カスタマーズボイス一覧

言う者は知らず、知る者は言わず / 早川義夫

好きなライブアルバム
・浅川マキ・ライヴ 1971年新宿紀伊国屋ホール
気心の知れたメンバーを集め、思い入れのある会場でやって、ようこそって客にそれを観てもらう、というアットホームなパーティー感が出てて、たまらん、1人の客にからんでいくMCも。
・岡林信康コンサート 1970年神田共立講堂
MCといえば、ユーモラスで弱くて強い、岡林信康の語りが好きだな。たとえば、「今日たぶんこの会場に来た人と同じく いったいなにすることがいちばん今ほんまにええのやろとか なにしてるなにしたら生きてると感じられンのやろということは ぼくもさっぱりわからないのであって いまさらサラリーマンにこの顔で戻れへんし学校もやめてしもたし家に戻る気もないし家をつくる気もないし ほんとうにどうしたらいいのやろというのが今の心境ですけど ここで踏んばってぐっと耐えたらなんかうまれてくるんやないかという気もしますけど 安易に反省して学校に戻ったりサラリーマンになったり家に帰ることは やめたいとぼくは思ってますけど。絶望的な前衛でがんばっていきたいと思います。では『私たちの望むものは』」
・水前寺清子オン・ステージ/新宿コマ劇場実況録音盤
「…青春とは何だ? 好きな男の子と毎日会えて愛を語り合うことだろうか? 腹いっぱいうまいものが食えて 朝寝坊ができて 山に行けたり 海へ行けたり できることだろうか? ちがう。青春とは“いま”ということだよ。通り過ぎようとする時代の断面に刻み込む“いま”なんだ…」とか最初に前口上として星野哲郎が朗読してくのだが、途中、客席から絶妙の間合いで「はやくやれ」とヤジが飛ぶ。来たあー。
・ロリータ18号ライブ 1995-1996
昔上京後初めて観たライブがロリータ18号の棒じゃないよ捧だよシェルターワンマン。これはそれよりもっと前のライブ集。シェルターといえば、ブッチャーズのライブ超すし詰めで超ドキドキ。green on redも必聴。
・早川義夫 言う者は知らず、知る者は言わず
何度聴いたことか。共演者がよい。誰も名を知らないけど詩人とか絵描きとかどこからともなくやってくる風月堂の歌や、バナナホールの音も。

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アップルインザダークさんが書いたカスタマーズボイス

(全168件)

言葉は旅立ちたいのか、それとも根を下ろしたいのか。
言葉は旅を続けたいのか、それとも故郷に帰りたいのか。
言葉は世界と出会いたいのか、それとも世界と別れたいのか。
言葉は切り刻まればら撒かれたいのか、それとも拾い集められ編み上げられたいのか。
故郷イギリスを離れ、インド、パキスタン、アメリカ、上海、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、と世界各地を旅してきた西の涯の言葉、英語(イングリッシュ)は、故郷の島国にはたして帰りたいのだろうか。「ロンドン世界の最大都会」かどうかはわからないのと同様、「英語世界の最大言語」かどうかも霧の中。故郷を失くし、母の歌を忘れた言語は、うしろの山にすてましょか、せどのこやぶにうめましょか、いえいえそれは詩人にまかせましょ、それとも画家をよびましょか。
というわけで、イギリスで生れ、カナダで育ち、パリを彷徨い、モロッコで店主となり、アメリカ人のジャンキーと意気投合した、画家詩人・詩人画家であるブライオン・ガイシンがロンドンで行った朗読ライブ・パフォーマンスは実に興味深いのであって。
しかも、共演者は、
 TESSA(cello+bass, the Slits)
 STEVE NOBLE(drums, Rip, Rig and Panic)
 GILE(percussion, Penguin Café Orchestra)
 RAMUNTCHO MATTA(guitar+electronics)
となってて、パンク・ムーヴメントを経た1982年ロンドンの時化(しけ)と凪が聴ける。
言葉は旅をするのだが、言葉は船なのか、いやむしろ水なのか、フィッシュ・アンド・チップスをつまみながら考えてみる。
ブライオン・ガイシンとともに英語は故郷へと帰れたのか、帰れなかったのか。
そしてブライオン・ガイシンとともに英語は旅立ったのか、旅立たなかったのか。

それでは人々は多様性を獲得しようと求めてこの現代のこの地球に生まれ落ちてくるというわけか? だがむしろ、人々はここで無様性に嵌り込んでいってしまうのだと僕は考えておくべきだったろう。
波打ち際の浅瀬で水遊びに興じるかようなネットサーファーたちが芋の子を洗うように犇めき合い、もはや遠洋へと船出する者は稀な、極のない時代。極がなければ多様性が生まれるのかというと、そこにあるのは無様性。
テレビのチャンネルはいくつもあれど、どれも同じような番組が流され、選挙候補者の掲示板には似たり寄ったりのポスターがずらりと並ぶ。レッテルだけは多様に見えるが、中身はすべて同じシステムで作られてる千篇一律で陳腐なもの。
多様性が叫ばれる現代に一様に氾濫する似たり寄ったりの音楽。どれを聴いても同じに聞える。深く耕されない土に生え蔓延るただの草、草、草。
仮想世界、仮想社会、仮想通貨、そして仮想音楽? いや仮想流行の時代だからこそ、実想しましょうよ。そうでないと、かりそめのままの人生だから……。土星の輪は、ファンタジーの産物ではなくって、触れば火傷(または凍傷)もするものであって、むしろ実想の極へとあなたをいざなっているように見えませんか?
極東ファロスキッカーは、こんな無極の時代にあえて極を唱えて実想の多様性を音楽として示してくれる実に稀有なバンドだ! 年を経た実人生とライブハウスでの実演葬が仮想を仮想のままでは終わらせない……。
土星そして天王星、海王星、冥王星へと太陽系の最遠の極みにかりそめでなく息も絶え絶え意気揚々と向かっていきませんか?

ジ・エンド。日本語で言うと、どん詰まり。
どん詰まりには壁があるというよりはむしろ、ドアがあると僕は言いたいのだが。
開けて、閉めて、開けて、閉めて、開けて、閉めたら、入れない、のがドアというものであって、
ドアを開けるからこそ、中に入れたり、外に出られたりするわけで、
もちろん誰か先人が或るドアを開けっ放しにしておいてくれたおかげで入っていける場合もあるんだけど、
閉まったままになってる肝心なドアを見つけ出して、自分の意志でそれを開けなきゃならない場合も当然ある。
1950年生まれの遠藤ミチロウがザ・スターリンを結成したのは、1980年のことだから、
遠藤ミチロウは30歳という高齢でパンク(当時すでにパンク・ブームは過去のものになりつつあった)というドアをえいやッと開いたわけだ。
遅れてきた青年ならぬ、遅れてきたパンクスというところだが
(正確に書くと、ザ・スターリンがライブ・デビューするのは6月で、遠藤ミチロウの誕生月は11月だから、
ザ・スターリン結成時は、遠藤ミチロウは30歳を目前にした、まだぎりぎり20代の29歳だったのだ)、
コケシドール→バラシ→自閉体→ザ・スターリンという具合に、どうも遠藤ミチロウは、
閉じ籠もる、開け放つ、閉じ籠もる、開け放つ、という二極の振り子運動による試行錯誤を繰り返していたようで、
ザ・スターリンという把手(ドアノブ)をつかみ、パンクのドアを開いた遠藤ミチロウは
渦中に入っていったのか、それともどこか圏外へ出ていったのか。
(ドアにもいろいろあって、自動ドアとかどこでもドアとかスウィングドアとか回転扉とかいった、特殊なドアもあるけど、
やっぱり大事なドアは自分で正しいノブをつかんで正しく回さないと開かない……。)
で、遠藤ミチロウが最後に組んだバンドがジ・エンド。
遠藤ミチロウはこれで閉じようとしていたのか、それとも閉じつつも天井にでもドアを見出そうとしてたのか……。
囚われの天国、野放図の地獄。
軟禁されたハードコア、強硬なフォークソング。
押し殺された呪文、解放される予言。
血塗られた前世と蝕まれる来世の間で今世を泳ぐ魚は、水槽で溺れてるのか、川の流れに沈んでるのか、
それとも地上絵となって天空にアイシャドウの目配せしてるのか。

アフリカといえば、サバンナの大草原、大平原、あるいは砂漠地帯が見渡す限りどこまでもどこまでも広がっているような大地のイメージを抱きがちだけど、たとえばエチオピアに行けば、山あり谷あり台地あり湖あり大都会ありであって、山のあなたには何があるかわからんし、山の上でどんな野衾(のぶすま)が待ち構えてるんかもわからん。山あり谷ありの音楽があるように、山あり谷ありのアフリカもあるのであって、そこには何が飛び出してくるかわからん面白さがある。それにしても、絵になる風景というものがあるのと同様に、音楽になる風景というものも存在するのだな……。ムラトゥ・アスタトゥケの音楽はそんなエチオピアの音楽を西洋音楽のやり方を採り入れて演奏するものだが、しかし外面的な西洋音楽の要素よりかは核心にあるエチオピアの要素の方にむしろ懐かしいような親近感を持ってしまうのはどうしたことだろう。長い山道を登り切った先にあったのは秘境ではなくって、ふしぎな故郷(ホームランド)であったのか。ムラトゥ・アスタトゥケの音楽を聴いていると、エチオピアが秘境というよりは、山を下り、海を渡ったところにある西洋先進諸国の方がよっぽどか秘境もしくは限界集落に思えてくるから摩訶愉快。エチオピアの人たちはみんなで楽しくちょっと高いところに住んでるから、それは“孤高”ではなく“衆高”だ! 高原っていうのは、いわばでっかいでっかいお立ち台みたいなもので、太鼓も叩きたくなろうし歌も歌いたくなろうしラッパも吹き鳴らしてみたくなろうし音楽に合わせて踊りたくもなろうというもの。そんな大小さまざまなお立ち台でできている国がエチオピアであって、お立ち台上らりゃそんそん、エチオピアはアフリカのお立ち台。山あれ谷あれ。たとえ平坦でも平凡であるな、山っ気に満ち、谷底を跨げ。

力業(ちからわざ)、軽業(かるわざ)、離れ業(はなれわざ)。
ロックンロールバンド外道の何が凄いか、というと、
3ピースでこれだけ骨太で、繊細で、奥行きのある音の空間を造園している、
というところにあるだろう。
そして、加納秀人さんの掛け声に呼応して、
聴衆の有象無象がこの音の空間になだれ込んで来て味方につく、
その天衣無縫さ、いや天音無縫さがじつに見事。
日本語でロックをしようとすると、やけにおしゃれになったり、
むやみに泥臭くなったりしがちだけれど、
外道の場合は、おしゃれでもなく泥臭くもない瀬戸際で、
外国のセンスと日本の土俗とを道ならぬ音楽の道連れにして
楽しく華やかに演じてみせるのがまさに業(わざ)ありである。
世捨て人は孤独だが、道捨て人は明るく陽気だ、
外道にはガイドブックに載ってない風景と人情と味わいと井戸端と天気が
その日暮らしで待っているから。
世を捨てずして道を捨てよ、外へ出よう、
道を捨ててこそ、道を外れてこそ、
浮ぶ瀬もあり、歌う瀬もあれ。

