
ブルックナー: 交響曲第4番「ロマンティック」、第5番<タワーレコード限定> / ルドルフ・ケンペ、他
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ケンペ/ミュンヘンpoのブルックナーはこのCDで初めて聞いた。年齢を重ねるごとにブルックナーを好きになっていく。シューリヒト、クナッパーツブッシュ、フルトヴェングラー。彼らのブルックナーは紛れもなく個性が烙印されている。ブルックナーに「個が必要ない」という意見にはわたしは同意できない。そこには「人間がいる」のだから。そしてわたしが何より高く評価するのがチェリビダッケ/ミュンヘンpoのブルックナー。ケンペとは同じオーケストラだが音はかなり違う。チェリビダッケの音はインターナショナルだ。絶対的な高機能。対してケンペはローカル色を残しながら深くて実にいい音。音の重ね方、そもそもの音の出し方、テンポ等それでいて機能にきゅうきゅうとせずそう呼吸するのが実に楽な、これこそまさに「自然体」なブルックナー。わたしは個人的にはチェリビダッケのブルックナーを評価するが、同時にケンペのブルックナーの「自然体」も高く評価しなくてはいけないと思う。わたしは今ケンペ/ミュンヘンpoのブルックナーを聞けたことがうれしい。クラシックを聞き始めたころではこの演奏は理解できなかったであろうから。わたしはこの二つの演奏をワクワクして聞けることをうれしく思う。録音状態は素晴らしい。たしか初発売時は「悪い」という評判だったはず。
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Cranさんが書いたメンバーズレビュー
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絶美…。この美しさは何だろう。まさに「ウイーンでモーツァルトを演奏したらこうなる」という演奏。それにしてもこのグルダのピアノの美しさ!「豊かでまろやかで柔らかく、そしてちょっと甘い」。まさにウイーンフィル、そしてベーゼンドルファーの音。なんと美しく。そしてそれを引き出したフリードリッヒ・グルダの見事さよ。モーツァルトはやはりひそやかにしっとり聞くのが似合う。ベートーヴェンピアノ協奏曲全集のピアノの音と全然違う。「音は聞けても音楽が聴けない」とはこういうことだろう。
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カルロ・マリア・ジュリーニの最高傑作、シカゴ交響楽団の最高傑作。わたしにとってグスタフ・マーラーの交響曲第9番は交響曲の最高傑作である。不思議なことにこの曲にはいい演奏が多い。シカゴ交響楽団の演奏には実はあまり評価はしていない。「よくなる楽器」という思いがどうしても気になる。だがそんなわたしでも、このカルロ・マリア・ジュリーニによるこのマーラーの交響曲第9番の演奏には1絶賛を惜しまない。わたしはこの演奏の録音を何回聞いたかわからない。そして聞くたびに新しいものに気づく。シカゴ交響楽団、この時の、有り余るほどの大パワー、大排気量のシカゴ交響楽団だからこその演奏だと思う。フルパワーをさらけ出すのではなく余裕を持ってこその、この奥行きの深さ。アルバン・ベルクが「マーラーが最も驚くべきことをやった」と評した第一楽章。主旋律だけではなく複雑に絡み合う旋律。それをジュリーニは「そのままに」音にする。第二楽章。様々な風景。第三楽章ロンドブルレスケ。夢の世界。美しい。そしてあの不滅の第四楽章が始まる。そこにあるのは「絶望」だけではなく「希望」でもあることを最近教えてもらったが、ジュリーニは「そのままに」音にする。これがどれほど難しいことか。バーンスタインのようにどこまでも主観的に、感情移入しての演奏も素晴らしい。わたしはバーンスタインのマーラーも高く高く評価する。しかしジュリーニのこの演奏には底知れない余裕を感じる。奥深さを。シカゴ交響楽団をこういう風にならした人はいなかった。こんな指揮者を首席客演指揮者に迎えられた交響楽団というのは何と幸せなことだろう。そしてその録音を聴くことが出来る我々もまた非常な幸運であると思う。
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人はなぜ音楽を聞くのだろう?様々な理由があるだろう。わたしは「憧れ」「規範」として聴いている。この録音でエネスコは「自らの」感じたままにバッハを演奏している。ライナーノートによればこの時エネスコは体調が優れなくて、技巧の衰えはあるし音程さえおかしいところさえある。でもそれがなんだというのだろう。技巧的に優れた演奏を聞きたければ現代の演奏家を聞けばいい。音程的に「正しい」演奏が聞きたければ現在腐るほどある。しかしここにあるのは「正直な」バッハである。他人がどう「感じたか」ではなく「自分は」「どう感じたのか」というバッハである。なぜ様々な演奏家が50代や60代になってから、いわゆる「最盛期」を過ぎてからバッハの「無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ」や「無伴奏チェロソナタ」を録音するのか?技巧的な衰えなど、とうに承知の上だろうに。わたしはそこに「意味がある」と聴く。わたしにはこの録音は価値あるものと思える。
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この演奏が発売されたとき、これは世界初のステレオ録音のシベリウス交響曲全集だった。聴きたかったのだが、数年前ようやく手に入れ耳にした。そして今回のSACDハイブリッドでの発売。「待望の」と言っていいはずである。わたしは日本フィルの新盤も初発売時と数年前のタワーレコードのものも購入した。新盤発売時に渡邊暁雄のシベリウスを「発見」し、以来渡邊暁雄のシベリウスには注目して福岡での演奏や日本フィルの限定CDなどを購入したが(実はわたしは都響会員であり渡邊暁雄は大好きな指揮者である)、旧全集は勢いはいいが特に3番以降の交響曲は「コク」が足りないように考えていた。ところが今回このCDを聴いて感心したのがむしろ3番以降の交響曲であった。渡邊暁雄のシベリウスは確かに素晴らしい。3番以降のシベリウスの、一見とっつき悪そうで実は深い抒情性、澄み渡った空気を聴き手に認識させている。これはなかなかできることではないだろう。もちろん1.2番の演奏も素晴らしく抒情的である。よりシベリウスらしいのは3番以降の交響曲だとしても、そこに刻まれているのは紛れもない「シベリウス」なのだから。これは素晴らしい復刻CDだと思う。
