メンバーズレビュー一覧

アップルインザダークさんが書いたメンバーズレビュー

(全201件)

As Planetary Dreams

TAEJI Sawai

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

自分というドラッグに夢中の現代人たちで推せ推せ推すな推すなの大繁盛のセルフ・カスタマイズド・アプリ、そしてトラップ&エフェクトで加工粉飾される私の常夏の青春、その傍ら、ドローンとクローンによる戦争が侵攻と進行を繰り返し、緻密に組めば組むほどノイズが増殖、ノイズを1個1個定義するべきか、いっそ総てをノイズ扱いするか、しかしまあ、捨てられるノイズあれば拾われるノイズあり、未送信のままになってる下書きメール群とゴミ箱行きのスパムメール群、それらをぬくめ直して本日のお弁当にするか醗酵させて明日のパンにしよう、セラピー&ペストのマッチ・ポンプに組み込まれて毒にも薬にもなれない偶像、ノイズを子守唄にして眠る子供たち、寒い朝には冷たい水でこそ顔を洗うべし、神の去った不可解な時代には輪廻転生して六道を逍遥するおぼろげなる未知乱脈不純没義道な音でこそ耳をくすぐるべし、なお惑星に抱かれては。

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THE OTHER もうあきてしまった

長谷川きよし

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

幾度聞いても幾度聞いてもあんなにも面白く思った笑い話が、不意に滑稽さを失って喜劇ではなくなり、もう笑えない、ただ眼前に世界の実相がまざまざと見えるだけ。それはまるで、青々と繁ってた無数の葉が紅葉し、落葉し、ただ裸になった木の幹だけが見えるような、そんな風で。急に今まで視えていた景色が色を失い、その濁りを突きぬけて、別の景色が忽然と現れるような。そんなときにこそ初めて音の姿が見える。音のパッションが視える。
音楽はパッションだ。だがパッションだけでは音楽にならない。肉が必要だ、骨が必要だ、血が必要だ、神経が必要だ。虚実が混濁し、骸と霊が交錯するのが音楽だ。肉体が表情をつくり、表情が肉体を必要とするのが音楽だ。
音楽のパッションと音楽の肉体とを同時に見せてくれるのが長谷川きよしのショーだ。
肉体を脱ぎ捨ててはまた身に纏い、身に纏っては脱ぎ捨てて、常に新しい肉体、常に移ろいゆく肉体でこそ、音楽のパッションは踊り明かす。

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consume+new piecesII [CD+DVD]

NUKEY PIKES

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

90年代の沼に忽然と現われ、また忽然と姿を没したる、怪魚NUKEY PIKES。
おのれがこの魚を釣り上げしか、それともこの魚におのれが釣り込まれしか?
我が消費しているようで我を消費されている、この現代をば泳げる魚。
聖と邪がくるくる反転し、正気と狂気が入り混じり、否定と肯定が交替し合い、被害と加害が錯綜錯乱する、この現代をぞ荒らせる魚。
日常のビートがいつしか、超絶したリズムを刻みだし、
人々の交す言葉がいつの間にか、妖しげな呪文となり、
何気ない音が突如、なにやら異形の調べに変貌し、
見慣れた顔に瞬間、謎めいた表情が浮かび、
普段着の下に、紋様または烙印。
腐り切った沼を、沼底から攪拌せよ!!
沼の藻屑どもを突き上げる、泡となれ!!
そこに何が走る。
そこに何が跳ぶ。
そこに何が見える。
そこに何を怯える。
そこに何を問う。
そこに何を生きる。
しからばNUKEY PIKESとともに混沌の沼のただ中をこそ徹頭徹尾、泳ぎつづけよ!!

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P.I.S.S

PANTA

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

もしかしたらこれが、ロックが大衆社会に身を置きながら大衆社会と切り結ぼうとした最後の瞬間だったのかも……。“流行最先端のロック”が“群集の大流動”に思わず躊躇して……。
90年代の入口がそろそろ見えはじめてきた80年代という階段の最後の踊り場、そして昭和最後のどこかうらぶれたステージで、メジャーとインディーズにすっかり分離してしまう前のロックが、最後の足搔きでむやみにやみくもに苛立ってる……。大衆社会に完全に背を向けることもできず、かといって大衆社会の流れに盲目に身をまかせることもできずに……。それがpantaの”p.i.s.s.”か……。
 ――だけどペンキをぶちまけて
   塗り変えてしまうなんて オレは出来ないだろう
踏ん切りの悪さのなかで、ただ瞬く、花田裕之の凛々しズム、pantaの不埒ック……。体制と反体制との狭間の谷間に堕ちて、消えてゆくその炎、幻影のような音だけをあとに残し……。
天使と悪魔とを結ぶ、流れる橋の真ん中で、身体を揺らしながら見つめている、ロックの飛沫(しぶき)とその行方、その栄華、その瘢痕を……。

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FREE

GOOD MORNING

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

己を閉じるためのハードコアではなく、
己を開くためのハードコア。
自縄自縛の牢獄に引き籠もるためのハードコアではなく、
自由な大空目指して全力で飛翔するためのハードコア(またはバードコア)。
勇者や英雄や二枚目になるためのハードコアではなく、
ただただ、ただのアホになるためのハードコア。
じっと孤独に沈潜するためのハードコアではなく、
未だ見ぬ世界への扉を開けて入っていくためのハードコア。
墓穴に身を横たえ安眠するための仮死のハードコアではなく、
墓穴からもう一度立ち上がり出ていくための蘇生のハードコア。
晩だろうと夜中だろうと昼間だろうと、
おはよう、グッド・モーニング、と
世界の窓に向かって、命ほとばしる声をかけるならば、
重い鎖からすっと解放されたハードコアが、
僕を激しく烈しく迎え入れるだろう。
僕の血潮と世界のうしおとが呼応し合いながら。

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友川&トシ マンダラII 1991年7月15日

友川カズキ

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

猛り立っても犬、這いつくばっても犬、褒めそやされおだて奉られても犬、罵倒され追い払われても犬。今世も来世も犬、前世も犬だったし、そのまた前世もそのまた前世もそのまた前世も犬だった犬だった犬だった。成り上がっても友川カズキ、成り下がっても友川カズキ。今世も来世も友川カズキ、前世も友川カズキだったし、そのまた前世もそのまた前世もそのまた前世も友川カズキだった友川カズキだった友川カズキだった。やみくもな鉄砲数撃つから表も裏も友川カズキ、A面もB面もC面もD面もE面もF面もG面もH面もW面もX面もY面もZ面も全部友川カズキ、煮ても焼いても友川カズキ、洗っても晒しても友川カズキ、装っても脱いでも友川カズキ、凪いでも荒れても友川カズキ、明けても暮れても友川カズキ、地に縛りつけられた馬車馬のようであり、天を駈けゆくペガサスのようでもあり。しかしあり得ない色をした犬、あり得ない色をした音、は何処から来るのか? 火宅にて歌え、燃えさかる諸行無常の歌を。水底にて歌え、果てしなき万物流転の歌を。歌は千里万里と旅をすれど、己はずっと闇の中で悶えている。眼は過てどカードは過たず、酔いは乱るれど酒は乱れず、声は破るれど歌は破れず、空が焼ければギターは薔薇色、祭りは盛れど我は盛らず、魚は泳げど犬は泳がず、鳥は飛べど犬は飛ばず、風は吹けど口笛は吹かず、仏は踊れど友川カズキは踊らず、波が打てば季節は巡り、太鼓を打ちて世界を巡り、犬を打ちて世界を殺し、花を打ちて世界を産め。

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JOURNEY THROUGH LIFE

Femi Kuti

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

飛ぶことをやめた矢は落ちる
旅しなくなった音楽は黙す
奴隷的ノルマ小市民的ルーティンを射続けるよりはむしろ
その安住の蛸壺からいつもの獲物を仕留めるよりはむしろ
旅する音楽の矢に深く浅く鋭く鈍くずっと射抜かれ続けていたい
フェミ・クティの産み出す音楽の切っ先は
旅によって人生によって常に研ぎ磨かれている
だからいつ聴いても射抜かれる、これからも射抜かれたい
いや、フェミ・クティの矢に射られたままアフリカの矢を我が身に抱えたまま
俺もまた旅を続ける、血をどくどく流しながら、ぽたぽた血の跡を大地に残し晒しながら