嫁が欲しいんか妾が欲しいんか情婦が欲しいんか
矢も楯もたまらず、天上天下唯芽独尊
葱坊主咲く夢の丘を上り下り
散文が散らした花びら浮かぶ浅き川を渡り
油田に足をとられ、湧水に足をすくわれ
絶望は賞味期限切れ、祈りは酒精9%以上・果汁1%以下
意馬心猿街道をそぞろ歩き、ブラックコーヒーに微蕩をたらし
間違い探しに飽きたら、塗り絵に移ろう
塗り絵で色が尽きたら、クロスミュージックパズルにかかろう
何時にどこから誰とアフリカに上陸または着陸したものか、と
いつも地図を見ながら思案投げ首している少年よ
結ばれた縁が結ぼれてほどけないままうまく結べない王子のように
切ったはずの縁を切り直し切り返し切り刻む愚王のように
アフリカに音を馳せよ、倍化する梟とともに
そして自分の人生における不発弾を湾曲する腕力で掘り出して
野原で着火すべきか葬り去るべきか、ブラックコーヒーに微毒をたらし
罪を滅ぼすべきか罪に滅ぶべきか、ブラックコーヒーに媚態をたらし
ブラックボックスからマッチボックスを取り出し
マッチボックスから街を引き出し
街から魔を擦(こす)り出し
マンチェスターの瞳どもにくっきりと照らし出され映り出る曖昧模糊のそのアフリカでな占えや

米国ロサンジェルス出身、女性ボーカル老舗ゴシックバンド45 graveが今年で45周年ということで、おめでとうございます!
それはそうと、雅楽の世界には夜半楽という曲があるそうで、夜にしか演奏しない掟のいわくつきの曲らしい。夜になら、毒饅頭ならぬ毒音楽を毒酒とともにがぶりと齧ってみたくもなろう。世の中には音楽に毒や魔性を盛ろうとする人間もいるわけで。
そもそも人が毒に惹かれるのは、どうしたわけか? それはきっと毒が死への扉を微かに開いてみせてくれるからだろう。さて君はどの扉を選ぶ? 毒音楽という扉もあるんだよ、うっかりしてると気がつかないから、気をつけて。君にとって極めて重大な招待状は、たいがい何気ない場所に落ちてるか、思いも寄らぬ場所にすでに届けられてるものさ。
毒は苦い。火も苦い(灰が苦い以上、火も苦いと思いたい)。毒という一種の火で、君を炙(あぶ)り鍛えよ。焼き場の火で骨のみを残して燃やし尽くされ墓場に行きつくその日までに、君はどれだけの燃えさかる毒をその身に宿し、心中にその火をどれだけ熱く深く味わい、どれだけ苦み走る人生を潜り抜けていくことだろうか? 少年よ、大毒を、大火を、抱け!
 焼印や金剛杖に立てる春
 炎天の底の蟻等ばかりの世となり
 山の夕陽の墓地の空海へかたぶく
 たばこが消えて居る淋しさをなげすてる
 一人のたもとがマツチを持つて居た
  尾崎放哉

〽ぼろは着てても こころの錦
 どんな花より きれいだぜ
 若いときゃ 二度ない
 どんとやれ 男なら
 人のやれない ことをやれ
とチータはかっこよく俺たちのために唄ってくれるわけだが、
ポピュラーミュージックだろうが、
若かろうが年を食ってようが、
いやしくも音楽家たるもの、
人のやれない音楽をやってやる!
って志がなければね。
今回取り上げました米国ミシシッピのヘゼカイア&ザ・ハウス・ロッカーズは
人のやれない音楽をやってやろうという人間が3人集ってできたバンドだから、
このバンドが奏で出す音楽は、
人のやれない音楽の3乗なのであります。
ともかく、まずはメンバー紹介。
リーダーのヘゼカイア・アーリーは、
34年生まれで南部の寛いだ奔流のような感じのリズムを自然体で叩くドラマーだが、
ドラムを叩きながら自在にハーモニカを吹いたり歌を歌ったりとじつはかなり芸達者でもある。
次はトロンボーン担当で時々歌も歌う、ルイジアナ出身レオン“ピーウィー”ホィッテイカー。
生年はどうもはっきりしないのだが1899年頃らしく、
本作の録音時には80歳位であった模様。
若いときスクールバンドではいろいろな楽器に取り組んだみたいだが、
トロンボーンが一番性に合っていたようで、
プロとしてはトロンボーン奏者の道を歩んでいくことになった。
己の人生観とその心情を音色に滲み出させて吹き鳴らす、なかなか得がたい存在である。
最後はギタリストで48年生まれ最年少のジェイムズ・ベイカー。
クロス・スパニッシュ・チューニングにしたギターで
ベースラインを巧みに気さくに和やかに響かせる。
というわけで、ドラム、トロンボーン、ギターの個性的な3人が
ミシシッピで合流して出来た“ブロークン”なバンドで、
もちろんハーモニカと歌も自分らでやってるぜという楽しさもあり、
世界中探したって俺たち以外にこんな音楽やってる奴ら何処にいるかよ、
なっ、俺たちしかいないだろ、俺たちしかいねえんだよ、
っていう楽しさ、痛快さもあります。

魔天楼が高く高く伸びゆくにつれ、
戦争が低く低く忍び寄る、
そんなWARZONEにてしかと見定めるべきことは、
戦うべき本当の敵は誰で、
手を結ぶべき友は誰なのか、
そのドラッグ《賦活剤》は己を生かしめるものなのか、
それともいずれは殺すものなのか、
今いる場所から即刻立ち去るべきなのか、
最後まで踏みこたえ踏みとどまるべきなのか、
昼に行動を起こすべきなのか、
夜の闇に紛れて進むべきなのか、
垂直組織か水平思想か、
単純な図式で解決を図るほうがいいのか、
非公式なデマの群れのなかにこそ糸口を求めるほうがいいのか、
類が友を呼んだ仲間だけで行動するのか、
むしろ類を見ない友を呼んで仲間として遇するか、
そんな判断は逐一WARZONEのスピードと迫撃貫通力とで
両刀一断、斬り抜けゆけ、
冷徹に煮え凝(こご)り滾る言葉と己の存在理由とを
極部のそのコアからこのコアへと
着々時々刻々と送り届けながら。

繰り返される諸行は無常であって
たとえばクラスの席順が
ある日俄かに
あいうえお順からABC順に変わるかもしれんが
それでもやっぱりアダチ君はやっぱり一番前だろうし
ワタナベ君は相変らずずっと後ろの方に着座するだろう
とはいえ、席は乱れ散って
乱れ散って仲よしこよしも引き裂かれ
ばらばらになるだろうし
ザゼン・ボーイたちも最後尾にのそのそ移動して結跏趺坐することになろう
そもそも、zという奴は今でこそおしまいの文字として扱われてるのだけど
もともとはフェニキア文字7番目の文字ザインであって
剣・兵器を意味してた物騒なような頼もしいような輩で
それがギリシア文字では6番目の文字ζゼータとして使われてたのだけど
ラテン文字では最初は要らないとして捨てられてたのが
やっぱり要るってことでそれで最後の文字として
落ちこぼれてたのを拾われた
という経緯がありまして
当今のザゼン・ボーイたちが果して
落ちこぼれてるのを拾われた存在であるのか
それとも逆に落ちこぼれてるのを拾い上げる存在なのか
そんなことは全部知ってるような知らんような
顔をして、ともかく反吐が出るほどzにまみれて
せっかく出来上がってたジグソーパズルを電光石火で
叩き壊して、夕暮れの西日の残光の迸りを浴びながら
ありきたりでありきたりでない風景を組み上げようとして
いる少年は
話し出すきっかけとなるαアルファを探してるのか
最後通牒となるωオメガを求めてるのか
袋小路にいてるのかションベン横丁に彷徨い込んだのか
グリーン・アラスカでもがぶ飲みすれば
脳内回路の接点が恢復するか、もしくは乱離骨灰にバグりにバグりまわるか
してなんかピカンと閃くかもしれんが

暗い夜明けには
去っていく者と来たるべき者の影と気配が交錯して
でもとにかく、夜明けはやって来るんだ
だってちゃんと約束したんだから
だからきっとやって来る
暗い夜明けには
消えていく者の記憶と現われる者の予感が錯綜して
暗い夜明けには
哀しいさよならとはにかみがちなおはようが混じり合って
もし僕が去っていく者の側になったとしても
もし僕が消えていく者の側になったとしても
もし僕がさよならを言わなければならない側になったとしても
きみが僕の歌を口ずさんでくれるなら
僕たちはまた会えるだろう
なつかしい僕と若いきみは
若い僕となつかしいきみは
きっとまた会えるだろう
だってちゃんと約束したんだから
そうしてきみが流れを渡っていけますように
僕がたとえ流れに没する側になったとしても
きみは流れを渡っていけますように

快楽と懺悔。囁きと手紙。雨と傘。釘抜きとトンカチ。無法と逮捕。新星とブラックホール。流浪と軌道。発掘と埋葬。没義道と律儀。陸橋と踏切。爆薬と睡眠薬。工場と廃墟……。
しかしあれだ、工場と一口に言っても、いろんな工場があるわけで、町工場(まちこうば)もあれば24時間稼働の郊外の大工場もあり、職人技が光る工場もあればフルオートメーションシステムによって無人で製造されていく工場もあり、小ロット生産で図面が次々に入れ替わって種々の製品が作られていくところもあれば、ただひたすら同一製品を同一の規格で作りつづけていくところもあるし、屑の散乱するところもあればクリーンルームもあり、男だけの現場もあれば多くの女や外国人が働く現場もあり、素材を作る工場もあれば素材を加工する工場もあるし、加工品のパーツ類を組み立てる工場もある。
で、さて、3ピースバンドのdipの音楽を工場に喩えるとするならば、もちろんそのミニマル感がやはり町工場あるいは工房あるいは研究室を連想させるのだけれど、それと同時に時として造船所とか製鉄所とか造幣局とかの巨大工場の光景も彷彿とさせつつ、それでもやはりプラモデルが組み上げられていく子供部屋であったり、油と切粉と騒音にまみれた鉄工所のようでもあり、贋金造りが密かに行われている地下室に通じてもいるのが面白い。
dipという工場は、都会の片隅の居酒屋やバーと隣り合う場所に立地しているようでもあり、大自然小自然に抱かれた修道院風の建物のなかに設営されているようでもある……。
とりあえず夕暮れまでdipの工場または工房から聞こえてくる音と言葉に耳を澄ませ揺蕩(たゆた)い耽湎していよう、帰るに帰れず、堕ち着きもせず、次へ行こうとして、次に来るものを待ち草臥(くたび)れながら、自ら音のプリズム・音の回路・音の現像室と化しながら……。

