひとがいるのだろうか。
真の芸術とは人生変革の大事件であることをクナは身をもって教えてくれる。
チェリビダッケのブル8は、コップの水を次のコップにこぼさずに移し替えていく、これも気の遠くなるような運動である。
テンポというのは、哲学的・心的時間のことである。物理的な機械的な数量化される時間とは違うのだ。好きなことをやっているとき時間は短くなり、つまらない話を聞く時の時間は限りなく長い。こういう経験は誰もしているはずである。
そう思って聴くと、チェリの演奏は決して一般的な意味では「遅くはない。」いつでも丁度良い時間・テンポである。これはチェリがフルトヴェングラーから学んだ一番大きなことである。
30年という時代差はあってもチェリとクナの演奏はよく似ている。不思議なことである。
まったく音楽創造のフォルムが違う2人の偉大な芸術家が結果として、同じ業績に到達している。
クナはリハーサル嫌いという特性で、チェリは徹底的にリハをすることによって、演奏という大事件を起こしているのである。
チェリのクナに対する罵倒はこういう芸術創造の秘密から解くことができるような気がする。
チェリが日本を愛し日本のサントリーホールで臨むべき最高のブル8の録音を遺してくれたことを日本人として誇りに思う。
チェリは日本で一世一代の仕事を遺していったのだ。

1

ブラームス交響曲第4番について書く。
フルトヴェングラーの同曲には同じ時期のベルリンフィルとウィーンフィルの演奏が残っているが、オルフェオのウィーンフィル盤は音がじゃりじゃりしていて聴きにくい。
旧EMIの4番はずーっと昔からLPで聴いているから、聴きなれてしまっている。これがスタンダードとして頭にこびりついている。
ターラ盤はだいぶ後になってからターラのCDで聴いたが、そんなに印象に残っていない。
タラ盤の音は輪郭がはっきりしているが、硬くてやや緊張していて聴き疲れする。
これに対してEMI盤はもっと余裕があってゆったりとしていて、曲にノッテイル感じがする。演奏そのものはほとんど同じだからちょっとした違いが私の頭にブラームスの違うイメージを生むのだから、演奏というものはほんとうに不思議なものである。
事実上はフルトヴェングラーの唯一の愛弟子{最後は決裂したが}であるチェリビダッケがレコード録音というものを最後まで信用しなかったのもフルトヴェングラーのこの2つのブラ4を聴くだけでもなんとなく分かるような気がする。
とすると、我々がいまだにフルトヴェングラーのブラームスやチェリビダッケのブルックナー交響曲8番をレコードで聴いてそれに感動し、人生が変わるほどの衝撃を受けるのはなぜなのか。永遠の謎である。
本当の芸術とは、ムード音楽を聴くような気楽な感じではなく、辛い人生に真っ向から立ち向かい、人間の本来的な「よく生きる」ことに目覚めさせる深刻な「事件」ともいうべきことなのかとも思ってしまう。
フルトヴェングラーとチェリビダッケは創り出す音楽は随分違うが、人生に衝撃を与えるという意味ではほんとうによく似ているように私は思うのである。

0

久しぶりでフルトヴェングラー・NDRのブラームス交響曲第1番を聴いてみた。
普段はウィーンフィルかベルリンフィルで聴いている。
NDRとの演奏はこれ1つで、ベルリンフィルでコンサートマスターをしていたエーリッヒ・レーンが在籍していたので昔馴染みとの共演で白熱演奏になった、と言われている有名な演奏だ。
今度聴いてみて新たに思ったことは、この演奏はかなり落ち着いてじっくりと演奏されており、全体の見通しが随分よいように感じた。
ティンパニの強奏も以前は気になったが、デッドな環境の中での演奏なので、丁度よいたたき方だと思った。その時の全ての条件を考慮して最高のテンポを設定するというフルトヴェングラーの音楽哲学が活きている。そんな演奏だ。多分フルトヴェングラーでなければなしえない演奏であろう。
ティンパニと管楽器の音色はとてもきれいに録れている。弦もいかにもドイツのオーケストラという今では失われてしまった締った音だ。
鑑賞するのには申し分ない。今までと違う印象をもった。
この最初に出たターラ盤が一番音がよいような気がする。
それにしてもフルトヴェングラーの創り出すブラームスの音世界はどれも音の古さを乗り越えて私の心に届く。
フルトヴェングラーのそういう特別な音楽がレコードに刻まれて遺っているのは世界国宝と言って大げさではないと思う。

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あまりにも当たり前の話だが名演である。
今まで、モツレクはもっぱらベーム・ウィーン響の冷厳な演奏で聴いてきた。
歳を取ったせいか、今はこのウィーンフィル盤のぬくもりが恋しくなった。私の耳もいくらか進歩したのかもしれない。
あと何回くらいこの名曲・名演が聴けるのだろうか…