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逆説的な意味で「聴いてはいけない演奏」。あまりに幽玄。あまりにおどろおどろしい、ある意味「オカルト的な」演奏。シベリウスのヴァイオリン協奏曲でこんな鮮烈な演奏ができるのはチョン=キョン・ファしかいないだろう。それぐらいチョンの演奏は素晴らしい。いや「ゾッと」する。パリのシャンゼリゼ劇場がどれくらいのホールか知らないが、たった一丁のヴァイオリンの音がホールの空気を切り裂いていくのがはっきりわかる。ズデニェク・マーツアルも好演だと思うが、あまりにチョン=キョン・ファがすごすぎる。こんな演奏を聴いたらほかの演奏が聴けなくなるのではないか。それほどこの演奏は素晴らしい。
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今月わたしはグスタフ・マーラーの交響曲第2番を2枚聴いた。2枚とも素晴らしい演奏だった。だがより強い衝撃を受けたのは、シモーネ・ヤング指揮シドニー交響楽団のほうだ。この演奏についての印象を一言でいうなら、「ああ、マーラーは優れたオペラ指揮者だったんだな」である。と同時にそれはシモーネ・ヤングへの称賛でもある。彼女は「手垢のついた」イメージで曲を見ることはしない。彼女は「新たに」その曲を見るのだろう。そしてそれは、わたしには非常に新鮮でそして鮮烈に響いた。これはリニューアル記念としてとてもふさわしい演奏だろう。バートンの「OF The Earth」も優れた曲だと思う。わたしは祝祭的場曲だと聞いた。シモーネ・ヤングとシドニー交響楽団のぜんとは明るいものになるだろう。
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グスタフ・マーラー。そして交響曲第2番。わたしには、とてもとても大事な曲である。今回聴いたのはクラウディオ・アバド指揮シカゴ交響楽団のもの。評判は昔から聞いていた。LP発売の時から。そして今回「やっと」耳にしたわけだけど。当時確かシカゴ交響楽団はショルティが音楽監督ではなかったか。ショルティは確かにシカゴ交響楽団を「大きな音の出る」優れた「楽器」にした。非常に「高性能」な。だがわたしは嫌いだった。そこには「歌」がないような気がしていた。現在ではそれが間違いであると知っている。あれはあれで「歌」はある。あれなりにだが。そしてわたしはやはりそれを好きにはなれないが。わたしはカルロ・マリア=ジュリーニの交響曲第9番のような「歌のある」マーラーのほうが好きだ。わたしはマーラーには「あこがれ」「猥雑さ」そして「歌」が必要だと思っている。このアバドの「復活」にも「歌」が感じられた。そしてもちろんシカゴ交響楽団の高性能。独唱者そして合唱団もとても素晴らしい。解説によると二人とも「純粋な」つまり「王道」から少し外れている選択らしいけれど、よかった。たしかにこれはアバドの「名盤」に恥じぬものだ。
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この演奏について。まずホルスト・シュタイン。すばらしい。「協奏曲」のオーケストラとしては言うことなしだろう。こんなに雄弁で柔らかく、しかも「栄養価」が高い伴奏は空前絶後だろう。そしてなにより、フリードリヒ・グルダ!こんなにしなやかで豪放で「まだこの先にあるんだよ」という自由なピアノは聞いたことがない。わたしにはこれ以上のベートーヴェンなど「カットナー=ソロモンが演奏したらどうだったろう」としか思えない。このCDはベートーヴェンのピアノ協奏曲のCDとしては最上のものとしか思えない。録音状態は極上。グルダのピアノもホルスト・シュタイン率いるウイーンフィルの音も非常によく録音されている。それにしてもかつてのようなこんな味のある音が聴けなくなったのを「悲しい」と思うのはわたしだけではないだろう。
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この演奏に対して何を言おう。チェリビダッケ/ミュンヘンフィルのブルックナー交響曲選集が発売された時、勇んで購入した。 1990年あのサントリーホールの演奏に接したものとして「購入しない」という選択肢は存在しなかった。購入してさっそく聴いた。それは不思議な演奏だった。クラシックを聴いて始めて「形而上学的な」演奏を実感した。あれは哲学者にとってきわめて「重要な」演奏だった。以来わたしにはチェリビダッケは特別な名前になった。それ以来チェリビダッケの演奏をできる限り耳にした。サントリーホールの演奏はもちろん、リスボンライブ、ミュンヘンフィル100年記念の演奏(だったか?)、そして新たなこの演奏。今わたしは新たなことを言う必要を感じない。やはりチェリビダッケはわたしには非常に重要な指揮者であり、そしてこの演奏がもはや聞けないことはとても悲しいと思っている。そしてこれが、わたしのきわめて「個人的な」感想であることも。
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クラウス・テンシュテット。彼は稀代の「マーラー指揮者」だと思う。だが不思議なことに世界的指揮者と言われる前にはテンシュテットのレパートリーにマーラーはなかったらしい。だがそこで彼は強固な「下地」を身に着けた。「フォルムの維持」という何より大切な「基礎」を。わたしにはテンシュテットの演奏は「正しく」聴こえる。「スタイル」を保ちながら、それでいながら音楽の「感動」を正しく追及する…。そう聴こえる。テンシュテットは「マーラー」の世界の中に「感情をはばたかせる自由の広がり」をみた。だが彼自身の運命はそれをすべからくはばたかせる時間を与えなかった。残されたわたしたちは今それを耳にして物思うだけである。録音状態は改善している。 この録音は気軽に繰り返して聞くというものとは思えないが、残されたことを感謝するべきものだと思う。