この世の中には悪や孤独や絶望や暗闇や哀しみがこんなにもこんなにも溢れているというのに、なぜ僕たちはその上に歌のなかでまでも、悪や孤独や絶望や暗闇や哀しみを歌おうとするのか? なぜ君はそんな悪や孤独や絶望や暗闇や哀しみの歌が歌われる秘密の部屋へと侵入しようとするのか? そこへの鍵を狩人のように探し求めて。
僕たちは悪なしでは善を見出すことができないのか? 孤独なしでは絆に気付けないのか? 絶望なしには希望を抱くことができないのか? 暗闇なしには光を感知できないか? 哀しみなしには歓びを味わうことができないのか? 片耳だけでは世界の音をしっかりとは聞き取れないか? 喧嘩して傷つけ合い血を流さなければ恋人たちは愛情を確かめ合うことができないのか? ああ君の声を右耳だけで聴かせてくれ、それから今度は左耳だけで。そうして最後に両耳で聴いてみよう。君を愛そう、そして憎もう、そうして抱きしめよう。君にキスしよう、そして殴りかかろう、そうして抱きしめよう。君を撫でよう、そして犯そう、そうして抱きしめよう、強く激しく密に。
〽愛しあい憎みあっていたいから本気で汗を流す
 それはなんだか昔、片目ずつで見た夢のようだよ
 遠離る意識のなかで
 裸の男女が手を
 つないだ
 大きくなれよ
 パイオニアになれよ
遯(のが)れつつ核心に迫れ! 悪(にく)まずして厳しくせよ。知識と経験とを積め。そして、悪や孤独や絶望や暗闇や哀しみの歌をもう一度両耳で聴いてみよう、ブルー・ベルベッドに身を包んで、星の青い光を浴びながら、その青い深い影を青いスローな眼で見つめつつ、湖よりも深淵よりも青い君に惚れあった肩寄せて……。

世の乱るるとき、
暗夜、天に怪星瞬き、昼にも俄かに巨星墜ち、
地には夥しき蟲溢れ、作物を喰い荒し、
悪の華は狂い咲き、毒茸のみ肥え太る。
かつては麗しき音楽を奏でしその弓を
兇器となして君は戦場へ赴くや?
それとも金属を武器に鋳直すことを拒みて
その金物一式を楽器となすや?
娑婆では無常の風鋭くなれど、
地の底では常闇のお座敷牢で蟲を肴に忘恩会。
〽富士の高嶺に降る星も
 京都先斗町に降る星も
 星に変りはないじゃなし
 堕ちて流れりゃ皆同じ
蝕まれ、廃れきった徳義もまた、
燦々たる陽光を浴びれば甦るであろうか?
この牢獄を君の墓穴とするのか、
もしくは、ここを君の銃身として
新たなる世界へと君自身を発砲するのか?
天と地が相呼応して破獄するときに、
沼の泥からビルシャナが現出する……。

ハードロックのようにステレオタイプでないし、ハードコアのようにモノクロームでもないし、一体全体この音楽は何なんだ、何と呼べばいいんだ、この強靭なバンドサウンドによって織りなされるこの歪なるピラミッドとそこにこだまする叫喚と警鐘と呪詛とのこの奇ッ怪なる多面体は? ハードゴシック? hard to define… ともかく解釈次第で美酒とも毒ともとれるこの音楽液をとことん呷り、神託ともノイズともとれる詞に耳をそばだて、救世主とも悪魔ともとれる者たちの挙動を観察し、遊園地とも畜舎ともとれるこの《現代》という時代を放浪し、マルチプレイを堪能せよ。顔の見えない謎の独裁者の陰謀に陽気に対処し、奴らが押しつけてくる一方的なORDERに我らは十人十色なdisorderで徹底抗戦すべし! そうやって自らの未来を自らの手でsynthesizeするのだ。カルトでもなくオカルトでもない令和のデカルトは放歌高低吟して宣う、我蜂起する、ゆえに我あり rebello, ergo sum と……

バベらない・バベろう、バベります・バベった、バベる、バベるとき、バベれば、バベれ
という風に、固有名詞を動詞活用させる、そんな具合に、ぬらりくらりして不易・不動・不在なる固有名詞“双葉双一”を五段、いや十七段に活用させてみたのがこのトリビュートアルバムでありまして、しかしそれにしても、塔〈タワー〉はバベるためのものなのか、バベってはいけないものなのか? そもそも塔は何のためにあるや? 建てるために建てられる塔、崩されるために崩される塔。と言ってしまえば身も蓋もないので、ぼくたちはその現実を、というか、その現実に当面するぼくたちの心裡のひだひだをだね、そっとエレジーにして、歌う。そしてぼくたちは塔に宿ろう、タワーにホテろう。そして暫し佇立。果してタワーホテルでまってるのはぼくなのか、双葉双一なのか、その答えに一瞬もしくは半永久的に窮して思わず屹立する塔におまえは宿れ。幽霊塔の正体見たり惚れ尾花。

文明の神無月。神を喪った孤児(みなしご)たち。留守番中に舐める禁断の附子(ぶす)。開栓を待つコルク。熟れていく渋柿。鎌。暗躍するスパイと強盗。砂時計の砂のようにただ流れ落ちる無数の言葉。夢のなかの夢。陸と海が果てしなく交合するように拒み合いながら混じり合う叙事詩と抒情詩。どうしても思い出せない暗証番号。合ってるはずなのに合わないパスワード。そのとき狼煙を上げるドラム。発破をかけるベース。光明を齎(もたら)すギター。愛憎を縫合する肉声。それらが呼び出す怪物。
さあ、きみの故郷(ふるさと)の怪物をぼくに教えてくれないか。それは山姥なのか海坊主なのか。雪女なのか鬼火なのかのっぺらぼうなのか。きみの心の故郷には、いったいどんな怪物が棲んでいるのか。そして、きみにとっての最初の英雄は? 父だったのか祖父だったのか兄だったのか母だったのか。君の英雄は、勇猛なる偉丈夫なのか知恵と記憶に富む長老なのか磨かれた技術もつ異能者なのか話術もしくは預言に長けた詩人なのか。どうかそれをぼくに話してくれ。
流砂から忽然と姿を現わすようにしてフロリダに現われたシャイ・ハルード。背負われる南。彷徨われる北。鎧うハードコアと脱皮するハードコアとの奇妙な和合。重量ある英雄と身軽な英雄との絶えざる交錯。変転しつついつまでも赤い空。そこから滴る血の長雨のような言葉の連鎖。生き血の生き地獄の季節。砂による止血。凝血しない神無月。神無月を満ち欠けさせる孤児たちの音楽。毒草園でピクニック。

アラビアンナイトのシェヘラザードが旅をする。商人となり、イスラム教徒となって、アフリカへと。富と血と音楽と恍惚と悲嘆とが流れる地へと。そしてアフリカから、ヨーロッパへと。ホテル・ヨーロッパに宿泊する、アフリカ人のシェヘラザード。タコの足が切ってもまた生えてくるように、物語もまた語っても語っても再度始まって続き延命していく、のであって、シェヘラザードを殺さずに生き長らえさせ、物語がもうさんざん語り尽くされた後に何をいかに語らせるか、が男たちの腕の見せどころ。それにしても地中海のタコはどんな味がするのか、そもそもどうやって釣るのか……。ラシッド・タハの遺作が、ホテル・ヨーロッパに鳴り響けば、シェヘラザードがアフリカ人として目を覚まし、己がたどりし旅路を潤色しながら物語り始める――鳥たちが餌を求めて旅するように、また股旅者が浮世かるたの浮き沈みにまかせて旅するように、私は踊りの音楽を求めて、野心と慕情の浮き沈みにまかせて旅してきました、私はアフリカ人になりました、私はリヴァイアサンと予知夢と飽くなき欲望に乗って地中海を渡りヨーロッパにやってきました、死んだラシッド・タハの歌と展望、彼の遙けき郷愁とその源が私を真に生かしめ、ここで終わるはずだったドラマを再び舞い踊らせハッピーフェイクエンドの屍を蘇生させます、と。

ロックとは何ぞや? という昔からさんざん問いかけられつづけてきた問いをまた持ち出してその答えを求めずとも、ただただ目前のロックにうち興じて満喫しておれば、それでまったく結構オールライト、なのではあるが、やはりどうしてもロックのレゾンデートル《存在意義》てなことを談じたくなるのがロックのロックたるゆえんであって。そもそもロックに法と律はあるのか、あるとすればそれはいかなるものか? 一説には、午前3時過ぎに天使と悪魔が集ってロックの軍法会議が某所で開かれているという……。
ロックを考える上で、“音”がやはり重要な要素になってはくるのだけれど、しかし音がロックを作る、のではなく、ロックが音を創る、のが王道である、と僕はどこまでも律儀に考えたいのだ。つまりだ、美辞麗句をいくら並べてもそれだけでは決して詩とは呼べないのと同様に、いかにもかっこよくて刺激的な音を組み合せてパッチワークすることがロックなのではない。ロックというダイナマイトから必然的に斬新な音が噴射され、昇天することがロックなのだ。偽りの徴(しるし)は烙印のごとくあらゆるものに強制的に付されるべく仕組まれるものだが、真の徴は期せずして自ずから表れてくるものだ。
シーナの産休中にシーナ&ザ・ロケッツのシーナ以外のメンバー、つまりザ・ロケッツ3人組で制作された『ロケット・サイズ』は、ちょうど40年前の1983年の10月から12月にかけて録音され1984年にリリースされた作品であるが、上に書いたようなロックの王道を地で行くアルバムとなっている。あくまでも音を使うのがロックであって、音に使われるのはロックのように聞こえても、もはやそれはロックとは呼べない、音を求めても音に囚(とら)われるな、というロックの初歩的な不文律を今一度再認識させてくれるアルバムだ。
  音に閉じこもってばかりじゃ
  チャンスにもめぐり逢えないぜ
  うつ向いてばかりいては
  ロックの神様とも話せないさ
音はつねに古くなっていき、刻一刻の判断で裁きつづけるロックの核だけがつねに新しい。
THE ROCK SHOW MUST JUDGE ON
  音はホラ吹きイナズマ
  パッと光って消えちまう
吹きこまれずに、ロケットさながらにでっかくでっかく吹き出してロックで渡り飛んでいきましょう!