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LIVE 新宿発・謎の電車

シバ

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

風と星の交差点でブルーズがつまずく
夕暮れと夜明けの交差点でブルーズがむせぶ
終電と始発の交差点でブルーズがめざめる
大陸と島国の交差点でブルーズがとまどう
謎と酒の交差点でブルーズがはじける
出会いと別れの交差点におけるブルーズのきれあじ
平日と祭日の交差点でブルーズがヒッチハイク
北と南の交差点でブルーズが汗をながし
西と東の交差点でブルーズが血をながす
生と死の交差点をながれゆけブルーズ
ギターとハーモニカの交差点を旅しつづけるのがブルーズ
おかえりなさい、と、はじめまして、の交差点をば千鳥足で駆け抜けろブルーズ
お前のブルーズを脱ぎ捨てろブルーズ、俺のブルーズを剝ぎ取ってくれブルーズ
脱ぎ捨てても脱ぎ捨ててもブルーズ、剝ぎ取っても剝ぎ取ってもブルーズ
まさしく絵に描いたようなブルーズでもあり、絵になんかとても描けないようなブルーズでもあり
住めばブルーズ、放浪してもブルーズ、呑めばブルーズ、寝てもブルーズ、果てしない青空のようなブルーズ、底知れぬ宵闇のようなブルーズ、ブルーズを喰い尽せば喰い尽すほどまたしてもブルーズ、ブルーズの鎖、ブルーズの刃、ブルーズの佛

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鉄は熱いうちに打て、蜜は甘いうちに吸い尽くせ、
コツは若いうちに摑み取れ、靴はとことんええ靴をとことん履き倒せ、
ケツは青いうちが花。
浪と花の国、浪花では淀川もよどんでいるようで、
水中では常に革命に次ぐ革命、革命を笑いのめす革命で
酔いどれては醒め、醒めては酔いどれしながら流れ下り、
人情と非情との間をば八百八橋が跨ぎ越す。
熱い抱擁の汁のなかに塩のように庖丁の冷酷と悪童の悪戯(いちびり)心を
潜ませた浪速のルードボーイズ、
生意気は生だからこそ生鮮で価値がある、
意気とビールは生に限るで!!
餓鬼は知ってる俺らの生意気地。

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SOUL BRAVES

吼流魅

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

歌はふるさと。歌えばいつでも故郷が蘇る。
歌は走馬燈。歌えば命が修羅場を駈け巡る。
歌は道しるべ。歌いて歩めば迷いなし。
歌は街道。歌えば今日も出会いと別れの数珠つなぎ。
歌触り合うも多生の縁。
ギターは魂の滑走路。魂は猛り、疾走する歌に冠と蹄鉄と剣とを与える。
口笛吹けば、歌が集い、
歌が集えば、ギターが吠え勇み、
天に沖し、地に轟き、人を貫く……。

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Key To Nowhere

Brother Ah

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

もう僕はどこへも行きたくない。竪琴を大地に据えるようにしてこの地球上の1点に腰を下ろし、竪琴の弦を爪弾くようにして心の弦を鳴らし、その音に聴き入っていたい。もう僕は何にも喋りたくない。ただ笛を吹くか、唄を歌っていたい。もう僕は考えることにも飽きた。今は只管(ひたすら)、風の揺りかごか風の墓場で、淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)の音楽に耳を澄ましているだけ。風は死んだ。風は生まれ出でず。けど、世界に僕が宿るようにして神を僕が宿すならば、もう僕はどこへも行かず、ずっと心の竪琴を鳴らしていよう。いや、心に雨が降り心に風が吹くならば自ずと竪琴は世界中に鳴り渡るだろう、いつのまにか故郷に帰還せる放蕩息子の竪琴が。

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ギリシア人ギター奏者George Tossikian(ゲオルゲ・トッシキアン)がアルゼンチン人ギター奏者Máximo Diego Pujol(マキシモ・ディエゴ・プホール)の書いた曲を弾く、という趣向のこのCD。アテネのスタジオでの録音、ギリシア人製ギターを用いての演奏。
さてアルゼンチンはどこか湿っぽくてうらぶれた、流亡と陰謀の国。
かたやギリシアは乾ききって光に溢れた、因果とロゴスの国。
陰謀が勝つのか、ロゴスが勝つのか?
或いは、澄明なる陰謀となるか、どんよりとしたロゴスとなるか?
広大なアルゼンチンの大草原(パンパ)に上陸したギリシアの船乗りは、故国の岩山に引き比べて思い巡らすのか、ここではどんな喜劇や悲劇が繰り広げられるのだろう、いやただ陰謀あるのみか、と。
光が満ちた部屋であっても、あえて暗くてじっとりとした押入れの中に隠れ潜んでいたいときもある……。それとももっと明るい外の世界へと裸足でぐっと足を踏み出すか? その足は砂にぐっしょり濡れるだろうか、泥でさらさら乾くだろうか?

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また逢う日まで

JOJO広重

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

“この前逢った日”と“また逢う日”とのはざまに流れるものは、
歌であろうか、ノイズであろうか、
いやしかし、そんな広漠とした空地にこそ五慾七情八観九相が
ひっそりと花開かせているのかも知れぬ、続々と……。
最近はオンライン一辺倒で、常にネットに繫がって接続された状態でないと
不安でしかたないという風潮だけれど、
オフラインじゃないと生み出せないものもきっとあるだろう。
たとえば、絶海の孤島から発信する手紙のような、
絶海の孤島にて呼び戻す、痛切な記憶のような。
何処か向う側へ届きたい、届けたい、向う側から取り寄せたい、
という情念が、画龍に点睛するのだ。
だがさらにまた、点睛された画龍を画面から引き剝がし、門を潜り天高く登らせるものは
いったい何であろうか?
それはもしかしたら、時の運かも知れないし、気紛れかも知れないし、
思い込みと思い上がりかも知れないし、エロスかも知れないし、
絶体絶命孤立無援しどろもどろのノイズかも知れないね。
ともかく、
鳴かぬならその鳴かぬ音を聴いていよう、ほととぎす、いつか鳴く日まで。
都は遷(うつ)れど人は遷らず、人は遷れど音は遷らず、音は遷れど鬼は遷らず、
鬼は遷れど神は遷らず、神は遷れど死は遷らず、死は遷れど都は遷らず、
そうこうしながらただ世が遷ってゆく、歌とともに、ノイズとともに。

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噓も方便、弦も方便。
心の揺蕩い、揺らめく、その煌めきと陰翳とを映し出す鏡としては、ピアノよりかギターの方が相応しい、ような気がだいぶするな。
だってピアノはどこかしら四角四面で噓もよう吐かん、ようなところがある、のにひきかえ、
ギターならさらさらと噓も作り話も武勇伝もロマンセもたちどころに立て板に水音、巧み巧まざるして川の流れのごとく迸り出、川面のごとく有象無象を映したり乱反射……。
というかそもそもピアノをかつぎ廻るわけにも持ち歩くわけにもいかんしな。
ギターなら、夢をなくした奈落の底へでも夢を見晴るかす山巓の先へでも我が身と共に携えていけるわけだしさ。
アジアにはアジアの川の流れ様があるように、アジアにはアジアの噓の吐き様があり、そしてまたアジアにはアジアのギターの音色、ギターの鳴り様があり、己独自の反響と投影をば示現せよ……。

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I'M A KING BEE

ルースターズ

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

ライブのMCで誰かが言うてた、県境あたりの道を車で走ってると得体の知れん獣の臭いがどこからともなくしてくることがあるねん、って。
’79年秋から’80年夏にかけて録音されたルースターズのこの音源集は、70年代と80年代の境界線上に漂うそんな獣の臭いをしっとりこっそり発散させてる。
年代が変ったくらいでそれがどうしてん、っていう人もいてるやろうけど、それでも或る年代を境に魔法にかかったごとくカボチャが馬車になったり、逆に馬車がカボチャになってしもうたりするもんやねん。
70年代に有形無形に沈殿してきてたものが80年代のフェイルターを通って濾過されて現われてきたりして、或いは少年時代の祈願やガラクタが青年時代の冗談や宝物に変身したりして、夜の着想が昼の発想に変貌したりして……。
「ロージー おしえて ロージー
 何が欲しいの おしえて ロージー」
「うつろに空を見つめて
 ただただ体ゆらす」
巣を造って大将になりたいのか、巣を捨てて落ち武者になりたいのか、ともかく自分は何が欲しいのか知りたければ、巣と虚空の境を全力で飛翔せよ、溜め込んだ蜜を使い切ってしまうまで、羽が乾ききってしまうまで。そのときどんな獣の臭い、虫の臭いを翼が放つのか、それを嗅げ、そして境界の先でone more try。