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クリストフ・フォン・ドホナーニ/クリーヴランド・イヤーズ。このCDを購入したのはワーグナーの 「ラインの黄金」「ワルキューレ」をどうしても聴きたかったからだけど。「ラインの黄金」「ワルキューレ」の発売時を覚えている。「売れないんじゃないかな」と思っていたら売れなくてプロジェクトは中止になった。デッカは中止するべきではなかった。一聴してすぐ思うのは「オーケストラの精度」が「段違い」であること。今回うれしい発見は歌手のすばらしさ。そりゃ1950年代のアストリッド・ヴァルナイやハンス・ホッター、ヴィントガッセン等とは比べものにならないが、思ったより歌手はいいと思った。それにやはり何といってもクリーヴランド管弦楽団のすばらしさ!わたしは世界で一番うまいオーケストラはクリーヴランド管弦楽団だと思っている。何と言ってもセル・ブーレーズ・マゼールにドホナーニそして現在のフランツ・ウエルザー・メスト。いずれ名だたるオーケストラドライブの名匠。ブルックナーの「ロマンチック」など感動した。あの始まりの「音」に。あの「見事さ」に。クリーヴランド管弦楽団そしてクリストフ・フォン・ドホナーニ。このコンビの「指輪」が残されなかったのは楽界の痛恨事だろう。もし実現していたら「異次元」の「オーケストラ精度」の「指輪」になっていただろうに。
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ヤクブ・フルシャはチェコの俊英指揮者である。東京都交響楽団の定期会員であればそれはよく知っていると思う。フルシャはこの6.7月にも来日し、7月にはブルックナーの4番を指揮してくれた。さてフルシャは「オーケストラの音」をよく聴く指揮者だと思う。フルシャは決して「勢いに任せて」「力ずくで」指揮しない。フルシャはオーケストラの音をよく聴き、感動は抑えないが「理性的に」演奏する。7月のブルックナーの4番の演奏もそうだった。フルシャは「勢いに任せて」指揮をするということをしない。繰り返しになるがオーケストラとの「交換し合う」こと。意志の疎通を大事にする指揮者だと思う。このCDを聴いてバンベルク交響楽団の「音」にほれぼれした。実にいい「音」で鳴っている。さすがヨーゼフ・カイルベルトのオーケストラ、素晴らしい。わたしにはこの「音」はインターナショナルな「音」というよりバンベルク交響楽団の「音」に聞こえる。バンベルク交響楽団はいい主席指揮者の下で正しい道を歩んでいると思う。フルシャはさすがチェコの俊英、やがてチェコフィルのシェフになる逸材だろう。東京都交響楽団との客演も大いに期待してもいいだろう。
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何度CD化されたかわからないウラニアの「エロイカ」。わたしも何度購入したのか覚えていない。さて世の中にはフルトヴェングラーの演奏の何がいいのかわからない人もがいるようだ。それは当然だろう。音楽を数値で「データ」で捉えるのなら理解できなくて当然だと思う。「スペシャル」な存在はともかく、標準的なプレイヤーのレベルは間違いなく現代は向上している。オーケストラの技術レベルも上だろう。かつてのベルリンフィルやウイーンフィルより例えばアンサンブル、縦の線をそろえることなどは精度は上がっている。だけど音楽というのは何だろう?音は生じた次の瞬間には消えていくものである。しょせんそこにあるのは「不完全な」追憶でしかない。その「不完全な」状態でやるべきなのは音楽が「何を伝えるか」ではなかろうか。かつての演奏家たちはそれにすべてをかけた。その中でフルトヴェングラーは音楽が「何を伝えようとしているか」をわたし達にそのまま「提示して」くれた。あいまいな言い方しかできないけれどフルトヴェングラーの音楽は「向こうから」やってくる。きわめて「切実な」ものとして、顔を背けるような「あいまいさ」を許さないものとして。当然こういうやり方は他人に教えようがない。フルトヴェングラーの指揮が残っていない理由の一つだろう。このCDのウイーンフィルより現代のウイーンフィルのほうが「技術的」には上手いのであろう。だが何を伝えているのかは別である。フルトヴェングラーの実演を聞けた人がものすごくうらやましい。再生音の状態は極上である。
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わたしにとってグスタフ・マーラーの交響曲第9番は非常に重要な曲である。わたしは交響曲の最高傑作だとさえ思っている。幸いにして、わたしは数多の優れた実演を聴くことが出来た。若杉/都響の数々の公演。そしてあの若杉/ミュンヘンフィルの公演…。いろいろな録音にも接することが出来た。バーンスタインだけでもイスラエルフィル、アムステルダムコンセルトヘボウ、ベルリンフィルにニューヨークフィル。バロビローリやジュリーニ/シカゴ交響楽団等々。最近もシュタイネッカーによる優れた演奏を聞いたばかりである。だが実はわたしにはマーラーの交響曲第9番は長い間わからなかった。マーラーの交響曲第9番は、マーラー自身の交響曲第2番や第8番のようにエネルギーの燃焼が「外」ではなく「内面」に向いているから。それをわたしに教えてくれたのは柴田南男の「グスタフ・マーラー」である。さてブルーノ・ワルター/コロンビア交響楽団のマーラー交響曲第9番はわたしが初めて聞いたマラーの交響曲第9番である。聞いて「これは何なの?」と思った。レコード評もいろいろ読んでみたけれど、まるでわからなかった。だが今は、第1楽章展開部を聞いてコロンビア交響楽団が編成が小さいとか技術が稚拙だとかはどうしても思えないし、何よりワルターの燃焼の激しさ!恩師の最高傑作を音にするという「特別なこと」にかけた情熱!そしてそれに対するコロンビア交響楽団の「歓喜」!まったく素晴らしい。第1楽章の夢、そして第4楽章の澄み切った叙情…。録音状態は極上。再生状態は「こんな音まで録音されていたのか」と驚くばかりである。
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わたしがこの演奏を始めて聴いたのは、1980年代の初めだったと思う。バッハはなんとなく「謹厳実直」だと思っていたので、初めはびっくりした。だけど何回か聴いていくうちに「これは」と思うようになった。もっとも、今思えば「スポーツ的快感」に酔っていたのではないかと思うが。当時はまだバッハは「厳格な」冗談も言わないようなイメージがあったのかな。でもその後、むしろバッハは「破天荒な」むしろ「情熱あふれる」人だったらしいということになり改めてこのゴールドベルク変奏曲のグレン・グールドの旧録音の「凄さ」にきずかされた。その後グールド自身も新しく録音し、もちろんそれも注目すべき演奏であるが、今改めてこのCDを聞いて思うのはグールドの「ファンタジー」そして何よりグールドのピアノの音の「美しさ」。その「美しい音」によってグールドは果てしなく広いバッハの世界を「自由に」飛び回る…本当に素晴らしい演奏だと思う。録音状態は「最高」。かつてのCDとは全然違う。これほどの音が録音されていたなんて、まさに「驚天動地」である。