まっぴるまにシエスタして出逢う夢魔、真夜中にほっつき歩いて斬り落される生首、ああこれが夢現代のニューエストハーフ。無秩序な暑熱に融けゆくTOKYOはBANGKOK化し、かたやカオスをテクノロジーで手懐けていくBANGKOKはTOKYO化、あああまさしくニューエストハーフ。マレーシア原産のドリアンをタイが栽培し、マレーシアに流れ込むオイルマネーを日本が横目に見る。

〽また眠らぬ擬装の都市BANGKOK Mariさえ慌てる少年の あの美徳の夢さえバイデジタル 聞けカオティック・ソング 行けカオティック”N” 今 怒れる電子のセトとして

収縮する中国と膨張するインドの綱引き大会に世界中が参加するさなか、「心中に浮かんでくる思念思考の波また波をコントロールするのがヨガですよ」とそっとさっと耳打ちするキミの名は? チョット マッテ! 制動゠跳躍? 不忍池のロータスたちの上で、弁才天と弁財天とが踊り出せば、いつのまにか、辯才天と辨才天と辯財天と辨財天とに分化し、さらに分化に分化を重ねながら群舞する、ニューエストハーフ。

〽このまま道は続くと 浜辺に人は立ち 夢にはコロニー 空にはコロニー 嵐の日の陽気さで 海を渡る人がいる

ベッドタウンとホームタウンの狭間に生きるニューエストハーフなキミは、プログラムを愛しながらバグも憎まず、都市計画を学び無計画都市で遊び、狼の乳で育ちつつ裏声で歌はざるを得ない君が代、重機を軽業師のごとく操り、惰眠を貪るようにマンゴーを貪っては唇を爛らし(マンゴーはウルシ科なり)、セットリストを作りながらアンセットリストを欲しがって。

〽川のように道を行く すごいキャラバン 風のようなりりしさで 夢を生きた あぁキミをさらえ キャラバン 手をふれば 謎は二度と見えない キミは歌うたった今 宇宙の声として

地図を幾度見てもたどり着けぬ場所もあり、一度も来たことがないし地図にも載ってないのに一発で行ける場所もある、〽唄えや踊れや 盆と正月一緒や 手拍子ふたつみっつ できないようじゃな この唄は死にぞこない 死にぞこないの唄 生きぞこないよりはましだもんな アーアアーア、という友川かずきの唄を友川カズキが唄うのを及位典司が聴く、この夢現代こそはニューエストハーフ。

さあ お好きなハーフ&ハーフを選んで、私と一緒に行きましょう あの大きなピザシティへ……

早くも茹だるような夏の朝、前夜呑み過ぎたせいでやけに渇く喉を実のない味噌汁が優しく流れ潤し、前夜大音量で聴き過ぎたせいでやけに鳴る耳を潮騒の幻聴が執念く流れ揺蕩わせ、大上段に掲げられたコンセプトやらルールやら政治的主張やらは、あのどこまでも真青な空の彼方に消え、ただベースの音だけが明瞭にずしりと聞えて来て、モッシュもダイブも脆く儚い夢のようであり、やりたいようなやめときたいような、けっきょく写真や動画も撮ったってしょうがないんだけどでもやっぱり撮っておきたいような、在来線で行くか新幹線を使うかそれともいっそ泳いでいくか、メルカリにしようかヤフオクにしようか、ユーチューブがええんかティックトックがええんか、イーロンマスクかタイガーマスクか、この選択がパラレルワールドへの岐れ路、と悩ましいような、そんな風にしてコンセプトやレッテルの方から入っていくと音楽作りもなかなか七面倒くさいもんやろうけど、なあに、先ずベースの音とラインさえびしっと決まってイメージがどんと現実化されてしまえば、コンセプトなんかは後からついて来て、収まるところに収まるんや、案ずるより産むが易し、と夏の広い広い空にぽつんと浮ぶ入道雲を見ながら思い耽るにつけても、メロコアも青春パンクもオルタナもポストなんちゃらも通り雨のごとく過ぎ去ってただただハードコアのみ残る、不死身にして残る、そんな夏の烈日の不文律に浸されながら聴きたい1枚が、ジョー・ラリーの“NOTHING IS UNDERRATED”であって、これを聴いてると日常生活の方が夢まぼろしであって音楽こそが芯と種子とをもった現実、と思えてくるそんな体験が広がっていく、頭脳朦朧として罪と罰の連鎖も溶けぬかるみ泡立つ獰猛暑日にして。

鼓膜、というからには耳の穴の奥にも太鼓が潜んでおり、また、鼓動、というからには心臓の運動もまた太鼓打ちのようなものなのだろう。つまりだ、個々の人間には、生まれつき2種類の太鼓が備わっているわけだ、外界の振動を感受・増幅するための太鼓と生命活動を維持・続行させ律動させるための太鼓とが。そしてまた、人間1人1人が自らの内にそれぞれの太鼓を持っているのと同様、個々の民族がそれぞれ固有の太鼓を持っている。日本人は和太鼓。手で打つ鼓(つづみ)というものもあるけれど、木のバチで叩くものとしては専ら和太鼓一筋に日本民族は己の情念を託してきたわけだ、喜怒哀楽も肉欲も精進も。あの肚にどしんと低く深々と響く音に、万感の思いが宿っている。ただ1つの短い念仏の文句に一切合財を委ねる日本民族の姿とも、それは重なって来るだろう。
和太鼓は裏にも表にも皮が張ってあって、それはまるで、未知にして既に馴染みの己の分身(ドッペルゲンガー)に届けとばかりに、力を込めて打つためのものであるかのようだ。あるいは、禅定にあるシヴァ神の三昧境を破ろうとして矢を放つ愛欲の神カーマ、そのカーマを第三の眼の閃光で焼き殺す忿怒せるシヴァ、いわばこの2神の相を和太鼓は併せ持っているともいえるか。あるいは、入神の一打によって日本とアフリカが直通するトンネルとしての和太鼓。空に目を向ければ、太陽の黒点は、神々が太陽を太鼓にして叩いたときの痕跡・残像であるか。
それにしても不撓不屈の犀のスピリットを手懐け、震え揺れ撓う和太鼓に召喚し、滔々と音に流露させるのが腕の魅せどころである。まさにそのときにこそ、和太鼓はハードコアになるんやッ、いや、ハードコアに還っていくんやッ…。そのコアなる1点目がけて、打ち去りなむ、いざ。
それにしても和太鼓の響きを聞けば、血が騒ぎつつ、なお血が鎮まるのは、これ如何に?

いやー、ポピュラーミュージックの世界ではいまやすっかり絶滅危惧種に近い、大人数で演奏する集団音楽でありますが、やっぱりじつにええもんやねえ。圧巻や!
現代阿弗利加音楽曼荼羅(げんだいあふりかおんがくまんだら)といいますか、このセネガルのヨッスーの躍進作は、弦楽器(ギター、ベース等)と管楽器(サックス等)と打楽器(トーキングドラム、パーカッション、ドラム等)の3者が絶妙に拮抗して生まれる音世界(曲によってはさらにキーボードの電子音もその拮抗に参入する)、そこにユッスーの歌が乗り、ダンサーも加わりと、じつにライブ感あふれるアルバムとなっている。
アルバムタイトルの“セット”は、ウォルフ語で“清掃・清浄”という意味で、“心を澄まして自己省察する”というような意味でも用いられる、ということらしい。日本語だと“明鏡止水の境地”という言い回しがあるが、セネガルの“セットの境地”はもっとダイナミックで、積極的で、いらんことはどんどんなしにして己が本来進むべき道に立ち返っていこうぜという意志に満ちている。そして実際、ヨッスーのバンドの音には、迷いが微塵もない。そこがいい。迷いのない音と音とがぶつかって、拮抗し合って、躍動的でエネルギッシュでかつじつに端整な世界が現われくるのだ。
西洋の集団音楽といえば、1つの極致としてオーケストラがある(その延長としてさらには、1台のコンピューター上で譜面が全部入力・編集されて出力されるコンピューター音楽がある)わけだが、オーケストラは1人の指揮者によって静的にシステマティックに統御されるコスモス。それとは違ってヨッスーの音楽集団はメンバー全員が阿吽の呼吸をぶつけ合うことで動的にバランスが保たれる、雑駁な記号に頼らないライブ、でありなおかつ精緻なる曼荼羅。
そしてそれは、現代アフリカに生きる者として言わずにはいられぬことを歌に託すメッセージソングでもある。メッセージソングもいまや絶滅危惧種なのかも知れぬが、当節流行りのフィーリング一辺倒の音楽も果していかがなものか。とヨッスーの歌を聴いて思うのでありますがね。

時代が変ろうとする時に、僕たちが必要とする音楽は何だろうか?
人々を戦いへと駆り立てる軍歌だろうか?
いや違う。
甘く感覚を蕩かす痴れ者の恋唄だろうか?
いや違う。
時代がうねりだしたとき、僕たちが必要とするのは、ただただ葬式の音楽だ。
ビター・フューネラル・ビアー・バンドという、実に大胆な名前を冠したバンドがあるんだけれど、今宵はこの野心的バンドにポケット・トランペットを吹きまくるドン・チェリーとインドのサロード奏者クリシュナムルティ・シュリダールが加わって繰り広げられたライブの録音盤を紹介してみようと思う。
このライブ盤を聴くと葬式音楽のもつ力の輪郭と魂胆が、はっきりと見えてくる。
葬式音楽といったって、何も陰々滅々たる沈鬱なものであるとは限らない。
いや葬式音楽こそ、本来、とことん陽気で軽快であるべきだ。
全力で酔いを発散させ、全力で霊を踊らせ、東西南北の魔を折伏する、そのエネルギーと機動性と苦汁とが葬式音楽をすっくと立ち上がらせる。
時代とともに葬られたくなくば、ただただ全力で死にゆく時代を葬るべし。
今僕たちが最も必要としているのは、闇を深く葬り遙かなる曙を迎え入れるための生々躍動する葬式音楽だ。
そして、葬る音楽と葬られる音楽とを決して聴き間違えることのなきよう。これが何にもまして肝要だ。

とりかえばや、とりかえばや、と思ったところで、人間そのものや家そのものや記憶そのものをとりかえてしまうわけにはいかぬのだから、服を着替えてみたり庭の木を植え換えてみたり図書館で本を借り変えてきたりする。あるいはまた、メロディーとビートのラインはすでに定まってしまっているのだから、パーカッションを起爆剤にしてみたり、マラカスを乱入させてみたり、絶叫で釘を刺してみたりするし、太鼓の代りに太鼓腹を叩いてみたくなったり太鼓を叩く玩具を発明してみたくなったりもする。あるいはまた、死という終着点はとりかえようがないのだから、うんと寄り道してみたり、がたがた悪あがきしてみたり、すっと直進してみたり、グーグル・マップに載ってない道を思慕してみたり、下り坂で死神と駈けっこしてみたり、うつらうつらうたた寝してみたりする。そんなこんなで、ぼくたちにはやはり、庭とかパーカッションとか悪あがきとかうたた寝とかがどうしても必要不可欠なわけで、嵐の前の静けさであれ嵐の真最中であれ嵐が吹きすぎた後であれ、とにかく窓から庭に出て、ジオマンシーにうち興じましょう、そして、その土からの予言をそっとノートして、庭を出て、新たなる庭へと、草かまりとなって、野の鍵となって……。