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踊絵 - ODORIE -

坪口昌恭TRIO MIII

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

たとえば料理には、刻む快楽、混ぜる快楽、捏ねる快楽、包む快楽、挟(さしはさ)む快楽、塗(まぶ)す快楽、加熱する快楽、味付けする快楽、盛り付けする快楽、取り合わせる快楽、食う快楽、食わせる快楽などがあるわけだけど、
一番ないがしろにされているのが、材料を刻む快楽であって、
しかし一番料理人の個性というか性格が反映されるのは意外と、この刻む作業であって、
どうしても人は、味付けやら盛り付けやらにやたらと着目してしまうけれど、
刻み方こそ命、むしろそんな風にも言えたりもして、
それと同じことが音楽にも言えて、ビートを刻む快楽、というものが確実に、在る。
だけど、料理において材料を刻む作業がフードプロセッサーで機械化されるように、音楽においてもビートを刻む作業が打ち込みによって機械化されていくのが今の風潮である。
ビートなぞは機械に刻ませて、人間は味付けや盛り付けだけに注力すればいい、というそういう風潮が今や盛んである。
しかしながら、ビートの刻み方にこそ音楽人の個性が最もよく出る、と言えはしないだろうか?
人間自身が刻み、機械が味付けする、そんな逆転こそ、今の時代に必要ではないか?
君は、野菜を刻んだり、肉を切り分けたり、魚を捌いたり、にんにくを潰したりするように、ビートを自らの手でとことん刻んでみたくはないのか?
機械によって単調に何の変哲もなくガキの使いのごとく刻むのではなく、所番地を要領よく手際よく区切って細分化していくように、世界を絶妙に小刻みに自分流に刻んでゆく、その痛快さと明敏さ!
本作はビートを刻む快楽、というものをもう一度新鮮に思い出させてくれる、という点で有難い1枚。
人類は2足歩行を獲得したのだが、これは進歩であるとともに呪いでもあって、僕たちは何かを刻んだり、米を研いだり、ご破算に願いましてはと算盤を弾いたり、数珠を爪繰ったり、薪を割ったり、タイプライターを叩いたり、将棋を指したり、字を拾い行(ぎょう)をなぞり頁(ページ)を手繰り、杖を突いたり、草を毟ったり、手心を加えたり、手品を繰り広げたり、手で影絵を作ったり、手振りとともに踊りを踊ったりせずにはいられないのだ。まあでも、猫も毛糸玉を弄んだりはするし、なんなら蛇だって踊らせられるんだけどね……。

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猫は夜中に散歩する

みみのこと

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

ビリヤードの球になるよりはビリヤードの棒になれ、と先輩は懇懇と教え諭してくれたのだけれど、だしぬけに棒に突かれてそこらじゅう四方八方五里霧中七転八倒転げ回る球にこそなりたけれと思ったりもする僕である、十字架を背負うというよりかは十字路をてくてくと歩む身ではあるものの。しかし球とはいえど僕などはとても完全な球にはなれぬのでありまして、ラグビーボールのようにいびつな形になるは必定、どこに転がるか判ったものじゃない、或いは、海栗(ウニ)の躰(からだ)のようにあちこちひっかかってとつおいつして、或いは、くす玉のようにぶら下げられて中身をぴらぴら露出し。真四角真っ平らなテーブルではなく起伏する三角地帯の、アスファルト道の亀裂が織り成すダイヤグラムを這うとかげとなれば、球は棒となり、彼岸はもとより此岸にもいられず三途の川で月光と戯れるすっぽんとなれば、棒は球となる。直線状にひた走る地下鉄で移動するよりは田中小実昌のようにあてもなく市バスに乗ってぐるぐるふらふらしてたいけど、市バスは夜遅くなるとなくなっちゃうもんな、だから市バス乗りも夜中は地下鉄に乗るってわけで。しかし猫の話はないんか? いや、それは猫がコタツで丸くなってからにしましょうや、いやそれか、もっと夜が更けて猫が散歩に出かけてからにしますかな。それまではみみのことを聴いていましょ、新しいような古いようなこの3人の。かっこよくゴッドファーザーを飲みたいのはやまやまだけど結局はハンターカクテルをばこしらえつつ。

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THE GREATEST SWELL

ガスタンク

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

現在のGASTUNKは、最新鋭のサイバーパンクであり、かつ、栄枯盛衰紆余曲折を経たるサヴァイヴァーズパンクでもあるのだ!!!
生身の人間3人でやってるから単純に言えば3ピースバンドになったわけだけど、しかし、3.5ピースバンドって感じね、今のGASTUNKは。
その0.5は何やねん? といいますと、それはスウェル(うねり/勃興/増幅)でありダブ(打舞)であり闇市(ブラックマーケット)で掘り出してきたブツであり打ち込みならぬ憑き込みであり式神であり時の氏神でありロシナンテでありガイストでありゲニウスでありスピリットであり現メンバーのそれぞれの来歴であり過去のメンバーの忘れ形見であり聴衆の想い入れであり肉体に彫り込まれ魂魄に刻み込まれたる様々なる意匠であって、その総体こそが3ピースに0.5を賦与し生存の涯へ向けて賦活する。

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Midnight invitation

FIVE NO RISK

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

昼間の泥仕合で刀折れ矢尽き七転八倒天井には穴開き床は抜け見捨て見捨てられ青息吐息つく男に真夜中残っているものはただ煩悩だけであってしかし全ての煩悩を招き寄すれば108もあるそうで夜が滅するのか煩悩が滅するのかその瀬戸際に音がまなこ開き夜のどん底の金輪際から叫びのあぶくが噴き上げつつなけなしの銭をはたいて飲む酒喰らう飯が美味であるようになけなしの命と詩と煩悩とをはたいて歌い奏でる曲は青春へ誘うのか死へと誘うのかそれは判らぬがとにかく疾風迅雷全身の闇を貫いて煌めき無慚無愧である

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ブランコの好きな子供と、滑り台の好きな子供とがいるが、
あんたはどっちだったんだろうなあ。
いやむしろ、他の子が滑り台で滑ってるのを見てるのが好きだった、
そういう性質(たち)かい?
どんなに長い滑り台を滑ってたって、いつかは地面に到達する、そんな風にどんなに記憶の滑り台を滑っていって過去へ過去へと下っていっても、
ある地点で不意に止まってしまう。だがあんたはそんな具合に一気呵成に記憶の底まで下っていったりするよりは、
階段を上り下りしたり踊り場で佇んで駄弁ったりしたりするように
記憶を行ったり来たりまさぐったり指折り数えたりする方がよかったんだろう?
北欧の白夜が、夜の時刻まで昼を引き延ばして光らせるように
青春を可能な限り引き延ばしてずうっとしぶとく発光させる、そんな生き方もあるが、
あんたは青春と暗夜とを綯い交ぜにして寿命の灯火を点滅させることが生甲斐だったんじゃないか?(自分では気付いていなかったかもしれないが……)
あんたは滑り台を滑るところだけでなく滑り台の階段を昇るところもよく見ているんだねえ。
だしぬけに陽が墜ち、あんたは昼の闇を、記憶の夜を、彷徨い出す、
一歩一歩、己の足取りを確かめつつ無常の中へと足を踏み入れ。

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Flood

They Might Be Giants

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

願わくば、全ユニバースと全歴史とを睥睨する巨人たるか、さもなくば、小石でもピリリと辛い飛礫(つぶて)たらん。だって来り来るべき洪水の世を渡り切れるのは、巨人か飛礫のみ。むろん、飛礫を自由自在に投げ操れる巨人がいちばん凄いにきまってるが。
ヤフー知恵袋ならずしてロック機知袋とも言うべきゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツの作品は広大無辺なる宇宙の暗闇を裂帛の気合で、しかしじつにじつにユーモラスに斬り裂く飛礫のような口笛であって、矢数俳諧のごとく無数の切り札で夜を萎縮から救い、夜を愛と響きと啓示と冗談と遍歴とで横溢もしくは発露させるのだ。

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偽物はあなた わたしも偽物
竹千代様以外は全部嘘
Easy dream, Easy come, Easy go, Easy dream
今や、夢も幻も地位も名誉もファンタジーもユートピアも快楽も希望も青春も風光明媚も風味絶佳も
全部、ワン・クリックで自動生成
の世の中で
トリックばかりが幅を利かせ、本物の魔法は廃れる一方で
細工が悪いというわけじゃあないが、せめて小細工ではなく
特大の大細工を見せてくれ
偽りの魔術師たちよ
世界創造の半自動ドアの
ドアをあけて 出て行く人もいる
ドアをあけて 帰る人もいる
ドアをあけて ただ流れていく
Easy year, Easy come, Easy go, Easy year
年月が流れる、のではなく、己自身が流れゆけ
東西南北人跡既踏
春たつやとぼけて猫の一歩より
シルクロードもトリックロードもいずれは砂に埋もれ
ただマジックロードのみがおとぼけ顔でどこまでも