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わたしは普段CDに録音されているすべての曲を聞いてから、そのCDの評価を書く。これは多くの人が同じだろう。しかしこのCDにはその禁を破ろうと思う。そのCDは「レオ・ボルヒャルトの芸術」。戦後ベルリンフィルに米兵に射殺された指揮者がいたことは聞いていた。なかなかいい指揮者だったらしい、と。それでこのCDを手に入れ、聴いてみた。今、ウエーバーのオベロン序曲まで聴いたところである。聴いてみて思った。「もしボルヒャルトが死なず、戦後のベルリンフィルを率いていたらベルリンフィルはカラヤン時代の様な音色になっていただろうか?と。わたしの耳にはボルヒャルトの指揮は極めて的確、理知的でありながら盛り上げる「ポイント」も外さないように聞こえる。フルトヴェングラーとは個性が違いながら、音楽に対しての「接し方」は、少なくともカラヤンよりは共通点が多いように思える。果たしてボルヒャルトが指揮していたらベルリンフィルの音はどうなっていたのだろうか。歴史にifはあり得ないからそれは永遠にわからない。しかしわたしはそう考えずにはいられない。ぜひその音を聞いてみたかった。さてこれから「ロメオとジュリエット」と「ステンカラージン」を聴くのが楽しみだ。
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素晴らしい。気迫も技術も十分。何より自分が音楽を「演奏する」ということを理解しているのがいい。今どきの意味も分からず、ただ人よりうまく弾けるから弾いているだけの「演奏屋」とは違う。いやびっくりした。やはり自らの人生をかけた人の音楽は美しい。オーケストラも見事。フィルハーモニアフンガリカは確かドラティのハイドン交響曲全集のオーケストラだと思うが、指揮者のウリ・セガㇽと共に落ち着いた演奏を行っている。
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「現代の棒振り機械に敢然と挑む存在」。この言葉に言い尽くされているのではないか。まさにテンシュテットは「指揮者とはどういう存在か」「なぜ指揮者が必要なのか」。それを「全身全霊で表現する」存在だったと思う。しかもこの現代という時間の中で。わたしは必ずしもテンシュテットのすべてを肯定はしない。しかしその「在り方」には無視できないものがあると考えている。現代においてもいまだこういう考え方をする人がいるということを(テンシュテットは1998年に死んでしまったけれど)、わたしは大事に思う。ボストン交響楽団はさすがの性能の良さ。だけどあのホールはどうなのだろう?やはり音楽にとって、楽譜に書かれているすべての音符を音にすることにさして意味はないように思われるが。
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ジャニーヌ・ヤンセンが素晴らしい!勢いで引き飛ばすのではなく、丁寧に音を奏でる、というか音楽に「語らせている」。とにかく素晴らしい。ヤンセンは初めて聞くけれど、あまりの独奏の素晴らしさにあっけにとられた。オスロフィルの性能にも驚かされた。失礼ながらyoutubeなどで耳にした限りではこれほどいいオーケストラだとは思わなかった。そしてクラウス・マケラ。マケラはやはり頭のいい指揮者だと思う。若さゆえの反射神経の反応の良さだけではなく、音楽の「意味」を「理解して」指揮をしているようにわたしには聴こえる。彼もまた勢いに任せて音楽を演奏することはしない。聞けばシカゴ交響委楽団のシェフも務めるらしい。いまだ30歳にもなっていないのに。やはり逸材と言っていいのではないだろうか。
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自称シベリウス好き「シベリウスのCDは…」(わたしはこういう言い方は好まないが)、そんな人に言いたい。これはこのCDは、かつて日本に渡邊暁雄という素晴らしいシベリウス指揮者がいたという何よりの証拠である、と。渡邊暁雄のシベリウス交響曲全集は新旧共に持っているし、新しい全集は新譜で発売されたときに購入している。だから実はタワーレコードで復刻された当初は購入に二の足を踏んだ。だがやはり渡邊暁雄のシベリウスが復刻された以上は購入するべきだろうと思い、手に取った。聴いてみて驚いた。この演奏の自然さ、テンポの自然な揺れ、アレグロ等の速度…。すべてが「泰然自若」でありその演奏の美しさに。日本フィルも「最高」とは言わないが、まことに心のこもったいい演奏をしていると思う。音の状態は初発売時に比べると格段に向上している。このCDはシベリウスに興味のある人にとって「必須」のCDである。今わたしはこのCDに夢中である。
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音というものは発せられた瞬間に消えていくものである。だからこそ美しいものでもあるのだが。 ウイルヘルム・ケンプのライヴ・コンサート・エディションを聴いた。これはケンプ、いやピアノ音楽に興味がある人にとっては必聴なのではないか。少なくともわたしはこれを聴いて初めてケンプがどういう音楽家だったのか分かった。なんでブレンデルが「ケンプはエオリアンハープを奏でるように演奏する」といったのか理解した。確かにケンプは唯一無二そして調子の良し悪しに左右される演奏家だったであろう。しかし興が乗ったときは得もいわれぬ、極上の「移ろい」を聴かせてくれる演奏家だったのだろうと。ユジャ・ワン等の現代の演奏家ははるかに「精密な」演奏を聴かせてくれるだろう。現代は「細密化」の時代なのだから。しかして「移ろいゆく」美に対してすべての音符を音にすることに何の意味があろう。はかない「移ろいゆく」美に対して、すべてを明らかにすることは意味があるのだろうか?