アンディ・アーヴァイン(ブズーキ)とデイヴィ・スピラーン(イリアン・パイプス)という2人のアイルランド音楽家が、マケドニアを中心にしてバルカン半島の音楽を辿っていく、この旅路。西の涯の島国と東の涯の半島とが目配せしあって。
その足取りが刻むリズムは、7/16とか11/16とか7/8とか5/16とか9/16とか15/16とか、奇数多角形であり、割り切れないまま、でもそれが踊りに抑揚を与えて、あたかもたくさんの花びらを1枚1枚ちぎって、好き、嫌い、好き、嫌い、好き……、と花びら占いをするようにして、音楽は進んでいくのです。独立、帝国、独立、帝国、独立……、と占いは続き、さらにはまた、貧国強兵、富国弱兵、貧国賢兵、富国愚兵、貧国醜兵、富国美兵、貧国聖兵……、と占いは続くのでした。
虐殺された詩人と追放された詩人と寵愛された詩人と煽動した詩人と哀悼した詩人が、もつれあって、この花びら占いの踊りに血と酒と蜜と夢と宝とを振り撒くでしょう。
アレキサンダーとディオゲネスの対話にあなたも加われば、談論風発してその軌跡は、どんな図形を描くことでしょう。
あら、歌姫がやって来ましたよ。歌姫が歌えば、影がゆらゆら踊り出す……。

現代の最も先鋭的で最も優れた音楽は、“拷問音楽”の様相を何処かしら帯びているものだ。アメちゃんとムチとフリークショーとによって、本人すら自覚せぬ秘密中の秘密をうかうかと自白させてしまう拷問音楽。
オーウェルの『一九八四年』やソルジェニーツィンの『収容所群島』といった現代文学の1つの最到達点において、拷問というものがテーマになっているわけだけど、拷問音楽においては、テーマというよりかは音楽それ自体が拷問を模しているのであって、それは、甘言やらハニートラップやら弛緩ドラッグやら催眠術やら生爪剝ぎやら電気ショックやら火炙り水責めやらこしょばしやら心理的暴虐やら針やら見せしめやら芝居やらドッキリやらマンネリやらステレオタイプやら誘導尋問やらを様々に用いて自白を迫る拷問百貨店に流れる音楽。
聴き手に「さあ白状せよ」と迫ってくる拷問音楽の奏者にこそむしろ「そういうお前こそ誰なんだ?」と問わねばなるまい。そういう意味で、拷問は現代版の決闘である。互いが懐に隠し持つのは、果して獣か天使かそれともただ煙と消える煙草なのか。
機械を発明することで自らの身体運動能力はどんどん退化させてきた人類にとって、誇れるものはもはや頭脳だけであるが、AIの擡頭によってこの聖域さえも奪取されてしまうのだろうか? 考える葦であるはずの人間が、考えることをやめるならば、ただ風に吹き靡かされるだけの葦?
頭脳警察は誰なんだ? 何のためのイヌなんだ? さあ拷問音楽が流れて来たぞ。おや、これはPANTA巡査による選曲のフランクなZAPPA集だな。立会人は麗しの王女様だ! 君は頭脳を自分の自由にするのか、それとも奴らの自由にさせるのか、それが今、最も旬なテーマだ。

檻から解き放たれた獣たちはしゃぎ回るアナーキーなZOOで、踊り狂えアナーキストどもよ、変態せよアナーキストどもよ、もはや順路など存在せず、逃げ路もなく、王様と讃えらるる奴隷と、奴隷と蔑まるる王様、の2つに1つで、FAKEを御する者こそ、この動物/怪物園のマスターで、「馭者というのは実は動物を魅了してしまうかのオルフェのいわれである。また怪物を退治してしまうヘラキュレスのことでもある。それは野獣を御す男性である。それとももしそのほうがお好みに合うのだったら天使といってもよいが」――アルフレッド・ジャリ『馬的思考』(伊東守男訳、サンリオSF文庫)より――、右翼と左翼は一匹の魔物が生やしてる1対の翼に過ぎず、禁断の木の実アップルを齧ってAIもマルチに堕落、まともな肉も喰えない時代の虚ろな謝肉祭、毒立国家で生き延びろアナーキストどもよ、「少年と仔馬の心は同じようだ。馬は御者が埃にまみれて転がっていても泣きはせぬ、飯さえ食えば、後から来た奴を乗せて走る、それと全く同様に少年も、眼の前にいる人間を友にする」――テオグニス『エレゲイア詩集』(久保正彰訳、筑摩書房『世界人生論全集 1』に収録)より――、昨日の友が今日の敵となり、昨日の満足が今日の不満足となるこのアナーキーな園で、……

濡れて乾いて、乾いて濡れて。砂埃吹き荒れる、乾いた道も走るのに苦労するが、土砂降り雨でぬかるみ、見分けもつかなくなる泥んこに濡れた道も難儀だ。はまりこめば、ますますはまりこんでいく。太鼓もまた、それと同じで、打てば打つほど、叩けば叩くほど、味を占め、もうこのへんでええやろ、さすがにここらでそろそろ手を打とやないか、わていつまでやっとるねん、思いながらも、ますます打ちたくなり、叩きたくなのが太鼓らしい。アフリカもまた、それと同じで、行けば行くほど、辟易しながらも、深く深く、さらにさらに招き寄せられるものらしい。
トラベリング・ドラム。旅をしたからといって、いつもいつも必ずしも劇的な光景に出くわすとは限らないけれど、君がその肩書を捨てていくなら、きっと劇的に鮮烈なリズムに心躍らされること間違いなし。
トーキング・ドラム。言葉の代りに太鼓を叩く。片言の言葉じゃあ、うまくコミュニケーションを取れなくて、もどかしい思いをするものだけど、太鼓の場合だって、それは同じ。正確なリズムと正確なイントネーションで叩き、打たないと、メッセージは正しく伝わらなくて、チンプンカンプンさ。いったい、君が欲しいものはこれかい? それともあれなのかい? 正しい言葉遣いをするように、正しい太鼓遣いをしなきゃあ。
ドリーミング・ドラム。夢ってものは、ふつうは独りで見るものだけれど、太鼓を叩くときは、みんなで1つの大きな夢を見られるんだ。君のその1打で、夢の幕が開き、僕のこの1叩きで、夢の紙幣が舞い、彼女のその1撃で、夢の太陽が狂い輝く。
スマイリング・ドラム。南へ南へ南へ。そこかは、食うか食われるか、の世界であると同時に、笑うか笑われるか、の世界でもある。食うならとことん食わなきゃいけないし、食われるならとことん食われることになるし、笑うなら底抜けに笑うべきだし、笑われるなら槍のごとく鋭く笑われ抜かれる掟だ。そして当然のことながら、打つものと打たれるものがあって音が出るのが太鼓の掟。そういうわけで、君は打ち打たれてアフリカになっていくのさ。

昏(く)れていく世界、
でもまだ昏れきってはいない世界、
にサイケデリックな斜陽たなびき、
サイケデリックなトカトントン響き、
その逢魔が時に有象無象の化け物ども躍り出し、
幻覚商売大繁盛。
かくいう我も、しかし、
人間合格やら人間失格やら、
とんと知れず。
かというて、獣(けだもの)にもなれず、
まして神にもなれずに、
ただただ足取りは重い。
シュペングラーの吐息。
ポリュビオスの眼差し。
アプレイウスの惑い。
ウォレスの進化論。
羊飼いも羊も滅亡せんとする世を悼んで、
フィドルが羊の腸(はらわた)を咽び哭かす。
こんな世なれば、塹壕で戦友たちと食す野戦食のようにして、
美人女将が部屋出ししてくれる夕食をしみじみと、
また、和気藹々と、
ともに味わおう。
サイケの夕餐。
そして、
原音楽奏し流しの夕、にしよう。
そのとき、どこからともなく、
蝶たちが無限に夢幻に無間に現われて、
入り乱れて、
粉(パウダー)撒き散らかして
群舞するだろう、
こんなわれらをサイケの審判へと、
おもてなしするかのごとくに。

西欧と露西亜とに挟まれた谷間のような位置にあって独立を死守しているエストニアという国。そのエストニアの作曲家、エドゥアルド・トゥビン(1905-1982)が兵士たちの死、若者たちの死を歌った自国の詩人による詩に曲をつけたレクイエム集。
外部に鍵盤、内部に笛を持つ楽器であるオルガンと、ベースでありドラムでもある楽器であるティンパニーという2つの中間楽器をみごとに使いこなしたこれらのレクイエムからは、生と死、母親と息子、花と鋼、平和と戦争、賢慮と迷妄、自由と犠牲、故郷と新世界の境域を行き来する並外れた精神が、おぼろおぼろに浮かび上がってくる。
トゥビンがレイクエムの作曲に着手したのは1950年であるが、なぜか途中で一旦放棄して、最終的に完成したのは1979年であり、そういうわけで壮年期の作でもあり老年期の作でもある。
併録されている交響曲第10番もまた晩年の作であり、完成作としてはトゥビン生前最後の交響曲であるが、1973年の正月過ぎから4月の頭までという冬のあいだ、3ヶ月足らずで性急に書き上げられたもので、お経のように1つの流れが連綿と続く不思議な味わい、不思議な陰翳と閃光とをもった作である。ヨーロッパの作曲家には珍しい仏教的・アジア的諦観と幽玄をも感じさせる。
老人は己の大いなるルーツ、民族のふるさとに帰って行くのか、それとも、民族を駆り立てて来た衝動と焦燥と憤懣とに乗って憧れの空をなお目指し、帰らざる船出を夢見るのか?
老人は地に足をつけるべきか、それとも、堂々と野獣のごとく飛び跳ねるべきなのか?
老人は青年を諭すべきか、唆すべきか?
エストニアに浮雲、今日も漂う……。

普段バンドでやってる人が独りで弾き語りするのとは逆に、普段独りで弾き語りしてる人が己の好きな音楽家らを集めて彼らの伴奏で歌う、というケースもあって、このリッチー・ヘヴンズの『コネクションズ』(1979年の作品だが、去年、CDで再発された)は後の方のケース。ジェイ・メイソン、ポール・マッカートニー、サム・クック、ボブ・シーガー、トム・ウェイツ、ラモン・ドジャー、スティーヴィー・ニックスらの曲をカバーし、最後にオリジナル曲(デニー・ランデルとの共作)を1曲。
リッチー・ヘヴンズといえば、何といっても、激しくギターをかき鳴らして切々と唄うイメージで、僕の最愛の弾き語りシンガーの一人でもあるんだけど、本作でのリッチー・ヘヴンズは弾き語りの枠から飛び出して、自由気ままに唄ってる。枠があってもなくても、リッチー・ヘヴンズはリッチー・ヘヴンズなのさ、独りで居ても大勢と居ても、リッチー・ヘヴンズはリッチー・ヘヴンズ、てな感じで。
ルービックキューブのセンターキューブは恒(つね)に面の中央に在って、その周りにあるキューブだけが動いて、上から下から後ろから右横から左横から、各色のキューブが現われては去り、去っては現われて、さまざまな色模様が描かれコネクトされていくのであって、そんな風な離合集散する枠組みもある、ということは実に面白い。
廻せ、廻せ、枠組みを廻せ。
崩せ、崩せ、パターンを崩せ。
活かせ、活かせ、コネクションを最大限に。