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ブルース・ブラッド

Immanuel Wilkins

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

音楽には2つの側面がある。己のルーツやアイデンティティを確認するという側面と、時代時代の新しい価値観や想念や流行を音にするという側面とが。そういう意味で生成AIは厳密に言うと音楽を創ることはできない。なぜなら、生成AIにはアイデンティティがないし、既にある素材をいかにももっともらしく組み合わせていくに過ぎず未知の新しさがないから。
イマニュエル・ウィルキンスの『ブルース・ブラッド』では、アフリカン・ルーツとアメリカン・ドリームが交錯し、そこに代々流されてきた無惨な血と吐け口を求める鬱勃たる若い蒼い血が交流する。
大衆が音楽を創るのではなく、むしろ音楽(と言葉)が大衆を創り導くのだ、という極めて重大な秘密をもこの作品は教えてくれる。
先祖の地を遠く離れ、先祖が愛用した楽器を何一つ持たず、サックスというハイカラな新しい楽器を頼りにして、己のブルースを流れる血が根源の心臓まで帰り、そしてまた根源の心臓から新時代に送り出される。

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La Fusa con Maria Creuza y Toquinho

Vinicius De Moraes

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

寒い冬になると、きまって南半球の音楽が聴きたくなる。人恋しい、ではなく、音恋しい気分にさせるのだ、南半球が。南半球は今、夏だし。
ブラジルの詩人と音楽家たちがブエノスアイレスに集まって、1970年7月にスタジオ録音したのが本作である。冬のブエノスアイレス。ライブ音源のような体裁にするため、客の拍手の音や歓声等があとで重ねあわされている。
ブラジル国内で録られたブラジル音楽と比べて、音がシャープで異邦にある孤独感がどことなく人の心を刺す。ブエノスアイレスに刻まれるブラジリアン・ポルトガル語の“トリステーザ”、“フェリシダーヂ”、“サウダーヂ”、“ヴィーダ”の響き。冬の猛烈な湿度に芯まで冷え凍えそうになりながらギターが鳴りその音(ね)が滴る。
独り淋しくクリスマスを過ごすことになりそうというお前にそっと贈りたい、南半球からの差し入れ。
お前のブラッククリスマスにブエノスアイレスからブラジルの詩と音楽が雪のように降りしきり降り積もる。
孤独な異邦の街で刻まれる音や歌が、いつも孤独であるとは限らない。

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リズム

THE ACT WE ACT

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

世界はメロディとリズムとで出来ている。
(いや、リズムとブルースとで出来てんのかな、その辺はちょっと曖昧だけど……。)
メロディは上がったり下がったり、焦らしたり泣かしたり、生かしたり殺したり、こぶしを利かせたりハーモニーを使ったり、千変万化しつつ曲が進行していくわけだけど、リズムの方は基本的には同じ曲の間は同じリズムが続いていくのであって。
だがしかし、同じリズムの繰り返し、と見えて、いつの間にか違うリズムになってたり、なんか変な不規則なリズムやなー、って思ってても、それがずーっと続いてたら、これはこれでこの曲の正しいリズムやねんね、ってそういうこともある。そこんところにうまく対応できるか、がね、キーポイントになってきますわな、実人生においては。
オン・ビートで乗る、か、オフ・ビートで乗る、か、正規運賃で乗る、か、不正乗車で乗る、か、自分で運転して乗る、か、そこのところは各自の判断に委ねられているけど、ともかくメロディの方に乗りたい気持をぐっと堪えて、ビートに乗る、その精神に集中してみませんか? どんな手を使ってでもこのビートに乗る、というその心に。電車を乗り降り、乗り換えするように、ビートを乗り降り、乗り換えする、その所作に。ビートのツボを押さえて曲を指圧する、その勘に。
でもビートに乗っただけで満足する奴が一番退屈。電車に乗ったらちゃんと車内の全人物と広告を眺めわたし、車窓の風景に見入り、降りるべき駅を確認。そんな風にビート内部の光景と有象無象とその営為とに意を払え。
それにしても雨も降ってないし雪も降ってないのに、雨だれのようなリズムがいつでも鳴っている、そんな具合に、名古屋に居もせぬに、名古屋のようなリズムで脈動してしまうのは、きっとTHE ACT WE ACTを聴いた所為に違いない。信長・秀吉・家康の3人の天下人は名古屋を捨てたけど、名古屋のリズムは捨てなかった。名古屋のメロディは捨てたのかな?それは知らん。

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Back To Baalbek

Fairuz

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

“ぼくは多くの河を知っている”というのは詩人ラングストン・ヒューズの自伝本のタイトルだそうだが、さて、このぼくは多くの神を知りたい。きみもかつては多くの神を知っていた、でも今はただ1柱の神だけしかきみは知らない。(だがきみも、忘れてしまった神々の思い出をその血肉のどこかにもっているんだろう?)ただ1柱の神しか知らない君は、でも、多くのフェイルーズを知っている、多くのフェイルーズの歌、多くのフェイルーズの声とその表情を。その中から僕に教えてくれ、とっておきのきみのフェイルーズを。本当の父は判らないけど、産みの母なら確実に判る、それと同じように、きみの本当の神は判らないけど、きみの歌姫なら判る。それはフェイルーズだ。さあフェイルーズとともに埋もれ去った神々、滅び去った神々、消え去った神々、歌い去った神々の思い出を探しに行こうか?
行く先々で降りしきる音、投げつけられる音、漏れ伝わる音、置き去りされる音、荒れ狂う音、音また音に身を晒す、このぼくの音(ね)ざらし紀行は果てもなくフィナーレもなくただ更新に更新を重ね何処までも続いていく。今夜はフェイルーズのレバノンだ! きみはどれだけ多くの神、さもなくば、どれだけ多くのフェイルーズを知っているか? それをぼくに教えてくれ。

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Ziori

Maria Raducanu

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

底なし沼へとずるずると刻一刻引き込まれ、身も心もずぶずぶと見る見る沈んでいくときに、人は頭の中でどんな音楽を聴くだろうか?
僕だったら、ルーマニアの女性シンガー、マリア・ラドゥカヌがアレンジして歌うルーマニア民謡を脳内に聴くかな。
ルーマニアは山あり海あり、森あり平野あり、貴族あり蛮族あり、定住民あり流浪の民あり、城あり教会あり、ウォッカありブランデーあり、都市あり田舎あり、の神変不可思議な魅力に富んだ国だが、その音楽もまた野山や村々、町々を経巡り歩いてまわるような心楽しさと懐かしさがあって、これを聴いてたらどこへだって行けるし、どこからでもまた帰っても来られるような、頼もしさ。
マリア・ラドゥカヌの歌を聴いて、蛙になれ、鳥になれ、風になれ、煙になれ、光になれ、矢になれ、ロケットになれ。そうすれば底なし沼からも翔び立っていける。
だがまずはむしろ重力を言祝ごう。空の星を見よ! 広大限りない宇宙の孤独な無重力空間で、それぞれの星がそれぞれの重力と引力をもっている、その重力をば存分にとくと言祝ごう。脱重力でもなく、超重力でもなく、祭重力で、重力をおまつりして、重力の中で跳べ、重力とともに踊れ、重力にほだされつつ歌いながら嘶(いなな)きながら天まで駈けよ!