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サー=エイドリアン・ボールトという名前をわたしが知ったのは、わりと以前からである。「惑星」とかヴォーン・ウイリアムスの指揮者として。だがタワーレコードの復刻でブラームスの交響曲を聴いたときその印象が変わった。なんという美しさ、いわばその「栄養素」の高さに驚いた。「年齢」を重ねることの「美しさ」に感動した。ボールトは派手ではないかもしれない。ボールトは決して急がない。表面的な効果も求めない。しかし奏でているその「音楽」にはたっぷりと「滋養」が含まれている。そんなボールトが演奏するベートーヴェンの「英雄」とシューベルトの「ザ・グレート」。しかもライヴ。幸福な時間を過ごせることだろう。
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オスモ・ヴァンスカはパーヴォ・ベルグルンド亡き今最も注目すべきシベリウス指揮者かもしれない。今年ヴァンスカは都響とシベリウスの交響曲第5・6・7番を演奏した。あれは素晴らしい演奏会だった。都響のシベリウスは絶対いいと思っていたし、何よりヴァンスカに興味があった。演奏は想像以上に素晴らしかった。おそらくヴァンスカの演奏はオーケストラを選ぶ。ヴァンスカの演奏をリスペクトするオーケストラでないと彼の演奏は魅力的にはならないのではないか。どちらかというとほの暗い渋めの音で曲想の変化に敏感でないとヴァンスカの演奏の魅力は伝わらない。ミネソタ管弦楽団はヴァンスカに非常によく寄り添っている。そしてその音は紛れもなくシベリウスの「音」である。このCDはシベリウスを愛する者にとってかけがえのない贈り物である。
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まずジャック・マルスとミシュリーヌ・グランシェは大変立派。賞賛すべき出来だと思う。そして何と言ってもカミーユ・モラーヌ!素晴らしい!こんな難しいオペラをこんなに立派に歌いきるなんて。特筆すべき出来だといっていいだろう。だが一番すごいのはアンゲルブレシュトだろう。なんというかぐわしさ!そしてなんという楽器、いやコントロールの素晴らしさ!これが曲を「演奏する」ということだと思う。「演奏」というのが音符をなべて「音」にすることだけではないその最良の証左だろう。録音については何も言うことはない。シャルランがこれを残してくれたことにただ感謝しかない。
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どこで読んだのだったか。「バッハは海である。」と聞いたことがある。無伴奏チェロ組曲にせよ無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータにせよ、たった一丁の楽器からこんな宇宙を感じさせるなんて、バッハというのは本当に偉大な存在だと思う。この録音が発売された当時「女性らしい繊細さはあるがバッハの雄渾さは感じられない。」と評され、第3巻は発売すらされなかったと聞く。わたしには信じられない。これほど鮮烈で雄渾な、強烈に鮮やかに響く演奏を特筆しないなどと。ここには現代では失った、「人間の」演奏する「行為」の.そのほとんど最上のものが刻まれている。マルツィは決して走らない、楽譜を落ち着いて音化する。そこから生まれるのは落ち着きと思慮、そしてその音楽はこの上なく鮮やかに響く…。これは素晴らしい録音だと思う。しかもこの時マルツィは30,31才。すごいとしか言いようがない。録音は極上。鑑賞するのに不満はない。
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現在の、若いクラシックファン、あるいはクラシックを聞き始めたばかりの人には、クラウディオ・アバド/BPOのベートーヴェン交響曲全集といえばローマで録音した交響曲第1~8番と2000年5月にベルリンで録音した交響曲第9番のものになるのだろうか。だがあえて言う。アバドのベートーヴェン交響曲全集でより聞くべきなのは、アバドがベルリンで全ての交響曲を録音した「全集」であると。それどころかあの「旧」全集は極めて高い「意味」を持つ「全集」であると。フルトヴェングラーの死後、BPOはカラヤンを首席指揮者に選んだ。それどころか確か「終身音楽監督」とまでした。結果的にはそれは成功だったと思う。BPOはカラヤンの下世界一のオケとなり経済的にも大いに潤った。カラヤンの後を襲ったアバドはベートーヴェンを「マス」ではなく「透明な」「鮮烈な」音でベートーヴェンを表現した。それはとてつもなく「鮮やかに」ものすごく興味深い「全集」となった。これを「軽い」と聞く人がいるのはわかる。一見これはすごく「聞きやすい」から。だが注意深く聞くとアバドは驚くべきことをやっている。「マス」ではないのにもかかわらずこの「全集」はとても激しく「演奏して」いる。アバドとBPOは非常な集中力を持ってこの録音に臨んでいる。この全集の交響曲第9番のアバドのジャケット写真。それまでのアバドらしからぬ不敵な表情。それが全てを語っているような気がしてならない。
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録音状態は極上‼だまされたと思って聞いてほしい。これが1926年の録音だなんて誰が信じる。そしてクライスラーは当時51歳。技術的にも最高の状態ではないか。あの頃はレコードを録音するにも再生するにもおそらく今ほど「手軽」ではない。それこそひょっとしたら「一期一会」かもしれないのだ。それほどの覚悟で聞いたであろう当時の人々。現代のわれわれが忘れているかもしれない覚悟。それが演奏にも表れているのかもしれない。この頃の演奏に聴ける「味」や「歌」。楽譜にある「音符」をすべて音にするだけでは足りない何か。時代の進化とはいったい何だろう?
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わたしはショパンが苦手である。ショパンの曲は、わたしには「よくしゃべる」ように聞こえる。けして「詩情豊かな」「ロマンティックな」ものには聴こえない。いやある意味これはものすごく「ロマンティック」なのだが。演奏は時代の移り行くと共に演奏スタイルも変わってゆく。フー・ツオンのショパンの演奏スタイルはもしかしたら現代のものとは違うのかもしれない。なにしろこれは真の意味での「情緒纏綿な」「思いのたけをむき出しにした」演奏なのだから。昔わたしは「夜想曲」だけを持っていた。それを初めて聴いたとき「うわぁ」と思った。ここにあるのは上辺ではない真実の意味での「望郷」だから。
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ジャン・フルネは巨匠である。フルネは東京都交響楽団に盛んに客演してくれた。一時は首席指揮者さえ務めてくれた。わたしが東京都交響楽団の年間会員になったのが1985年なので数多くのフルネの実演に接することができた。それはとても幸せな時間だった。特にフルネが都響と演奏するフランス音楽はまさに「天下一品」だった。そのジャン・フルネ、あのアンゲルブレシュトから「ペレアスとメリザンド」の初演を託されたジャン・フルネのフォーレの「レクイエム」。聴かないという選択肢はわたしにはない。