コロナの渦のなかで変容したものがいろいろとございますが、
「地獄に仏」ということわざもコロナ受難を潜(くぐ)り抜けてゆくなかで、
「地獄にガソリン」と唱えることに相成りました、ので
以後、これで宜しく。
ほんまにね、コロナとその幽鬼どもがこの世を席巻していったこの3年間で、
これまで見えてなかったものが見えてきだしたりもして、
地金(じがね)やと思ってたもんが実は鍍金(メッキ)やったとか、
その逆のパターンとか、露見するようになってるんですけど、
なんかね、ガンちゃんの背後からは
後光が射してるのが見えるような気がしだしたんですわ、
たぶん目の錯覚やろうけど。
それはまあええとして、
ガソリンのみなさんは、ふだんはふつうに働いて、
そんで仕事の後や休みの日にライブしてという感じで、
地元四日市でもやるけど、名古屋とか大阪にもしょっちゅう来てくれて、
演奏が主体なんか、酒を飲むんが主体なんかは、
誰にもわかってないけど、
ともかくそんな仕事・演奏・酒(と生活)が三位一体となった多忙ぶりにかまけず、
驚いたことに新曲まで作ってました!
しかもフルアルバム(カバー曲も入ってるけど、これはむしろうれしいサービス)!
それにしてもいつ曲作ってたんや?!
毎日がお正月で、暇にまかせて
好きなだけ寝れて好きなだけ喰えて好きなだけ呑めて好きなだけ音楽聴けて、
ちゅうような生活を送れたら天国や、って思ったりもするねんけど、
いやいや、
そんなところには俺たちの幸福は存在してへん、
ふだんは泥にまみれて働いて金を稼ぎ、
仕事終りの限られた時間ややっと辿りついた休みの日に、
ガソリンさんとかに会えるのを楽しみにして生きることにこそ
俺たちの幸福は存在してんねん、て結局はこうなるよね。
せやから「地獄にガソリン」なんですわ。
そういうわけで、いつも仕事に励めて、音楽に酔えて、ええお酒が飲めるのは、
ガソリンさんのおかげです!
さらにさらに、子守唄まで歌ってもろうて、
ええ夢見させてももろてます!

地平線の向こうには
放逐された者、前科者、おちうど、発狂者、発情者、蒸発者、炎上者、お尋ね者、ドラ猫、ノラ犬、飛べなくなった鳥、破獄者、脱法者、素浪人、喰い詰め者、夢遊病者、幻視者、無宿、無頼、無縁仏、噫無情、瘋癲、吟遊詩人、99.9%の革命家、99.9%の発明家、勘当された息子・娘、馬鹿野郎、踊る阿呆に見る阿呆、土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た、よさこい、よさこい、破門された弟子、流産した子供、受胎しなかった命、破産者、破綻者、破滅者、流され人、転向者、改宗者、中退者、さ迷い人、世捨て人、放浪者、孤独な狩人、駆け落ちしたアヴェック、根無し草の泣き虫、ピーターパン、すっからかんの文無し、酔いどれ、うつけ者、痴れ者、戯け者、負傷者、時代錯誤者、逆行者、沈没者、遭難者、失踪者、失脚者、失語者、敗残者、落伍者、挫折者……
そうした者たちが、人知れず、行方知れず、気も知られず、ひっそりと暮らしているそうです
だからぼくもいつか必ずや
地平線の向こうへ越してゆくわけです
 たとえば ぼくが地平線の向こうで生きのびてたら
 そっと笑ってほしい
 淋しい時は ぼくの好きな
 ミラーボールの星あかりの下で踊り明かしてくれ
でもとりあえず今は
 もしも君が 疲れてしまったのなら
 ぼくと森田童子バスに乗ってみませんか
 色あざやかな 新しいシャツを着て
 季節はずれの ぼくの街は なんにもないけれど
 君に 話ぐらいはしてあげられる
 もしも君が すべていやになったのなら……
 あのドューユワナダンスで 昔みたいに うかれてみたい
春の日の菜の花畑を思い浮べて、泣くな祈れ、と言いたいところですけれども
もはやぼくには祈れない
と君は言います
ならば、ただ泣きませんか
 風よ 泣かないのか
 故郷よ 泣かないのか
 友よ 泣かないのか
 新しい 年のために
そんなこんなでぼくはまだ、地平線のこちら側で
思わずはらはらと、泣きやまずにいるわけです

若かりし頃から第一線のロックの現場に立ち続けるアルビノのミュージシャン、エドガー・ウィンターが、同じくアルビノであるブルースロックスターの兄、故ジョニー・ウィンターの曲を選りすぐってカヴァーし、兄に捧げる自作の曲も加えた本作を、僕はぜひ2022年のベストアルバムに挙げたいと思う。
曲ごとに異なる豪華なゲストミュージシャンが録音に参加しているのも、聴きどころの1つではあるけど、ドラムだけはあのリンゴ・スターが叩いてる1曲以外の全曲をグレッグ・ビソネットが担当していて、ビソネットによるドラムのパワフルな精気がこのアルバムに一貫して流れていることで、全体として多彩ではあるが太く芯の通った作品になっている。(このドラムを聴くためだけでも、本作を買う価値は十分にある。物理的な音圧は高くても、パワーレスなドラムが最近はやたら多いからね。)
それはそうと、やはり本作を聴くと兄弟というものについて想いを致さずにはいられないわけで。世の中にはそりゃいろいろな兄弟関係があって、仲のいい兄弟もあれば、反目しあってる兄弟もあるし、毎日のように会う兄弟もあるやろうし、他方、長年疎遠にしてるような兄弟もある。しかし、どんな兄弟であれ、兄弟の絆はどんな形であれ繫がり続けるのだろう。アルビノ同士ということでそれだけ深く結ばれていたウィンター兄弟の場合は、なおさらそうだったようだ。
この世とあの世に別れ別れになってしまったウィンター兄弟であるけれど、左目と右目とがあることで立体的に世界を視られるように、兄と弟とが手と手を結び合ってこの1枚のアルバムが産み出されたことで、ウィンター兄弟が青少年時代を過ごした南部テキサスやその隣のルイジアナの音楽風景もが立体的に厚みを持って視えてくるのが、本作最大の凄みとなっている。スマートシティではなくミーンタウンで生れ育った次男坊のこの僕としては、本作を聴けば聴くほど、兄を焦燥に駆り立て弟を見守り養った南部の底の深さ懐の深さというものに魅了されていくのだ。
重い荷物は兄弟で分担して担いあったらええねん。“南”を1人で背負うのは、ちと荷が重すぎるで。兄弟なら離れ離れでも、担いあえるねん。きやうだいは遠きにありて思ふもの そして目をそつとつぶりてうたふものなのかもしれぬ。

   拝啓
   奴隷神礼讃世界児たち〈ディストピアチルドレン〉へ
よりによってこんなでたらめな時代、でたらめな世の中で生れ育っていくことになった君たちを、憐れむよりはむしろ僕はでたらめに祝福したい。
君たちには、もはや何の理想も役に立たない。そもそも君たちには、理想のパロディーしか残されてはいない。神様だって、人格だって、九分九厘パロディーにされかかってるんだからね。
要するに君たちに残されてるのは、もう歌くらいなものさ。歌とロック。
だけど、五里霧中の世界では、歌声と鼓笛隊の合図が、じつは一番頼りになる。
声を挙げて、警笛を鳴らし、臆病心を鼓舞して、大手を振って歩いていくんだ!
 差別がある 差別がある 貧乏クジだけひかされてる
 不自由だよ 不自由だよ ぼちぼち12時シンデレラ
 まったくサイテー 景気が落ちてきて
 まったくサイテー 捨て身になってきた
 ギャングになる ギャングになる ギャングにならなきゃしょうがない
 ギャングになる ギャングになる ギャングにならなきゃ明日がない
 街のムードは最低最悪 サイテー
 悪い日々が続く まずいな ムードは最低
世界がサイテーでも、君たち自身はサイコーになれるんだ。
世界がサイテーだから、君たち自身がサイコーになるしかないんだ。
地上ががらくたばかりなら、歌とロックで天空に舞い上がれ。墜落したって、もともとさ。
君たちが反転〈リバース〉という切り札を使いこなせるようになったら、もう無敵なんだから。
そうそう、あのイソップ、動物たちの小咄をたくさん書いたあのイソップは、奴隷だったんだってね。
君たちもイソップ先輩を見倣って、君たち自身の手で、新しい伊曽保物語を書かなきゃいけないね。もちろん、アンジーを聴きながらね!
   極限トンボより
   敬具

追伸:天井裏からいつでもどこでも君たちを舐めるように見つめてるからね! 怖くないよね? 平気だよね!

なんや今、油売る国で球蹴りの世界杯が繰り広げられてるそうでんな。
水を欲しがる人もおれば、いやわては油が欲しいねんいう人もございまして、
油売る国があり、油買う国がございます。
(ほかにも世界には、葡萄酒売る国なんてのもございますが……)
水だけで十分なようやけど、油も(葡萄酒も)欲しいというのが人間でございますか。
砂糖に群がる蟻のごとく、人間が油に群がるの図。
まあそんな風にして、油(の金)まみれでサッカーやってるわけですけども、
1試合は45分×2で90分ですね。
これがもっともっと長くて1試合千年とかじゃなくて、
ほんまによかったでんな。
1試合千年やったら、やるほうもそうやけど、観るほうかて、なかなか大変や。
これは音楽もいっしょで、1曲数分かそこらで終るからええようなもんで、
1曲千年とかやったら、やるほうも聴くほうもめっちゃ骨が折れますな。
しかしやな、じっさいは1曲数分で終るにしても、そのなかに千年分、軽く詰めとこう
くらいの心意気はあってもええかもしらん。
1冊の本で千年の話をすることは全然可能なんやもん、
1曲で千年の音を奏でることも可能なんちゃう?
“祈るだけ掠れたら 虹霓の門を跨ぎ 帰途につく
 千年浸り 沖の涯”
あぶらだこのこの穴盤聴いてたら、千年の愉楽ちゅうもんもあるんやな、
と感じますねん。
やっぱり何かをほんまに味わおうとなったら、
千年ぐらいかけんといかんのちゃうかな。
その千年を数分の曲のうちに味わわせてくれるのが、あぶらだこや!
千年やから、子供になったり、大人になったり、爺さんになったり、するだけやなくて、
ときには亀にも木にも舟にも青にもなりま。
もちろんたこにも。
“打ち切れる 不惑 打ち切れた 凧糸 打ち切れない 私
 界域盤曲眼界蒼氓”
わてらは、1度に1つの隧道〈トンネル〉にしか入れないのであるから、
まったく難儀な話や。
それもしかしたら、千年抜けられへん隧道〈トンネル〉かもしれへんで!
気ぃ付けや!!
まあ千年でも油売っていきましょか?