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ピース・アンド・ノイズ

Patti Smith

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

古代インドの聖賢は説く、“執着から離れてただ行為することのみに専心せよ Perform action without attachment. ”と。
平和と騒音 peace and noise をともに抱えて僕たちは生きるが、
練達したヨガの瞑想者は、諸々の騒音を追い払おうと執着するのではなくむしろ耳に入って来るがままに騒音を聴き、その種々の騒音を聴いている自分の刻々の心の動きに意識を集中し客観視することで、一心不乱な深い平和な瞑想に入ってゆく。
脳髄 brain に立ち籠める濃霧 fog をやみくもに晴らそうとせず、そのもやもやとその推移をひたすら見つめつづけ、そうやって見つめつづけている己、日々死滅しつつ日々蘇生し想起しつづけている己をも観察しつづけ微細部まで把握し魂にメモしつづけること。
パティ・スミスを聴いていつも思うのは、パンクが死んでもパティ・スミスは生き延びるだろう、ロックが死んでもパティ・スミスは生き延びるだろう、音楽が死んでもパティ・スミスは生き延びるだろう、芸術すら死んでもパティ・スミスはそれでもなお生き延びるだろう、まるで聖なる不可侵なる呪文 mantra のように、と。
パンクであろう、ロックであろう、音楽であろう、芸術であろうと執着しても、それはもはやパンクではない、ロックではない、音楽ではない、芸術ではない。パンクから解放されようとして、ロックから解放されようとして、音楽から解放されようとして、芸術から解放されようとして時々刻々の生と死の波のまにまにただ己を行為させること、常に流動明滅生起消沈代謝して一瞬もやむことのない、天地における、運命のさなかにおける超克のパフォーマンスに徹し没し呈し刻し献ずることが、パンクであり、ロックであり、音楽であり、芸術なのであって。

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BULLBONE'S EXPRESS

ブルボンズ

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

どいつもこいつもデジタルでスマートになった気になりやがって、
愛らしく憎らしいブタ野郎は一体どこに行っちまったんだよ?
浮浪者は除け者にされ、腐爛者は廃棄物となり。
古びもしないが新鮮でもなく、腐りもしないが血肉もなく、
死にもしないが生きてもいず、人間失格でもないが人間合格でもなく、
温まりもしないが孵化もせず、家出もしないが脱皮もせず、
そんなスマホ写真写りだけは良いものの同じような顔が多すぎて誰なのか識別も判別もできやしない奴らばかりが増殖して。
そんなまるで加工される前からすでに臓腑を抜かれている不鮮魚のような奴らばかり繁殖して。
そんな世の中でも、握り締めて汗でねっとりと湿った銭で酒を買うて熱烈に呑み干すようにして、ブルボンズの録音した音にただただ鮮烈に聴き惚れ聴き入っていられる、というのはありがたいこと。
ロックンロールはどんなに立派そうに見えても結局は泥の舟。沈んでしまう前に鬼神のような働きで漕ぎまくってさっさと目的地に到達するか、次から次へと新しい泥の舟をこさえて乗り移っていかないといけない。いわば死神と同乗の舟。鮮烈でなくなればその船は沈む。それが掟。それだけが守るべき掟。音の藻屑と消えることこそロックンローラーの宿命にして本望。
「ロックはその時のことを後ですぐ忘れさせてしまうけれど、ジャズはその時のことを後まで考えさせるようになる。(のではあるが……)」(植草甚一)
ともかく、拾った切符や友達からくすねた切符、どこかにしまってあった切符で旅に出てみようか? それか切符の裏側を使って? 行き先は神のみぞ知る、だが「家から遠ざかる者はすでに帰宅している」(ボルヘス)。

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瞬く森

The Bass Collective

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

もちろん山道を登りつめて峠のてっぺんに立ち山彦に向って大声で叫ぶことでもこだまを呼ぶことはできるんだけど、森の中に分け入っていってドアをそっとノックするようにして或いは獲物を狩り出すようにして秘所を振るわせることでもこだまを呼ぶことはできる。
そんな森のこだまに呼びかけノックし狩り出し鳴動させ手と手を取り合って踊り合い密接し秘所に指で触れ気を持たせてみるような手練手管と妖しい微震微動に満ちているのがモノラル録音によるこのアルバム。
それぞれ異ジャンルの3人のコントラバス奏者が森で出逢ったというべきか、それとも3人が出逢ったことで森が出現したというべきか、それともまた森によって3人が呼び出され呼び込まれ呼び交わさせられたというべきか、それはどうも判然とはしないけれど、ともかくこの3人が一緒になってコントラバスを奏し合うことで森が不思議とこだましはじめたのだった、森の重い難渋するこだまが。
コントラバスの音はあっという間に森の闇、木下闇の中に吸い寄せられ、骨格だけの露わな姿になって移ろい消えていく。が、その刹那、森のこだまたちが微動し微笑し微唱し合う舞踏祭が仄見えてはきませぬか?

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東京オオカミ

頭脳警察

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

タンゴの超傑作”ラ・クンパルシータ”が本場アルゼンチンではなく、川向こうのウルグアイで生まれたのと同様に、
希代のロックスター、パンクヒーローもまた、荒川の向こう、埼玉で生まれ育ったりする。
東京オオカミというと聞こえはいいが、どこの馬の骨とも知れぬ風来坊の有象無象が、風来棒で東京の処女膜を突き破って、
東京に押し入り無断で君臨したものではあるまいか。
人は東京人に生まれるのではない、東京人になるのであり、
犬は狼に生まれるのではない、狼になるのであり、
革命は貴族を殺すのではない、貴族を超えるのであり、
頭脳は神を追い払うのではない、神を招き導くのである。
辺境に生い立った名も知れぬタンゴが超伝導して帝都で鳴り止まないのと同じように、
ブレイン・タンゴは大脳辺縁系からじわりと鳴り出して脳中枢を絶えず揺さぶりつづける。
それはそうと、
君たちはどう流転(タンゴ)するか。

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夏という美酒(うまざけ)が熟しきってしまう前に、こっそりと味見してみた少年の驚愕(その夜、少年は寝床でうなされることになるだろう……)。
エマヌエル・ヌネスの音楽は音楽というよりは、音楽自体がただうなされているだけのような、そんな風でもあるし、むしろ人の方がうなされる音楽、という風にも聴ける。
蛹(さなぎ)が蝶へと羽化する寸前の溜息、夕立雲が密集してきて最初の雨滴が落ちる寸前の溜息、厳めしい呪いが解ける寸前の溜息、業火の炎が燃え狂い燃え尽きる寸前の溜息、古代から中世へと移ろいよぎっていく寸前の溜息、そんな溜息を、溜息だけを、ただ溜息だけを、ただただあらゆる溜息だけを、集めたかのような、そんな風な音楽。
果汁が酒に変身するとき、どんな溜息をもらすのだろうか?
果てしないような最果ての渚で、素面(しらふ)と酔いのあわいにある君と愛がうなされているのか、そんな君を前に世界と神がうなされているのか?

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Destiny Moon

アウシュビッツ

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

大阪の夕陽は美しく、懐かしい。
ことに大阪の夏の夕陽は。
それは浄土から不浄土に射す光。
暑く蒸される夏の長かった一日が今日もようやく暮れはじめ、
そして暮色深まり、
待ち侘びた夜が近づいてくると、
ロック音楽がむしょうに聴きたくなる。
いや火照った体軀の芯からロック音楽がふつふつと湧き起こってくるんだ。
それはたとえばアウシュビッツである。
僕はロックバンド、アウシュビッツの名はもちろんずっと前から知ってはいたけど、
いまいちそのよさが解らんかったパンクパンクしたパンク少年やって、
でこの頃やっとアウシュビッツにすっかり心酔するようになって、
つまりやっとアウシュビッツのよさが解る齢になったわけ。
あの気骨と情味あるベースから始まるイントロを聴いただけで、惚れ惚れするし、
林直人の心頭の火を滅却していとも涼しげな歌声を聴いたら、
ああまさしくこれこそロックだ、ってほんまに滾り立ってくるし。
さあ、しぶとかった夏の日も今、沈んだ。
夕陽もええけど、大阪の月も愛でてみようか。
大阪の夏の夜の月は、僕らの運命をぼけ導くのだろうか、
それともつっこみ誑かすのだろうか。
そして林直人の歌声は、夏の灯火をじっくりと炎上させるのだろうか、
それともむしろ即座に冷却してみせるのだろうか。

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Live In London 1982

Brion Gysin

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

言葉は旅立ちたいのか、それとも根を下ろしたいのか。
言葉は旅を続けたいのか、それとも故郷に帰りたいのか。
言葉は世界と出会いたいのか、それとも世界と別れたいのか。
言葉は切り刻まればら撒かれたいのか、それとも拾い集められ編み上げられたいのか。
故郷イギリスを離れ、インド、パキスタン、アメリカ、上海、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、と世界各地を旅してきた西の涯の言葉、英語(イングリッシュ)は、故郷の島国にはたして帰りたいのだろうか。「ロンドン世界の最大都会」かどうかはわからないのと同様、「英語世界の最大言語」かどうかも霧の中。故郷を失くし、母の歌を忘れた言語は、うしろの山にすてましょか、せどのこやぶにうめましょか、いえいえそれは詩人にまかせましょ、それとも画家をよびましょか。
というわけで、イギリスで生れ、カナダで育ち、パリを彷徨い、モロッコで店主となり、アメリカ人のジャンキーと意気投合した、画家詩人・詩人画家であるブライオン・ガイシンがロンドンで行った朗読ライブ・パフォーマンスは実に興味深いのであって。
しかも、共演者は、
 TESSA(cello+bass, the Slits)
 STEVE NOBLE(drums, Rip, Rig and Panic)
 GILE(percussion, Penguin Café Orchestra)
 RAMUNTCHO MATTA(guitar+electronics)
となってて、パンク・ムーヴメントを経た1982年ロンドンの時化(しけ)と凪が聴ける。
言葉は旅をするのだが、言葉は船なのか、いやむしろ水なのか、フィッシュ・アンド・チップスをつまみながら考えてみる。
ブライオン・ガイシンとともに英語は故郷へと帰れたのか、帰れなかったのか。
そしてブライオン・ガイシンとともに英語は旅立ったのか、旅立たなかったのか。