2

全部が名演で録音も素晴らしい。
私はモーツァルトの交響曲の中では「プラハ」が特別に好きである。
あまたある「プラハ」の中でクーベリックのはシューリヒトのそれとともに別格の賜物である。
私は「プラハ」をカラヤン・フィルハーモニア管のLPで繰り返し繰り返し聴いて好きになった。
だからあまり話題には上らないけれども、このカラヤン盤はとても好きなのだ。後ほどのカラヤンのような厚化粧を施されていない「プラハ」は素朴で純粋でとことんモーツァルトを演奏する喜びに満ちている。演奏とは不思議なものである。

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ベームのモーツァルト交響曲は、ベルリンフィルの全集とウィーンフィルのDVDを持っているが、名盤の誉れ高いがもう一つピリッとしたところがなくやはりベームはスタジオ録音は元気に欠けると思っていた。
ところがである。この1955年コンセルトヘボウ管との録音は、それを覆す全く素晴らしい演奏である。
まずなんといってもこのころのコンセルトヘボウ管の美音はウィーンフィルもベルリンフィルも真っ青な美音である。これほどまでに美しくうまいオーケストラをほかにどこを探したらあるというのだろうか。
かてて加えてベームのきりりと引き締まった骨太のしっかりした演奏が大変よろしい。
モノラルというだけで聴かないひとがいるが、へたなステレオより円熟したモノラルの方が素晴らしい場合がいっぱいある。ステレオにはステレオのモノラルにはモノラルのよさがあることをこのレコードは教えてくれる。
ライヴを聴いてみれば、それはステレオで鳴っているわけでもなく、モノラルで鳴っているわけでもない。当たり前のことだが…
なお、私のもっているセットには同じコンセルトヘボウ管との26番・32番も入っているがこれももちろん名演である。

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日本の指揮者で日本の地方のオーケストラでブラームスの交響曲全集が聴ける。こんな幸せはない。
最近フルトヴェングラー・ベルリンフィルでブラームスの交響曲全集を聴いていた。ぎりぎりのところまでいって羽目を外さないスリリングで超個性的・超説得力の限りを尽くしたフルトヴェングラーにしかできない・許されない神業的演奏。
それに対して秋山和慶さんの演奏は指揮者とオーケストラのみんながいっしょにやっているようなほっこりした演奏。秋山さんのお人柄がそのままブラームスになったようなほっとする演奏だ。ライヴで聴けたひとがうらやましい。
私個人としては交響曲第3番が好き!
あたかも秋山さんが自分の人生をじっくりなぞって納得していくようなあたたかく落ち着いたおとなのブラームスに仕上がっている。
どの交響曲もそんな感じで、こんなにこころよく聴けるブラームスの交響曲全集も珍しい。秋山さんはほんとうによいものを遺してくださった。
第4交響曲は多少録音が他の3曲に比べて聴き劣りするような気もするが、フルトヴェングラーの古い録音も平気だからあまり気にならない。人間の耳とこころはほんとうに不思議なしかもすぐれた受容体であると私は思っている。

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ヨッフムのブルックナー交響曲全集、新旧の全集を通常盤とタワレコのSACD盤で持っている。
ヨッフムのブルックナー解釈はフルトヴェングラーの影響を強く受けているように思う。フルヴェンのような神秘性はないが絶えずテンポをギヤチェンジしながら曲は進む。
両全集で私がよいと思うのは、1・2・5・6番だ。特に1・6番はよいと思う。ブルックナーのカタルシスに浸れる。2番はジュリーニ・ウィーン響が天国的な美しさだ。
7番は最晩年日本でコンセルトヘボウ管と奏した枯れた演奏が最美だ。8番は日本でのバンベルク響とのものが力のみなぎった名演だ。9番はベルリン放送交響楽団とのビデオが最初から最後まで緊張の途切れない完成度の高い演奏だと思う。
ヨッフムのブルックナーでは若いハイティンクを補佐してシェフをしていたコンセルトヘボウ管との最晩年のライヴが最高の境地だろう。
ヨッフムのブルックナーと言えば、ブルックナー演奏の定番だったが、その後、チェリビダッケやヴァントなどの「偉い」指揮者が出てきて、コンサートでも当たり前に取り上げられる演目になって、多少印象は薄くなった。
が、今日盛んにブルックナー演奏がプログラムにもかかり、レコードでもブルックナーが普通に聴かれるようになったのはやはりヨッフムというブルックナー使徒の存在が大きいように思われる。

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ブラ4、これはもう名演などというのもはばかられる「神の声」だ。
第1楽章のはじめから、天使が木漏れ日の間から透明な神の声を降ろしてくるような柔らかい響き。
新旧スタジオ録音が、楽団のため・聴く人のために奏したブラームスなら、この演奏は自分のために奏した音楽。おのれの心情に従ってしかもそれが万人の心に触れる音となり音楽となり、普遍になる。
おお、なんという奇跡!
この響きの真っただ中に身を置く快さ、ここに極まれりだ。
指揮者というものはこんなに凄いものだったのだと気付かせてくれる究極の1枚。

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