さっくり聴くとさっくり聴けるし、じっくり聴くとじっくり聴けるし、とっくり聴くとっくり聴ける、というなかなか妙味漂う1枚であるけれど、録音されたのは1976年、中米ニカラグアにて。
各地でのミックスやら諸レコード会社・レーベルへの売り込みに手間どってる間に、ニカラグアでは革命が1979年に本格化、特権階級に属するアルフォンソ・ロボは家族とともにアメリカ合衆国に逃げる。“ラ・ヒガントーナ”のマスターも同じく合衆国へと運ばれたものの、そのまま忘れ去られていた、という因縁の1枚でもある。
また、10代のとき学校間の交流活動でいっしょにバンドを組んだ仲間であるホセ・チェピート・アリアスと再会して作ったという因縁もさらに重なる1枚である。
かつての少年ドラマー、ホセ・チェピート・アリアスは渡米して、ニカラグア人パーカッショニストとして、かのサンタナを本格ラテン化へと導いたのだったが、合衆国で彼が本当にやりたかったのはロックでなく、ジャズであった。そのホセ・チェピート・アリアスが祖国に帰って、サンタナから離れて旧友とともにのびのびと自由に録音したという因縁もさらにさらにかぶさってくる1枚である。
そんな因縁エピソード達にくるまれた“ラ・ヒガントーナ”であるが、ラテンとアメリカのぶつかり合いや融け合いが聴きどころである。スペインの哀切さと血腥さが大いなる悠久の中央アメリカに着床して産れてくる音とリズム。独裁者の主宰する文明と庶民の主催する文化との丁々発止。独裁者が庶民となり、庶民が独裁者となり、文明が文化となり、文化が文明に化け。栄と枯と盛と衰とが吹きだまる、中央アメリカ。
さっくり聴いてもええし、じっくり聴いてもええし、とっくり聴いてもええ。ともかく、世界で最もデンジャラスという説もある中米を甘く見ずに、でもとことん甘く楽しみましょう、喰いしばった歯をさっくりじっくりとっくり溶かされつつ。

2022年。想像を絶する得体の知れぬ怪物どもが跋扈し、我々はまた神話の時代へと突入・回帰していく……。
英雄という名のデスペラード・侠客・異能者・成り上がり者たちの時代へと……。
天高くして、馬〈ランボルギーニ〉は肥ゆ。
俺たちの青空、赤い戦場。
攻撃は最大の防御なり、ただ勝ち上がれ!
血ある者と血なき者との死闘、
血流れる者と血澱む者との死闘、
鮮血持つ者と鬱血持つ者との死闘、
血を得る者と血を失う者との死闘、
が今まさに始まろうとしている……。
救国のための真に最善の道はいずれか、とくと見定め、歩み出せ!
群盲から脱け出せ、そこに居てはただ人身御供にされるばかりだ!
さあ腹が減っては戦は出来ぬ、
男の心を育み称える歌謡をロックでがっつり煮込んだ熱々のやつを、ギロチンテラーが振舞ってくれてるぞ、
さあ行こう!

さらさらとまたはだくだくと流れる川や河に、橋を架ける人間がいる。
橋が流されたり、落されたりしても、またせっせと橋を架け直す人間がいる。
橋を毎日渡って、両岸の町を行き来する人間がいる。
橋を渡って、そのまま旅立っていく人間がいる。
橋を渡って、ずっと離れていた故郷に帰ってくる人間がいる。
だから、橋を眺めつづける人間がいる、橋にしんみりと情愛を抱く人間がいる。
そんな橋のように、音楽が架け渡す絆。

  お空に虹をかけました
  いくつかけても足りないけれど
  きっとつなぐ人がいる
  おお 雲のながれる空よ
   (「ソラニジのうた」より)

おっかなびっくり石橋を叩いて渡るようなあなたでも、
NON BANDの豪気で時空をもいつのまにか夢中で一途に超えてるような、ぶっとく弾む音楽橋なら踊って渡れるだろう。

  踊れニンゲン 私のために闘わずとも
  人が人を苦しめる そのことを 踊りながら問え
   (「ティースワーク」より)

その橋を渡った先にあるのは、いつでもまだ見ぬ町であり、また懐かしのふるさとのようでもある。

 ☆本作は、特典CD付きのアナログ盤もありまっせ

世界を股にかける超人気ベテラン先駆者DJ、ポール・オークンフォールドの自伝“READY STEADY GO : MY UNSTOPPABLE JOURNEY IN DANCE”がこの夏、ロンドンの出版社から出版されたので、英語の読める方は入手してみてはいかがでしょうか? ダンス・ミュージックの第一線の現場を仕切ってきたオークンフォールドがどんなことを書いてるか、とても気になりますね。
さて、そんなオークンフォールドが昨年出したCDでありますが、ジャケットの写真がなかなかの迫力。棚にびっしりと並んだレコードを背にして、低い位置から泰然として帝王のごとく前方を見据えるオークンフォールド。俺はこれだけのレコードを買い蒐め、聴き込んできたし、それに世界各地を旅して現地の風物と人物にも実地に接して来たんだ、そうしてそういうものをバック・ボーンにしてダンス・クラブに人々を集めてきたし、そういうバック・ボーンを持った俺のもとにいろんな縁や運で人々が集まって来たんだ、という自信が眉宇に溢れ。
オークンフォールドの魅力というのは何かというと、平凡な夜を特別な夜に変え、特別な夜を特異な夜に化けさせ、特異な夜をありふれた夜へと波及させる、という地道なマジックだろう。
DJというと一人だけで没頭してやってる感じもあるけど、オークンフォールドの場合は、常に積極的に双方向的なコネクションが開かれて探求されてる。ローマは一日にして成らぬが、ダンス・ナイトは一人にして成らずして、一夜ごとに一瞬ごとに新たに成りつづける。そうやって賽の河原で石を積むように、音楽を積む。積みつづける。積み崩し積みつづける。

ゆめのなかでついたうそは。
じつはうそでなくて、ほんとうのことなの?
とははにきいたしょうねんは。
ぎたーりすとになることをいつしか。
おいもとめ。
そして。
うなりをあげるべーすと。
おどりまわるどらむのうみを。
もろはのぎたーできりさいて。
わたっていけたらいいなと。
ねがう。
そのしょうねんのこころのなか。
さいせんたんのむかしばなし。
よみのくにのにくたい。
てがとどきそうでとどかぬ、とおいいま。
が。
ぎたーがはしったあとのきりくちに。
えがかれておりました。
はなびがうちつくされ。
まつりもすっかりおわり。
ひとはさり。
あかりはきえ。
おともたえ。
ただのこったしっこくのやみのうえに。
みぎめでもひだりでもみえないしきさいをとりどりにながすのが。
すきなしょうねん。
のちっぽけなぽけっとからとうとうとながれだす。
とてつもとほうもとめどもないおんがく。

ニューヨーク州ロングアイランドに生まれ、プエルトリコで育ちメヌードの一員として人気を博したが、グループを脱退しリオに渡り、自分の音楽を模索していったロビ・“ドラコ”・ロサによる、英語詞でのスパニッシュ・ラテン・ロックの名盤。
狂気によってもみしだかれた愛の花が、よりいっそう妖しく芳しい香を放つように、ロビ・ロサが歌うのは、単純で牧歌的なあどけない恋の歌ではなく、満たされぬ思いをかかえながら、より激しく、より深く、愛に没入していく秘儀を追い求め、懊悩し身を窶(やつ)す者の歌。
胸の張り裂けそうな恋に踊り狂いながら世界を放浪し、恋人の徴(しるし)を見分けようとする者の歌。
萎れた草花に水を与えるのではなく、火を点け赤々と燃え上がらせる者の歌。
それにしても、こんなにもロックが甘く苦いスピリッツを溶かし込むとは……。

風はなぜ吹くのだろう?
風はどこへ行くのだろう?
会いたい人を求めて、風は吹くのだろうか?
凪(な)いだり、時化(しけ)たりするこの世の中で、
ただ出会ったり、別れたり。
“男と女が ため息 ついているよ 夜が終れば さよならの はかない恋の くりかえし”
ため息がそよ風になって、蒼穹を駆け抜け、旅をする。
ため息が嵐になって、闇を吹き荒れ、愛に悶える。
僕は風になって、君に会いたい。
僕は風になって、新しい時代を旅したい。
僕は風になって、くまなく愛したい。
風はプロレタリア、昼勤も夜勤もなんのその
(そりゃたまには怠けることもあるけれど)、
革命を夢見るプロレタリア、
愛以外失う物は何一つないプロレタリア。
風はプロレタリア、その日その日を謳歌していく、
虹に導かれて、瀬戸際を渡っていくプロレタリア。
風は新たな出会いを求めて、今日も強く弱く吹き続ける。
そしてロックという帆船は、そんな風に応じて帆をうまく張って、
風を抱きしめたり、風をいなしたりしながら、
進んでいかないといけない。
船を造って、帆を張って、それでようやく旅が出来る。
風を読み、帆を調整して、それでようやく航海ができる。
令和というまだ生れてほどない風を受けて、ベテラン船が新しい船出をする、
新しい航路で新しい出会いを求めて。

なんだかね、最近の若い子の音楽を聴いても今ひとつ面白くないなあ、
悪くはないけど、格別よくもない、
って感じることがけっこうあるけど、それはどうしてか、
っていうと、その音楽の窓から見える景色があまりに日常的すぎてさすがに飽き飽きする、
日常からの思い切った飛躍がない、ひたすら自分の狭いテリトリーを老人のように彽徊してるだけ、
ってことから来てるように思う。
その点、極東ファロスキッカーは、音楽の窓からいろんな景色を見させてくれて、スペクタクルがあり、かえって若い。
ロックは風林火山。
山のようにどっしりと自分の世界を守るのもいいが、風のように世界をすばやく駆け巡って“今”を鳥瞰する展望もぜひ欲しいところ。
順番としては、まず風。山は最後でよろしいよ。
いや、まずは愛かな?