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META浪漫SONIC

極東ファロスキッカー

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

それでは人々は多様性を獲得しようと求めてこの現代のこの地球に生まれ落ちてくるというわけか? だがむしろ、人々はここで無様性に嵌り込んでいってしまうのだと僕は考えておくべきだったろう。
波打ち際の浅瀬で水遊びに興じるかようなネットサーファーたちが芋の子を洗うように犇めき合い、もはや遠洋へと船出する者は稀な、極のない時代。極がなければ多様性が生まれるのかというと、そこにあるのは無様性。
テレビのチャンネルはいくつもあれど、どれも同じような番組が流され、選挙候補者の掲示板には似たり寄ったりのポスターがずらりと並ぶ。レッテルだけは多様に見えるが、中身はすべて同じシステムで作られてる千篇一律で陳腐なもの。
多様性が叫ばれる現代に一様に氾濫する似たり寄ったりの音楽。どれを聴いても同じに聞える。深く耕されない土に生え蔓延るただの草、草、草。
仮想世界、仮想社会、仮想通貨、そして仮想音楽? いや仮想流行の時代だからこそ、実想しましょうよ。そうでないと、かりそめのままの人生だから……。土星の輪は、ファンタジーの産物ではなくって、触れば火傷(または凍傷)もするものであって、むしろ実想の極へとあなたをいざなっているように見えませんか?
極東ファロスキッカーは、こんな無極の時代にあえて極を唱えて実想の多様性を音楽として示してくれる実に稀有なバンドだ! 年を経た実人生とライブハウスでの実演葬が仮想を仮想のままでは終わらせない……。
土星そして天王星、海王星、冥王星へと太陽系の最遠の極みにかりそめでなく息も絶え絶え意気揚々と向かっていきませんか?

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5 -Live at APIA40-

THE END (J-Pop)

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

ジ・エンド。日本語で言うと、どん詰まり。
どん詰まりには壁があるというよりはむしろ、ドアがあると僕は言いたいのだが。
開けて、閉めて、開けて、閉めて、開けて、閉めたら、入れない、のがドアというものであって、
ドアを開けるからこそ、中に入れたり、外に出られたりするわけで、
もちろん誰か先人が或るドアを開けっ放しにしておいてくれたおかげで入っていける場合もあるんだけど、
閉まったままになってる肝心なドアを見つけ出して、自分の意志でそれを開けなきゃならない場合も当然ある。
1950年生まれの遠藤ミチロウがザ・スターリンを結成したのは、1980年のことだから、
遠藤ミチロウは30歳という高齢でパンク(当時すでにパンク・ブームは過去のものになりつつあった)というドアをえいやッと開いたわけだ。
遅れてきた青年ならぬ、遅れてきたパンクスというところだが
(正確に書くと、ザ・スターリンがライブ・デビューするのは6月で、遠藤ミチロウの誕生月は11月だから、
ザ・スターリン結成時は、遠藤ミチロウは30歳を目前にした、まだぎりぎり20代の29歳だったのだ)、
コケシドール→バラシ→自閉体→ザ・スターリンという具合に、どうも遠藤ミチロウは、
閉じ籠もる、開け放つ、閉じ籠もる、開け放つ、という二極の振り子運動による試行錯誤を繰り返していたようで、
ザ・スターリンという把手(ドアノブ)をつかみ、パンクのドアを開いた遠藤ミチロウは
渦中に入っていったのか、それともどこか圏外へ出ていったのか。
(ドアにもいろいろあって、自動ドアとかどこでもドアとかスウィングドアとか回転扉とかいった、特殊なドアもあるけど、
やっぱり大事なドアは自分で正しいノブをつかんで正しく回さないと開かない……。)
で、遠藤ミチロウが最後に組んだバンドがジ・エンド。
遠藤ミチロウはこれで閉じようとしていたのか、それとも閉じつつも天井にでもドアを見出そうとしてたのか……。
囚われの天国、野放図の地獄。
軟禁されたハードコア、強硬なフォークソング。
押し殺された呪文、解放される予言。
血塗られた前世と蝕まれる来世の間で今世を泳ぐ魚は、水槽で溺れてるのか、川の流れに沈んでるのか、
それとも地上絵となって天空にアイシャドウの目配せしてるのか。

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Sketches of Ethiopia

Mulatu Astatke

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

アフリカといえば、サバンナの大草原、大平原、あるいは砂漠地帯が見渡す限りどこまでもどこまでも広がっているような大地のイメージを抱きがちだけど、たとえばエチオピアに行けば、山あり谷あり台地あり湖あり大都会ありであって、山のあなたには何があるかわからんし、山の上でどんな野衾(のぶすま)が待ち構えてるんかもわからん。山あり谷ありの音楽があるように、山あり谷ありのアフリカもあるのであって、そこには何が飛び出してくるかわからん面白さがある。それにしても、絵になる風景というものがあるのと同様に、音楽になる風景というものも存在するのだな……。ムラトゥ・アスタトゥケの音楽はそんなエチオピアの音楽を西洋音楽のやり方を採り入れて演奏するものだが、しかし外面的な西洋音楽の要素よりかは核心にあるエチオピアの要素の方にむしろ懐かしいような親近感を持ってしまうのはどうしたことだろう。長い山道を登り切った先にあったのは秘境ではなくって、ふしぎな故郷(ホームランド)であったのか。ムラトゥ・アスタトゥケの音楽を聴いていると、エチオピアが秘境というよりは、山を下り、海を渡ったところにある西洋先進諸国の方がよっぽどか秘境もしくは限界集落に思えてくるから摩訶愉快。エチオピアの人たちはみんなで楽しくちょっと高いところに住んでるから、それは“孤高”ではなく“衆高”だ! 高原っていうのは、いわばでっかいでっかいお立ち台みたいなもので、太鼓も叩きたくなろうし歌も歌いたくなろうしラッパも吹き鳴らしてみたくなろうし音楽に合わせて踊りたくもなろうというもの。そんな大小さまざまなお立ち台でできている国がエチオピアであって、お立ち台上らりゃそんそん、エチオピアはアフリカのお立ち台。山あれ谷あれ。たとえ平坦でも平凡であるな、山っ気に満ち、谷底を跨げ。

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外道参上

外道 (J-Pop)

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

力業(ちからわざ)、軽業(かるわざ)、離れ業(はなれわざ)。
ロックンロールバンド外道の何が凄いか、というと、
3ピースでこれだけ骨太で、繊細で、奥行きのある音の空間を造園している、
というところにあるだろう。
そして、加納秀人さんの掛け声に呼応して、
聴衆の有象無象がこの音の空間になだれ込んで来て味方につく、
その天衣無縫さ、いや天音無縫さがじつに見事。
日本語でロックをしようとすると、やけにおしゃれになったり、
むやみに泥臭くなったりしがちだけれど、
外道の場合は、おしゃれでもなく泥臭くもない瀬戸際で、
外国のセンスと日本の土俗とを道ならぬ音楽の道連れにして
楽しく華やかに演じてみせるのがまさに業(わざ)ありである。
世捨て人は孤独だが、道捨て人は明るく陽気だ、
外道にはガイドブックに載ってない風景と人情と味わいと井戸端と天気が
その日暮らしで待っているから。
世を捨てずして道を捨てよ、外へ出よう、
道を捨ててこそ、道を外れてこそ、
浮ぶ瀬もあり、歌う瀬もあれ。

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A Grisaille Wedding

Rainy Miller、他

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

嫁が欲しいんか妾が欲しいんか情婦が欲しいんか
矢も楯もたまらず、天上天下唯芽独尊
葱坊主咲く夢の丘を上り下り
散文が散らした花びら浮かぶ浅き川を渡り
油田に足をとられ、湧水に足をすくわれ
絶望は賞味期限切れ、祈りは酒精9%以上・果汁1%以下
意馬心猿街道をそぞろ歩き、ブラックコーヒーに微蕩をたらし
間違い探しに飽きたら、塗り絵に移ろう
塗り絵で色が尽きたら、クロスミュージックパズルにかかろう
何時にどこから誰とアフリカに上陸または着陸したものか、と
いつも地図を見ながら思案投げ首している少年よ
結ばれた縁が結ぼれてほどけないままうまく結べない王子のように
切ったはずの縁を切り直し切り返し切り刻む愚王のように
アフリカに音を馳せよ、倍化する梟とともに
そして自分の人生における不発弾を湾曲する腕力で掘り出して
野原で着火すべきか葬り去るべきか、ブラックコーヒーに微毒をたらし
罪を滅ぼすべきか罪に滅ぶべきか、ブラックコーヒーに媚態をたらし
ブラックボックスからマッチボックスを取り出し
マッチボックスから街を引き出し
街から魔を擦(こす)り出し
マンチェスターの瞳どもにくっきりと照らし出され映り出る曖昧模糊のそのアフリカでな占えや