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これはあくまでホロヴィッツを聴くべきCDだと思う。世の中に数多いるピアニスト。「ヴィルトゥオーソ」という言葉を聞く機会も多い。しかし少し待ってほしい。真に「芸術的」いや「音楽的」な「ヴィルトゥオーソ」というのは、わたしはピアニストでは何人かしかいないと考える。その一人がウラジミール・ホロヴィッツである。ホロヴィッツのピアノは「歌う」。彼のピアノの美しいこと!彼のピアノは「人間が」弾いている。ヴィルトゥオーソが単なる指の回転速度ではなく、そこにはあくまで「音楽」がなければならない。彼のような古き良き「グランドマナー」を持っているピアニストをわたしはまた聞くことが出来るだろうか?ワルターについてはわたしには言うべきことはない。
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堀辰雄の聞いたフォーレの「レクイエム」。わたしが初めて聴いたフォーレの「レクイエム」はコルボの一回目の録音だった。それに感動したわたしは様々な指揮者のものを聴いた。コルボの新しい録音や幸運にも数多くの実演に接することのできたジャン=フルネ(この人が都響でやったフランス音楽は絶品だった!)、そしてアンドレ=クリュイタンス。だがわたしが聴いたのはクリュイタンスの旧盤のほうだ。クリュイタンスの旧盤はサントユスタシュ合唱団及び管弦楽団。マルタ・アンジェリン(ソプラノ)、ルイ・ノゲラ(バリトン)。わたしはこれにすごく感動した。たしかにフィッシャー=ディースカウやロス=アンヘルスのような「華のある」歌手ではない。しかしそれのどこが悪かろう?フォーレの「レクイエム」は技巧を必要とする曲だろうか?華やかさが必要な曲だろうか?横道にそれた。ここに聴くフォーレの「レクイエム」は美しく、そして素朴である。余計な化粧は一切なくそして「敬虔さ」を見る。そこには現代がひょっとしたら見落としている「正直さ」をわたしは見る。わたしはこの演奏を愛する。
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大演奏である。かなりテンポは揺れるし(特に終楽章のコーダ!)、聴いたことがないような音色等、かなりユニークな(少なくともわたしにとって)マーラー。わたしにとってマーラーはものすごく大事な作曲家であり、だからこそなるべく多くのマーラーを聴くのは喜びである。そして今またヤッシャ・ホーレンシュタインという新たな指揮者のマーラーが聴けた。なんというか、ホーレンシュタインは「覚悟が決まっている」。彼は歌うべきところではためらわずに、そして重要だからこそ焦点を「当てる」。素晴らしいマーラー指揮者だと思う。ヤッシャ・ホーレンシュタインにあって今の時代には無いもの。それは重要なもののはずだ。
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わたしはシベリウスのヴァイオリン協奏曲を「偏愛」している。そう、まさしく特別に「愛して」いる。理屈ではなく「肌に」馴染むのだ。この演奏については昔から知っていた。CDだって何枚か所持している。だがいつ聞いてもそれほど素晴らしいとは思えなかった。なんというか「隔靴掻痒」今一つ届かない感じだった。ところがこのシリーズでベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(クライスラーの旧録音)を聴いてそのヴァイオリンの音に驚いて、ぜひヌヴーのシベリウスを聴いてみたいと思ったのだが…。驚いた。このCDはぜひ聞くべきだ。まずワルター・ジェスキントがいい。大変立派な伴奏だと思う。そして何よりジネット・ヌヴー。絶品だという以外言葉が見つからない。わたしにはハイフェッツよりはるかに好ましく聞こえる。こういう演奏を聴くと「現代の演奏は進化しているのか」とつくづく感じる。この演奏に足りないものなどごくわずかなものしかありえないのではないかと。本当にいい意味で驚かされたCDである。
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何度も買いなおしたCD。ブルックナーは最初はわからなかった。なんかどろどろしてどこに焦点を当てて理解すればいいのかまるで分らなかった。だからわかるまで繰り返し聞いた。本を読んだ。ある日ふと気ずいた。「もしかしてこれが意味があるものだったら?」。そこからブルックナーの交響曲が面白くなった。年齢を重ねるごとにますます興味を惹かれるようになった。この演奏においてクナッパーツブッシュは、版の問題・アンサンブルの精度やフォルムの精確さなどにはこだわっていないと思う。クナッパーツブッシュにとって大切なのは「この音楽は何を訴えているのか」でありそれ以外のものは枝葉末節でしかないのだから。現代は「細密化」の時代である。細かい部分を拡大して見ようとする時代である。しかし不思議なことに物事の本質は何も変わっていない。今なぜクナッパーツブッシュやフルトヴェングラーがいないのか、わたしたちには何が足りないのか。この演奏を聴いて考えてみるのも一興ではないだろうか?
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EMIからチェリビダッケ/MPOのブルックナーの交響曲が発売されたとき、わたしはためらわず購入した。ちょうどそのころチェリビダッケ/MPOのサントリーホールでのブルックナーを聴き、非常な感銘を受けた後であり、購入しない選択肢はなかった。そのころ「これはブルックナーではない」、「ブルックナーの演奏としてはシュツットガルト放送交響楽団との演奏のほうが優れている」というような評が盛んにいわれていたように記憶している。わたしはこのような意見に戸惑うばかりであった。あれは、あれこそはこの上なく「形而上的な」演奏であり、チェリビダッケが、いかに大きな知識を持ちMPOがそれを音にすることができる技術を持ち、そしてそれをチェリビダッケがオーケストラに伝えることができる。それがはっきりわかる演奏だったから。率直に言えば哲学者ならあの演奏にビンビン感じなければ噓だろう、そういう演奏だった。そしてわたしには当然衝撃的な演奏だった。それ以来チェリビダッケは、わたしには当然のように特別な名前になった。 もしかしてここではこういうことを書くべきではないのかもしれない。今わたしが書いているのは「わかる人だけわかればいい」ということだから。チェリビダッケの演奏について一言いうならば、彼の演奏はわたしのレゾンデートルにつながるものである。それ以外言えない。
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聴いた瞬間、まず頭に浮かんだのは「ワルターはこの響きと離れたくなかったんだ」。現在の精妙な演奏、汎個性的な響きからすると、おそらく様々な瑕瑾を指摘する人はいるだろう。だがここには夢見るような響きが、あこがれを追い求める「音」がある…。わたしにとってグスタフ・マーラーはとても大切な作曲家だが、今現在のわたしにとってブルーノ・ワルターのマーラーは必ずしも最上のマーラーとは考えていない。ワルターのマーラーにはわたしがためらう「何か」、「演奏」を考えるときにどうしても無視できない「何か」がある。だがこの演奏の「夢見るような」響きは必須なものに思う。ブルーノ・ワルターそしてウイーンフィルにとってもこの演奏には思うものがあっただろう。わたしにはそれが音楽を聴くうえでものすごく大切なものに思える。