今月は夏バテでへたばってしまって、どうにもこうにもエンジンがちゃんとかからんくて、身体だけでなく、頭も神経もボケボケで、なまくらな文章しか書けんくなって、我ながら不甲斐なき次第で。
ボケボケといえば、やっぱり今、露呈されてきてんのは、平和ボケね。平成ボケといってもええけど。平和はええけど、平和ボケはあかん。結局、人間はいつだってどこかで何かしらの戦争をしてんねんから、今現在、どこでどんな戦が戦われているかをしっかりと見定めて、きびきびと思考し、きびきびと行動するのみ。永遠に続く戦争などないのと同様、永遠に続く平和もなく、しかし平和はできる限り守っていかなあかんのであって。しかし、ゆとり教育ボケやらスマホボケやらカルトボケやらでは、平和を守ることはなかなかおぼつかぬ。
音楽のことに話を移すと、90年代以降、日本のパンク、オルタナ界で頭角を現わし、シーンを牽引してきたのは、バブルボケしなかったバンドたちであった。バブルやらなんちゃらブームに浮かされることなく、バブルのアンチテーゼ的に自分たちなりの地道な活動を続けてきたバンドだけが生き残ってきたのだった。やっぱりボケた奏者はボケた音を出すからね。バブルボケせず新鮮な音を提示してきたパンク、オルタナ界でも、しかし現在では、自分たちのスタイルに安住して、浦島太郎状態になってる弊害が散見される。アンチテーゼが消失して、ただの個人的・私的なテーゼになってしまいました、みたいな。
だがもう、平成という龍宮城から持ち帰った平和玉手箱は、叩き割られ、ぶっ壊されて、得体の知れん煙が濛々と立ち込めてきてる令和4年晩夏でありますから、ボケた頭を氷でキンキンに冷やして、テレビやスマホが映し出す虚像がPRしてくるロシアンルーレットの実像に決死の覚悟でcharge(突入)せよ!!
で、やっと本題に入ってChargerの“WARHORSE”について書きますが、このChargerというバンドは、カリフォルニアのオークランドの3ピースバンドでベース奏者がボーカルをしておりまして、どこか南国的な曲の脈拍に歌がしっかりフィットしているのが痛快であります。戦争も知らないだけの浦島太郎たちを撃つ、アンチ平和ボケの音が烈しく冴え轟く“WARHORSE”なんや。牛車(ぎっしゃ)に揺られてうとうとと、みたいな安住音楽はもうええから、パンク軍馬に跨って拍車かけて。

ドイツのNINA HAGEN BANDの
 ”NINA HAGEN BAND”(1978年作)と
 ”UNBEHAGEN ( ILL AT EASE ) ”(1979年作)
の2枚をセットにしたものであるが。
パンクのサウンドとは、煎じつめれば、何ぞや? ということを考える上でもなかなか興味深い2枚である。

”NINA HAGEN BAND”の方は、プログレやハードロックからの影響もだいぶ感じられるから、これはこれでおもしろいのであり、エクスペリメンタルではあるのだけれど、パンク・サウンドであるかというと、やっぱりちょっと冗長すぎる。もっと単刀直入じゃないと。

その点、”UNBEHAGEN”の方は、まぎれもなくパンク・サウンドになっている。録音時、バンドメンバーとニナの仲が険悪になっていたため、それが余剰な演奏を抑制させる結果になったようだ。ロックファンに対するサービス精神よりも“勝手にしやがれ”という開き直りこそがパンクらしい。
それにしても、”AFRICAN REGGAE”はやはり超名曲である。パンク・サウンドは、まだるっこしいプログレやハードロックを斬り捨て、アフリカを目指していく。で、2022年のパンク・サウンドは、一体何を斬り捨て、どこを目指していく?

底抜けに明るく、底抜けに澄み切った祈りの音楽。戦う祈り。越えていく祈り。見出す祈り。乗り移らせる祈り。じつに広大なるアフリカ大陸の南の先っぽの手前にあるジンバブエ。そのジンバブエの民、ショナ族が精霊と祖先に向けて奏するムビラという手作りの楽器。そのムビラのたくさん並んだ金属の鍵盤を親指で弾いて出す、球のように丸い音の雫たち。
ムビラを奏する儀式は長時間に及ぶため、体力的にも女性が本格的にそれを奏することは一種のタブーに近かったが、ステーラ・チウェーシェは果敢にその難関に挑戦し、奏法をマスターし、場数を踏み、ムビラ奏者としての地歩を築いていった。さらに本作に録音されているように、ムビラをマリンバやエレキ・ベース、ドラムと合奏させるというタブーにも挑み、みごと成功させている。そして彼女の歌声は闊達で強く朗らかで人々の心に素直に届いていく、ごく自然に聞き届けられていく、精霊たちの心にも。
アフリカの祈りはしなやかでどこまでもくじけない祈り。しめやかに沈み込むのではなく、必ずやいつか晴れ晴れと浮ばれていく祈り。

重鬱にして軽躁なる夏のひと日、生と死が交錯し流るる血と汗をアルコールにて補充する夏のひと日に、聴きたきものは、
 一触即発の餓えた狼のごときスキンズたちの熱き雄叫び
 あまりに情深きが故あくまでも非情凄烈なる、篠突く驟雨のごときルースレス・ハードコア・パンク
そして
 ウィッティな音の妖術師、10ccの風来坊的超名盤“ブラディ・ツーリスト”
なり。
はやく夏にならんかな、とか毎年毎年言って、いざ夏になったら夏になったで、夏もういやや、夏嫌い、でもやっぱし夏大好き、とかわめいて、夏。とことんハメ外して遊んでいかんととてもじゃないけどやってられん、夏。ああ電車で船で車で飛行機でUFOで旅行もしたい、絶世の美女と朝から晩までトロピカル・セックスもしたい、そうめんとかき氷とスイカも食いたい、祭にも行きたい、縁側で昼寝もしたい、アラック飲みたい、プールで泳ぎたい、鉢巻どこで売ってんのいやいやちゃんとええやつ自分で作ります、蝉を捕りたい、銭使いまくりたい、早く家に帰りたい、冷たい水を下さい、風鈴どこにしまったんや、たまにはメールほしい、みんなで花火やろう、古本屋の5冊400円コーナーで買った本ぱらぱらめくっていたい、そんでやっぱしとことん10cc聴きたい、ぼたぼたびしょびしょ液化するまで。
ブラディ・ツーリスト。なぜか畳の上では死ねへん人。夏が瞬間見せる人間の宿命。ほら、あんなにも青く遠かった夏空が、今は血を流しているかのようにあんなに赤くあんなに間近でめらめら夕焼けているやないか。さあ、一番星見つけよう、好き放題10ccしようやないか。オレめっちゃ好きやなあ10cc。夏の過ちを洗いざらい音に流そう。

粋な音楽とは、やはり真の意味で“ヒット”する音楽だ! その土地その時代の呼吸に命中する音楽。歌詞の抑揚運動に命中する音楽。ふと音が生まれ、音たなびき、そして消える、その機微に触れずして、どうしてヒット音楽が出来よう? いくら音楽機材が発達しても、ヒットせぬ音楽ばかり無暗に氾濫するなら、僕らの音楽は実に貧しい。まずはその無残な貧しさを直視、いや直聴することからはじめないと。
《人生は面白い。苦労すればするほど、なにかを覚えていく。「もうからないことをやれ」という意味も分かった。景気がいいときに、寄ってきて、ダメになると逃げる人間は、何が起こっても必ず逃げる人間ではないだろうか。いくらその後成功しようとも、一度逃げた奴はダメな人間だ。いつも負け犬の目をしている。勇気ある人間の人生は、いつかは必ず太陽に恵まれる。
(中略)
 ある日、新宿のコマ劇場に、デスティネの率いる西インド諸島の舞踊団を見にいった。彼は白髪の小さな老人だったが、開演前に挨拶に立ち「郷土の芸術を、日本の皆さんに披露できるのは、光栄なことです」と、胸を張った。僕は、その言葉を聞いて、ハッと思った。
 ちょうどそのころ、僕のところにアメリカ公演の話がきていた。だが、楽団を連れてアメリカに行っても、僕はなんと挨拶したらいいのか。「皆さんの真似をしにきました」とでもいうのか。演奏することも大切だが、日本の曲を創作することは、もっと重要なことではないか。
 翌日、僕はアメリカ巡業の話を断り、バンドのメンバーを集めて、解散を宣言した。昭和三十二年、四十歳のときである。》
《僕は、音楽家は人生のラッパ手だ、と思っている。軍隊でいうと、戦車に乗っている人もいるし、大砲を撃っている人もいるし、歩兵もいる。だけど、僕らは、「タッタッタッタカタッタッタ」と吹くだけだ。
 鉄砲も持たず、戦車にも乗っていない。つまり、金があるわけではないし、権力も持っていないということだ。それでも、弾の一番飛んでくる最前線に立つ勇気だけは持っていなければならない。金が欲しくなったり、権力が欲しくなったりすると、ダメになる。戦車の陰や一番後ろで吹いても意味はない。》
《プロの歌手をめざすような人は、「どうぞ」を聞いて、上がるべきか、上がらざるべきか、また上がったら、何分ぐらいで引き揚げるべきか、判断できなければ、成功はおぼつかない。》(本書より)

楽譜を読む。肉筆を辿る。注記に従う。鍵盤にタッチする。ピアノ内部のハンマーに力と思いとを託す。音を吟味する。ペダルを踏む。あああああ、ピアノを演奏するということは、実にもどかしい! まるでなかなか成就せぬ恋のもどかしさ! 片思い? 遠距離恋愛? 禁じられた恋?
このもどかしさを焼き払う炎とは? そもそも、この炎なしに演奏できる? パソコンに譜面データを入力すれば、どんな難曲であろうと、たちどころに“完璧”に音が出力されるこの現代では? ヴィルトゥオーゾ(名手)は死に絶えた?
ピアノ演奏から、いや音楽そのものからさえ、不穏なる炎を追放しようとするこの現代に、異議あり! むらむらと立ち昇る異音、夾雑音、人非人ならぬ音非音からこそ音楽は始まったのであり、始まるのであり、そうして変転していくのだから。
「音楽の歴史は(だが言っておくが、どのような歴史なのか!)楽譜で物語れない部分の、それによって叙述できない空白を埋めるための、絶え間ない、引用と言及の一切を、不断に蓄積させることだ。音楽の歴史は、絶えざる引用の成層や、該博な知識の積み上げであり、大多数の人びとには解明不能な宝庫だ。なぜに短調の和音が同じ長調のそれよりも悲しげに聞こえるのか? その謂(いわ)れを、誰が説明できようか? もしや五度に挟まれた三度を半音減ずれば、聴く者の心の状態をそれだけ減ずることになり、それによって気力の萎(な)えをもたらすのであろうか? 馬鹿ばかしい。誰にだって納得できる説明はなしえない。けれども、真実ではある。短調が、同じ長調よりも、悲しげに聞こえることは。しかしいまは、本筋から外れ過ぎてしまった。ここで私が語ろうとしているのは、ヨハン・セバスティアン・バッハのことではないし、《パルジファル》のことでもなく、ニーチェやワーグナーのことでもない。ましてや、短調や長調の差異についてではない。私が語ろうとしているのは、もしも出来うれば、失われてしまったと思われていた一つの手稿譜を発見することによって生じた、私の人生の変転である。いまから二十年弱以前の、六月のある日に始まった、この物語を、せめて少しでも順序立てて、語れればよいのだが。それは、暑苦しい陽射(ひざし)の一日のことであり、セーヌ川でさえ疲れて、流れるのを忘れたかに、少なくともオルレアン河岸に面した、私の家の窓からは、そう見えた」(本書より)

(全168件)