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Pick Your Poison

45 Grave

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

米国ロサンジェルス出身、女性ボーカル老舗ゴシックバンド45 graveが今年で45周年ということで、おめでとうございます!
それはそうと、雅楽の世界には夜半楽という曲があるそうで、夜にしか演奏しない掟のいわくつきの曲らしい。夜になら、毒饅頭ならぬ毒音楽を毒酒とともにがぶりと齧ってみたくもなろう。世の中には音楽に毒や魔性を盛ろうとする人間もいるわけで。
そもそも人が毒に惹かれるのは、どうしたわけか? それはきっと毒が死への扉を微かに開いてみせてくれるからだろう。さて君はどの扉を選ぶ? 毒音楽という扉もあるんだよ、うっかりしてると気がつかないから、気をつけて。君にとって極めて重大な招待状は、たいがい何気ない場所に落ちてるか、思いも寄らぬ場所にすでに届けられてるものさ。
毒は苦い。火も苦い(灰が苦い以上、火も苦いと思いたい)。毒という一種の火で、君を炙(あぶ)り鍛えよ。焼き場の火で骨のみを残して燃やし尽くされ墓場に行きつくその日までに、君はどれだけの燃えさかる毒をその身に宿し、心中にその火をどれだけ熱く深く味わい、どれだけ苦み走る人生を潜り抜けていくことだろうか? 少年よ、大毒を、大火を、抱け!
 焼印や金剛杖に立てる春
 炎天の底の蟻等ばかりの世となり
 山の夕陽の墓地の空海へかたぶく
 たばこが消えて居る淋しさをなげすてる
 一人のたもとがマツチを持つて居た
  尾崎放哉

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〽ぼろは着てても こころの錦
 どんな花より きれいだぜ
 若いときゃ 二度ない
 どんとやれ 男なら
 人のやれない ことをやれ
とチータはかっこよく俺たちのために唄ってくれるわけだが、
ポピュラーミュージックだろうが、
若かろうが年を食ってようが、
いやしくも音楽家たるもの、
人のやれない音楽をやってやる!
って志がなければね。
今回取り上げました米国ミシシッピのヘゼカイア&ザ・ハウス・ロッカーズは
人のやれない音楽をやってやろうという人間が3人集ってできたバンドだから、
このバンドが奏で出す音楽は、
人のやれない音楽の3乗なのであります。
ともかく、まずはメンバー紹介。
リーダーのヘゼカイア・アーリーは、
34年生まれで南部の寛いだ奔流のような感じのリズムを自然体で叩くドラマーだが、
ドラムを叩きながら自在にハーモニカを吹いたり歌を歌ったりとじつはかなり芸達者でもある。
次はトロンボーン担当で時々歌も歌う、ルイジアナ出身レオン“ピーウィー”ホィッテイカー。
生年はどうもはっきりしないのだが1899年頃らしく、
本作の録音時には80歳位であった模様。
若いときスクールバンドではいろいろな楽器に取り組んだみたいだが、
トロンボーンが一番性に合っていたようで、
プロとしてはトロンボーン奏者の道を歩んでいくことになった。
己の人生観とその心情を音色に滲み出させて吹き鳴らす、なかなか得がたい存在である。
最後はギタリストで48年生まれ最年少のジェイムズ・ベイカー。
クロス・スパニッシュ・チューニングにしたギターで
ベースラインを巧みに気さくに和やかに響かせる。
というわけで、ドラム、トロンボーン、ギターの個性的な3人が
ミシシッピで合流して出来た“ブロークン”なバンドで、
もちろんハーモニカと歌も自分らでやってるぜという楽しさもあり、
世界中探したって俺たち以外にこんな音楽やってる奴ら何処にいるかよ、
なっ、俺たちしかいないだろ、俺たちしかいねえんだよ、
っていう楽しさ、痛快さもあります。

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Lower East Side

Warzone

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

魔天楼が高く高く伸びゆくにつれ、
戦争が低く低く忍び寄る、
そんなWARZONEにてしかと見定めるべきことは、
戦うべき本当の敵は誰で、
手を結ぶべき友は誰なのか、
そのドラッグ《賦活剤》は己を生かしめるものなのか、
それともいずれは殺すものなのか、
今いる場所から即刻立ち去るべきなのか、
最後まで踏みこたえ踏みとどまるべきなのか、
昼に行動を起こすべきなのか、
夜の闇に紛れて進むべきなのか、
垂直組織か水平思想か、
単純な図式で解決を図るほうがいいのか、
非公式なデマの群れのなかにこそ糸口を求めるほうがいいのか、
類が友を呼んだ仲間だけで行動するのか、
むしろ類を見ない友を呼んで仲間として遇するか、
そんな判断は逐一WARZONEのスピードと迫撃貫通力とで
両刀一断、斬り抜けゆけ、
冷徹に煮え凝(こご)り滾る言葉と己の存在理由とを
極部のそのコアからこのコアへと
着々時々刻々と送り届けながら。

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らんど

ZAZEN BOYS

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

繰り返される諸行は無常であって
たとえばクラスの席順が
ある日俄かに
あいうえお順からABC順に変わるかもしれんが
それでもやっぱりアダチ君はやっぱり一番前だろうし
ワタナベ君は相変らずずっと後ろの方に着座するだろう
とはいえ、席は乱れ散って
乱れ散って仲よしこよしも引き裂かれ
ばらばらになるだろうし
ザゼン・ボーイたちも最後尾にのそのそ移動して結跏趺坐することになろう
そもそも、zという奴は今でこそおしまいの文字として扱われてるのだけど
もともとはフェニキア文字7番目の文字ザインであって
剣・兵器を意味してた物騒なような頼もしいような輩で
それがギリシア文字では6番目の文字ζゼータとして使われてたのだけど
ラテン文字では最初は要らないとして捨てられてたのが
やっぱり要るってことでそれで最後の文字として
落ちこぼれてたのを拾われた
という経緯がありまして
当今のザゼン・ボーイたちが果して
落ちこぼれてるのを拾われた存在であるのか
それとも逆に落ちこぼれてるのを拾い上げる存在なのか
そんなことは全部知ってるような知らんような
顔をして、ともかく反吐が出るほどzにまみれて
せっかく出来上がってたジグソーパズルを電光石火で
叩き壊して、夕暮れの西日の残光の迸りを浴びながら
ありきたりでありきたりでない風景を組み上げようとして
いる少年は
話し出すきっかけとなるαアルファを探してるのか
最後通牒となるωオメガを求めてるのか
袋小路にいてるのかションベン横丁に彷徨い込んだのか
グリーン・アラスカでもがぶ飲みすれば
脳内回路の接点が恢復するか、もしくは乱離骨灰にバグりにバグりまわるか
してなんかピカンと閃くかもしれんが

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流れを渡る<完全初回限定盤>

浅川マキ

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

暗い夜明けには
去っていく者と来たるべき者の影と気配が交錯して
でもとにかく、夜明けはやって来るんだ
だってちゃんと約束したんだから
だからきっとやって来る
暗い夜明けには
消えていく者の記憶と現われる者の予感が錯綜して
暗い夜明けには
哀しいさよならとはにかみがちなおはようが混じり合って
もし僕が去っていく者の側になったとしても
もし僕が消えていく者の側になったとしても
もし僕がさよならを言わなければならない側になったとしても
きみが僕の歌を口ずさんでくれるなら
僕たちはまた会えるだろう
なつかしい僕と若いきみは
若い僕となつかしいきみは
きっとまた会えるだろう
だってちゃんと約束したんだから
そうしてきみが流れを渡っていけますように
僕がたとえ流れに没する側になったとしても
きみは流れを渡っていけますように