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3番から聴き始めたのだが、聴いた瞬間涙が出そうになった。この演奏についてはライナーノーツに書かれていることがすべてだと思う。そう、かつてはこういう丁寧な仕事をする指揮者がいたんだ、と。運動神経や反射神経だけでなく、楽曲の隅々まで目を通し、細かく演奏を作り上げる決して単なる合奏のまとめ役ではない「本当の」仕事ができる「職人的な」指揮者がいて、そしてわれわれはそれを親しく聞ける環境にいたのだ、と。現在の演奏がすべてだめだとは言わない。クラウス・マケラなどはわたしも好んで聴いている。しかしかつてはこの音を、こういう指揮者を聞いていたんだと思うと涙が出そうになる。わたしはなんてすばらしい環境にいたのだろう。交響曲の何番がいいなどとは言えるはずがない。このCDはとても大切なCDである。
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「サロネンってこんな熱い指揮者だっけ?」…、それが聴いた後まず感じたことだった。同時にサロネンのとてつもない「情報の処理能力」に舌を巻いた。サロネンの「情報を扱う能力」それをオーケストラに伝える能力は群を抜いている。そしてそれは彼が自分を理解している証拠でもある。こういう人が指揮者をやっていてMTT以後のサンフランシスコ交響楽団を振っていることが、うれしくてたまらない。これほど演奏を聴いて考えさせられた経験はそうあることではない。ロスアンジェルス交響楽団のうまさにも驚いた。これは素晴らしいCDだ。
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このCDは何というべきか…、とりあえずこんなとがった演奏をして、こんな面白いCDを作るピアニストは今はいないだろう。この5人の女性作曲家(たぶんあまりいい呼び方ではない)の作品はそれぞれ興味深い。耳を傾けるとそれぞれのやり方で音を「紡いで」いるし、ピアニストはそれを注意深く「奏でて」いる。なかでもやはりウストヴォリスカヤのピアノソナタ第6番は圧倒的だと思う。その演奏はあまりに「鮮烈に」響く。いま向井山朋子はさらに活動スペースを広げているという。わたしも行ってみたくなった。いまこんな「とがった」CDでデビューする「女流」ピアニストはいないだろう。これはリマスターするにふさわしいCDだろう。
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ラファエル・クーベリックが大指揮者であることは誰もが知っていることだと思う。一方、クーベリックが録音面においては、いささか恵まれてはいないことも広く知られていることだろう。ブラームスやベートーヴェン(!)、マーラーの交響曲全集、そして何より「わが祖国」はあっても肝心のブルックナーの交響曲全集はない。ベートーヴェンの交響曲全集は素晴らしかった。非常に面白い交響曲全集だった。まさにクーベリックにふさわしい画期的な全集だった。マーラーもよかった。一見自然の息吹にあふれている演奏だけどそれだけでなく内声部をえぐりにえぐっているかなり「カロリー」の高い演奏だった。ブルックナーはどう考えてもクーベリックに似合っているのに、ベルリンフィル等の暗い響きでなく、あのバイエルン放送交響楽団の明るい響きとクーベリックが演奏するブルックナーは絶対に素晴らしいものになるのにそれはついに実現しなかった。まさに痛恨の極みである。確かに交響曲やオーケストラの録音は多大な費用が掛かる。またクーベリックの一般な知名度も問題になったのかもしれない。わたしはあくまで一般の音楽ファンに過ぎないのでその点はわからない。繰り返すがクーベリックのブルックナーの交響曲全集がないのは残念無念である。CBSソニーの録音は素晴らしい。これは非常に価値ある商品だ。
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わたしには二人の尊敬するピアニストがいる。ソロモンとウラジミール・ホロヴィッツ。ソロモンは何よりベートーヴェンのピアノソナタで。そしてそれ以外のピアノ、「音楽」としてのピアノとそれを奏でる「ピアニスト」としてのホロヴィッツの二人である。ホロヴィッツは前世紀の大家の「グランドマナー」それを伝えるほとんど最後のピアニストだったのでではないかと思う。単に技巧がどうとかではなく、その音色の「ブリリアントさ」「コクのある音色」それを伝える最後のピアニストだったと。ホロヴィッツ以降も数多の才ある若手、優秀なピアニストがデビューしたが、結局この「音」を今聞くことはできない。「唄」は絶えてしまった。ホロヴィッツは世のピアニストが「わたしはピアニストです」と言うのが不思議で仕方なかったらしい。さもありなんと思う。ホロヴィッツとその他のピアニストの違い。そこには「ピアノ音楽とは何か」という極めて大きな問いが隠されている。かえすがえすもホロヴィッツの生の「音」を聞いてみたかった。ラフマニノフにおいてメータはホロヴィッツによくついている。これは完全にホロヴィッツを聴くための映像である。
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このCDは帯に書いてある通りこの演奏に対する評価を改めさせる可能性がある。クナッパーツブッシュもカーゾンも彼らのベストとは言わないまでも、十分に優れた演奏を行っているし(少なくとも彼らにとって不名誉な出来ではない)、ウイーンフィルも相変わらずいい音色を奏でている。このCDの解説には初出時のこの演奏に対する評価が載っているのだが、カーゾンはクナッパーツブッシュに押しまくられてはいないし、カーゾンが不調でキレが悪くもないし指揮者の人選のミスとも思えない。いったい昔の評論家は何を聴いていたのだろう。この演奏が「皇帝」の理想の演奏とまでは思わないが、繰り返すが彼らにとって「不名誉」となる出来ではない。少なくともわたしはこの演奏に感心した。
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チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」とドヴォルザークの「新世界」は「朝飯を食いながら」聴く曲と言われているそうだ。あいにくとわたしは大好きだが。閑話休題。このCDはある意味「手に汗握り、そしてあっけにとられる」いわば「一大スペクタクル」である。腕っこき集団であり悍馬のようなウイーンフィル、日の出の勢いの指揮者ががっぷりよつに組んだ「完成度」より「きらめき」のような録音だと思う。まさにこれは人が一生に一度しか録音できない(それを録音できない人も多いが)CDである。いやあ確かにこれは聞くべき録音だ。
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このCDには心底驚いた。ジークフリートの葬送行進曲を聴き始めた途端「え、これがワーグナー?」、わたしはバイロイトには行ったことはないが、これでもクラシックを聴き始めてから半世紀近くになる。そんなわたしが聴いたことのないワーグナー。ムラヴィンスキーは完全に自分の目でスコアを読み込んでいる。慣習ではなく。ムラヴィンスキーは自分が読み取った通りに曲を演奏する。もちろんオーケストラは超高性能。ムラヴィンスキーの読み取った通りに曲を演奏する。これではワーグナーの序曲の演奏で一晩の演奏会を開催するどころか、独唱者、合唱一切なしでワーグナーの楽劇を上演してもいいとさえ思う。もしその演奏会を聴けたら興奮のあまり死んでしまうのではないか。恥も外聞もなくムラヴィンスキーこそ世界最高のワーグナー指揮者であるといいたくなる。まさかワーグナーの序曲の演奏でこんなに胸躍る日が来るとは。ムラヴィンスキーは恐るべき演奏家である。これはムラヴィンスキーの演奏を語るうえで非常に重要なCDだと思う。。
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このCDは完璧!フィルハーモニア管弦楽団のべらぼうな上手さ!独唱陣の見事なこと!そして何より、ムーティに称賛を!この時ムーティは40歳にもなっていないが、オーケストラを見事にコントロール。勢いに任せて駆け抜けることなど薬にしたくもない。いやあ、このCDを聴くのは初めてだが、あっけにとられた。素晴らしい演奏だと思う。独唱陣の歌も聴きとれる。なお録音は超優秀。すべてのディテールが聴こえる。まったく見事なCDだ。
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J・S・バッハは偉大である。マタイ受難曲、ヨハネ受難曲、ミサ曲ロ短調、管弦楽組曲、ブランデンブルク協奏曲、無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ、無伴奏チェロ組曲そして数々のカンタータ…。これほどの名曲を残した作曲家をわたしは知らない。そしてバッハの世界は「広い」途方もなく「広い」。無伴奏チェロ組曲はチェリストならば一度は録音を残したい曲であろう。数々の録音が存在するがなぜか名チェリストと呼ばれる人の録音は50代後半や60代に録音したものが多いようである。あの世界は「若さ」だけではどうにもならないのであろうか。このCDはヨーヨーマが20代半ばで録音したものである。ヨーヨーマはここでチェロを「歌わせ」「飛翔し」自由にこの世界を旅している。彼はテクニックはもちろん、しっとり演奏すべきところもおろそかにはしない。ヨーヨーマは「自由」だ。そしてその姿勢は実に「美しい」。マはやはり稀有なチェリストであろう。わたしは、実はヨーヨーマの演奏を聴くのを避けていた。カザルスやロストロポーヴィチの演奏を好んでいた。カザルスやロストロポーヴィチにも優れた無伴奏チェロ組曲の録音がある。だが今回この録音を聴いて心底驚いた。この「若さ」に。ヨーヨーマにはこれ以降2度の無伴奏チェロ組曲の録音がある。それを聴くのが非常に楽しみだ。
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いわずと知れた名盤。録音状態も極上。まったく、今のファンはうらやましい。この音で「始められる」のだから。このCDを聴いて思った。「これがフルトヴェングラーの音だ」と。何回も言うが、フルトヴェングラーは「伝達者」だ。他のソリスト・演奏家が「音を出す」のに比べ、フルトヴェングラーの「音」は「こちらに」迫ってくる。もちろん録音状態が良ければより分かりやすいけれど、一度気づけば録音があまり良くなくともそれを聴きとるのは難しくはない。ただし、これを他人に伝える・「言語化」するのは非常に難しい。フルトヴェングラーが後継者も、同じことをやろうとする者もいないゆえんである。少なくともわたしは知らない。このCDはその「音」がすごくよく聞こえる。平林さんはまことにいい仕事をしてくれたと思う。出来たら多くの人がこのCDを聴いてくれればいいいのにと思う。
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トスカニーニのローマ三部作。いわずと知れた、名演。名CD。わたしはトスカニーニが苦手である。だから見当はずれなことを書くかもしれないが。 このCDを聴いて気づいた。「あ、これ現代の演奏と同じだ」と。なんていうか「音の出し方」?「音の語り口」?あるいは「音の進行の仕方」?アルトゥール・トスカニーニとヴィルヘルム・フルトヴェングラーは20世紀前半の指揮会の二大巨頭だが、後世の指揮界に影響を与えたのはアルトゥール・トスカニーニだ。なぜか?以前も書いたがトスカニーニの演奏は「言語化」あるいは「記号化」ができるから。この時代にこの演奏ができるならそれは「素晴らしい」としか言いようがないだろう。現にわたしも「ローマ三部作」の演奏としてはこれ以外は考えられないと思う。そしてそれは「伝える」ことができるから結果として現代の指揮界に大きな「足跡」を刻む。対してフルトヴェングラーの指揮は、極論すれば「伝達者」であり「言語化」や「記号化」を目指したものではない。どちらが伝えやすいかは論を待たないであろう。わたしはこのCDは素晴らしいと思う。一つの究極の形でさえあると思う。にも関わらず相変わらずわたしはフルトヴェングラーを聴き続けるだろう。あの「音」を聴きたいから。このCDの録音状態は極上。これ以上は望むべくもない。
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チャイコフスキーの交響曲は独特である。ベートーヴェンやブラームスといった、いわゆるドイツ本流の交響曲に対し、まるで抒情詩のような独特な交響曲である。ムラヴィンスキーもまた「自分の目」でスコアを読み込む指揮者である。ムラヴィンスキーにはチャイコフスキーのような、いわばロシア音楽の神髄のような曲でも「伝統」に従うだけの演奏は許し難い。ここでのレニングラードフィルいやムラヴィンスキーの下でのレニングラードフィルもいつものように「鮮烈な」演奏を行っている。これだけの規模なのに音色や演奏が揃っているとかのレベルではない。「音楽を」奏でている。そしてそれを統率しているのはムラヴィンスキー。確かにこれはチャイコフスキー演奏の一つの「究極」であると思う。ムラヴィンスキーはやはり「独特な」指揮者である。
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これは大変素晴らしいCDである。なぜか。「フルトヴェングラーの音がよくわかるから」。録音状態は良くない。ただし1970・80年代にフルトヴェングラーのCDやLPを聞いた人間には問題にならないレベル。あの時なら「音がいい」というレベル。さすがに現在のレベルなら音がいいとはお世辞にも言えないが。ではなぜ「フルトヴェングラーの音がよくわかる」のか。フルトヴェングラーは誤解を恐れずに言うならばいわば「仲介者」あるいは「伝達者」だと思う。普通指揮者であれソリストであれ、自らが音を出す。当たり前だ。自分が演奏しているのだから。だがフルトヴェングラーは違う。彼の演奏は音が「向こうからやってくる」。彼はそれをオーケストラに伝えて音を出させる。内田光子が言うように残された映像からはそれがはっきりわかる。トスカニーニとフルトヴェングラー。いずれも20世紀前半の二大巨頭と言っていいだろう。だが現在の指揮界により大きな影響を及ぼしているのはトスカニーニだろう。なぜか。以前にも書いたがトスカニーニのほうが「記号化」できるから。フルトヴェングラーは自己を見つめいわば「才能」で指揮をした。音を「出させる」のではなく「向こうからやってくる音を伝える」。これをどう伝えるのか。それを実行したのが過去・現在を問わず、わたしが知る限りフルトヴェングラーだけだ。それが、この「不完全な」録音状態からもよく聞き取れる。だからわたしはこのCDは素晴らしいと評価した。この意見は賛否両論いや否定的な意見が多いであろうか。
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