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HOLLOWGALLOW

dip

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

快楽と懺悔。囁きと手紙。雨と傘。釘抜きとトンカチ。無法と逮捕。新星とブラックホール。流浪と軌道。発掘と埋葬。没義道と律儀。陸橋と踏切。爆薬と睡眠薬。工場と廃墟……。
しかしあれだ、工場と一口に言っても、いろんな工場があるわけで、町工場(まちこうば)もあれば24時間稼働の郊外の大工場もあり、職人技が光る工場もあればフルオートメーションシステムによって無人で製造されていく工場もあり、小ロット生産で図面が次々に入れ替わって種々の製品が作られていくところもあれば、ただひたすら同一製品を同一の規格で作りつづけていくところもあるし、屑の散乱するところもあればクリーンルームもあり、男だけの現場もあれば多くの女や外国人が働く現場もあり、素材を作る工場もあれば素材を加工する工場もあるし、加工品のパーツ類を組み立てる工場もある。
で、さて、3ピースバンドのdipの音楽を工場に喩えるとするならば、もちろんそのミニマル感がやはり町工場あるいは工房あるいは研究室を連想させるのだけれど、それと同時に時として造船所とか製鉄所とか造幣局とかの巨大工場の光景も彷彿とさせつつ、それでもやはりプラモデルが組み上げられていく子供部屋であったり、油と切粉と騒音にまみれた鉄工所のようでもあり、贋金造りが密かに行われている地下室に通じてもいるのが面白い。
dipという工場は、都会の片隅の居酒屋やバーと隣り合う場所に立地しているようでもあり、大自然小自然に抱かれた修道院風の建物のなかに設営されているようでもある……。
とりあえず夕暮れまでdipの工場または工房から聞こえてくる音と言葉に耳を澄ませ揺蕩(たゆた)い耽湎していよう、帰るに帰れず、堕ち着きもせず、次へ行こうとして、次に来るものを待ち草臥(くたび)れながら、自ら音のプリズム・音の回路・音の現像室と化しながら……。

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この世の中には悪や孤独や絶望や暗闇や哀しみがこんなにもこんなにも溢れているというのに、なぜ僕たちはその上に歌のなかでまでも、悪や孤独や絶望や暗闇や哀しみを歌おうとするのか? なぜ君はそんな悪や孤独や絶望や暗闇や哀しみの歌が歌われる秘密の部屋へと侵入しようとするのか? そこへの鍵を狩人のように探し求めて。
僕たちは悪なしでは善を見出すことができないのか? 孤独なしでは絆に気付けないのか? 絶望なしには希望を抱くことができないのか? 暗闇なしには光を感知できないか? 哀しみなしには歓びを味わうことができないのか? 片耳だけでは世界の音をしっかりとは聞き取れないか? 喧嘩して傷つけ合い血を流さなければ恋人たちは愛情を確かめ合うことができないのか? ああ君の声を右耳だけで聴かせてくれ、それから今度は左耳だけで。そうして最後に両耳で聴いてみよう。君を愛そう、そして憎もう、そうして抱きしめよう。君にキスしよう、そして殴りかかろう、そうして抱きしめよう。君を撫でよう、そして犯そう、そうして抱きしめよう、強く激しく密に。
〽愛しあい憎みあっていたいから本気で汗を流す
 それはなんだか昔、片目ずつで見た夢のようだよ
 遠離る意識のなかで
 裸の男女が手を
 つないだ
 大きくなれよ
 パイオニアになれよ
遯(のが)れつつ核心に迫れ! 悪(にく)まずして厳しくせよ。知識と経験とを積め。そして、悪や孤独や絶望や暗闇や哀しみの歌をもう一度両耳で聴いてみよう、ブルー・ベルベッドに身を包んで、星の青い光を浴びながら、その青い深い影を青いスローな眼で見つめつつ、湖よりも深淵よりも青い君に惚れあった肩寄せて……。

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MUSHINOROUGOKU / 蟲の牢獄

BIRUSHANAH

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

世の乱るるとき、
暗夜、天に怪星瞬き、昼にも俄かに巨星墜ち、
地には夥しき蟲溢れ、作物を喰い荒し、
悪の華は狂い咲き、毒茸のみ肥え太る。
かつては麗しき音楽を奏でしその弓を
兇器となして君は戦場へ赴くや?
それとも金属を武器に鋳直すことを拒みて
その金物一式を楽器となすや?
娑婆では無常の風鋭くなれど、
地の底では常闇のお座敷牢で蟲を肴に忘恩会。
〽富士の高嶺に降る星も
 京都先斗町に降る星も
 星に変りはないじゃなし
 堕ちて流れりゃ皆同じ
蝕まれ、廃れきった徳義もまた、
燦々たる陽光を浴びれば甦るであろうか?
この牢獄を君の墓穴とするのか、
もしくは、ここを君の銃身として
新たなる世界へと君自身を発砲するのか?
天と地が相呼応して破獄するときに、
沼の泥からビルシャナが現出する……。

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AUTO-MOD<TYPE-A/通常盤>

AUTO-MOD

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

ハードロックのようにステレオタイプでないし、ハードコアのようにモノクロームでもないし、一体全体この音楽は何なんだ、何と呼べばいいんだ、この強靭なバンドサウンドによって織りなされるこの歪なるピラミッドとそこにこだまする叫喚と警鐘と呪詛とのこの奇ッ怪なる多面体は? ハードゴシック? hard to define… ともかく解釈次第で美酒とも毒ともとれるこの音楽液をとことん呷り、神託ともノイズともとれる詞に耳をそばだて、救世主とも悪魔ともとれる者たちの挙動を観察し、遊園地とも畜舎ともとれるこの《現代》という時代を放浪し、マルチプレイを堪能せよ。顔の見えない謎の独裁者の陰謀に陽気に対処し、奴らが押しつけてくる一方的なORDERに我らは十人十色なdisorderで徹底抗戦すべし! そうやって自らの未来を自らの手でsynthesizeするのだ。カルトでもなくオカルトでもない令和のデカルトは放歌高低吟して宣う、我蜂起する、ゆえに我あり rebello, ergo sum と……

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He's not there

Various Artists

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

バベらない・バベろう、バベります・バベった、バベる、バベるとき、バベれば、バベれ
という風に、固有名詞を動詞活用させる、そんな具合に、ぬらりくらりして不易・不動・不在なる固有名詞“双葉双一”を五段、いや十七段に活用させてみたのがこのトリビュートアルバムでありまして、しかしそれにしても、塔〈タワー〉はバベるためのものなのか、バベってはいけないものなのか? そもそも塔は何のためにあるや? 建てるために建てられる塔、崩されるために崩される塔。と言ってしまえば身も蓋もないので、ぼくたちはその現実を、というか、その現実に当面するぼくたちの心裡のひだひだをだね、そっとエレジーにして、歌う。そしてぼくたちは塔に宿ろう、タワーにホテろう。そして暫し佇立。果してタワーホテルでまってるのはぼくなのか、双葉双一なのか、その答えに一瞬もしくは半永久的に窮して思わず屹立する塔におまえは宿れ。幽霊塔の正体見たり惚れ尾花。

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That Within Blood Ill-Tempered

Shai Hulud

5:
☆☆☆☆☆
★★★★★

文明の神無月。神を喪った孤児(みなしご)たち。留守番中に舐める禁断の附子(ぶす)。開栓を待つコルク。熟れていく渋柿。鎌。暗躍するスパイと強盗。砂時計の砂のようにただ流れ落ちる無数の言葉。夢のなかの夢。陸と海が果てしなく交合するように拒み合いながら混じり合う叙事詩と抒情詩。どうしても思い出せない暗証番号。合ってるはずなのに合わないパスワード。そのとき狼煙を上げるドラム。発破をかけるベース。光明を齎(もたら)すギター。愛憎を縫合する肉声。それらが呼び出す怪物。
さあ、きみの故郷(ふるさと)の怪物をぼくに教えてくれないか。それは山姥なのか海坊主なのか。雪女なのか鬼火なのかのっぺらぼうなのか。きみの心の故郷には、いったいどんな怪物が棲んでいるのか。そして、きみにとっての最初の英雄は? 父だったのか祖父だったのか兄だったのか母だったのか。君の英雄は、勇猛なる偉丈夫なのか知恵と記憶に富む長老なのか磨かれた技術もつ異能者なのか話術もしくは預言に長けた詩人なのか。どうかそれをぼくに話してくれ。
流砂から忽然と姿を現わすようにしてフロリダに現われたシャイ・ハルード。背負われる南。彷徨われる北。鎧うハードコアと脱皮するハードコアとの奇妙な和合。重量ある英雄と身軽な英雄との絶えざる交錯。変転しつついつまでも赤い空。そこから滴る血の長雨のような言葉の連鎖。生き血の生き地獄の季節。砂による止血。凝血しない神無月。神無月を満ち欠けさせる孤児たちの音楽。毒草園でピクニック。

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