カスタマーズボイス一覧

Dvorak : Symphony no 9, Cello Concerto / Rostropovich, Talich, Czech PO / ヴァーツラフ・ターリヒ

ターリヒ指揮のドヴォルザークを聴いてムラヴィンスキーはドヴォルザークを二度と演奏しなかった。古色蒼然かつ明朗。

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村夫子さんが書いたカスタマーズボイス

(全648件)

一夜にして、モーツァルト、シューマンのコンチェルトを捌き、さらにシルヴェストロフまで。気力充実を先ず観るべき。

無調は創造とその反対である実相描出とを同時に実現させる。本盤は無調ではない。テムポと強弱と歌詞と歌詞のブレスとで、創造と実相描出とを実現させた。広義の無調?

二様に表記できて、第1曲ヒンデミットは、「ヴィオラとピアノのためのソナタ」と「ヴィオラソナタ」の場合がある。無論前者を採用せねば、本録音の基軸は説明を開始できない。ショスタコーヴィチも同様。ブリテンのラクリメは、ダウランドの転用。馴染んでいる英国人とは異なり、わが国の聴衆は先ず、英国作曲家の個々の作品に先にじかに当たっておくべきだろう。しかるのちにブリテンの着想を知る。ブリテンとリヒテルとは交流があり、両者による演奏録音もある。音による曲想さらには作曲哲学の開示が残されたこととなった。

テムポの統制良好。曲は新奇。歌詞はいかが? 音の粒のひとつとして詞の粒がはいる。

常に演奏諸形態に独自の工夫あり、その事実には慣れた。本欄上記の通り、ヴォルフガング・ザンドナー氏は「音楽と言葉―アルヴォ・ペルトの作品では明らかにそれが核となっている。言葉が聞こえない時でも、音楽にテキストがない時でも、言語の力がその主題となっている」と付言。ゲオルギアーデス『音楽と言語』を参照のこと。既に音楽の発生過程がそうなのであり、それならば、「言語のチカラ」自体が論述の対象たるべき。精神世界の深淵も表層も、叙述即、叙述者自身の精神の露呈をもたらす。そこまで降りて来なくてはならぬ。

1985年ダヴィッド・オイストラフ記念コンサートの録音3曲。ブラームスの「雨の歌」がある。オイストラフはリヒテルとも組んで、かなりの数の演奏会に参加している。オイストラフの弟子であるカガンは、師とはやや異なる演奏スタイルで、流麗たる音を残した。5年後弟子も早逝。当初リヒテルファミリーとしての録音は出回ってはいなかったが、リヒテル没後にかなりの量のCDが作成された。

1.草木抜群。半世紀前のフュージョン→コン・フュージョン運動を想起。

5.「持ち来せよ」の前後に働く賓辞の妙。

ショスタコーヴィチ明瞭。さて、当日は、ブラームス→ショスタコーヴィチ→リストの順だったのか。

奏者のハイドン解釈はモーツァルト解釈の前哨戦としても参考になる。本盤は1986年71歳の頃の録音。タッチは流麗であるが、一方で往年の録音の起伏は抑制されている。この種の安定した推移は、20世紀音楽の夕べ、の延長上にある現代音楽に対する態度にも近接するのでは?

当方は、アイザック・スターンとインドルジヒ・ローハン指揮プラハ交響楽団を最初に。また、オイストラフ、コーガンの両者の演奏を聴き込んだ。録音を聴く限り、おそらく、オイストラフの音は体幹を通しており異質。コーガン、スターンはいわゆる国際派の秀逸録音である。本盤は、令和時代の新録音。国際派に当たろう。そして、弾き振りなので、ソロの突出と楽団との調和部分とはコントロールされている筈で、聴きやすい配分なのではなかろうか。弦の音はひたすら美しい。オイストラフは、調和の方をどのように認識していたのだろうか。実際に指揮者として立っていた時期もあった。もはや何もかも20世紀のかなたの出来事である。

選曲の妙。なお、1991年版の「BLUE BEAT Blue Note Plays The Music Of Lennon And McCartney」では、重複があるが、CAN’T BUY ME LOVE(Stanley Turrentine)、ELEANOR RIGBY(Stanley Jordan)、I WANT TO HOLD YOUR HAND(Grant Green)、YESTERDAY(Lee Morgan)、FROM ME TO YOU(Bobby McFerrin)、HEY JUDE(Stanley Turrentine)、IN MY LIFE(Gil Goldstein)、GET BACK(The Three Sounds)、ELEANOR RIGBY(Lonnie Smith)、HEY JUDE(The Jazz Crusaders)の10曲。いずれ劣らぬ強者揃い。

リワークスの方のノイズ使用に趣がある。ノイズのソフトランディングとハードランディングと。

脱力、との評もあり音に当たる。早手回しに進むところに速度を落とす調整がある。

本盤が届くまでのあいだにinstagramを介しての告知があった。コメンタールの形式で、動画掲載された。波形は2次元にも表示し得て、添付された付録資料に呈示あり。以上の如く、演奏の内訳は開示されている。受容する側は、事 後 に 説明を手にする。ここで灯を消そうか。音が聞こえる。これは聴きたかった音なのだ。

独自性と親和性と。独自を「卓越」「超越」とみる信者もあろう。1.4.といった企画を、主旋律の出るまでの聴衆の意識の推移とともに外部からの視点で再評価すると、独自も親和もアングロサクソンの音と軽く握手している。さて、コルトレーンの演奏史のどこに位置づけられるのか。

記載に従えば、コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団とのグリーグ・ピアノ協奏曲(26.07.1979,Live,London)のみが初出録音。

8.17.よし。ヴォカリーズは、ピアノ、チェロ、ヴァイオリンと数限りなく視聴したが、本演奏は、かなり良質。ただし、これは声楽の練習曲なので、一度声楽で聴いたうえで、考えてみて欲しい。

演劇展開。アファナシエフよりもアラウのスタイルに近い。内省と表現とは同時に成立するのか。間隙すなわち沈黙の保持する意味が音に反映するし、音の推進力が間隙を自ずから構築する。

最近五木寛之氏による歎異抄の私訳を読み、かつて和辻哲郎氏が正法眼蔵随聞記の解説を担当したのを想起した。本誌本号は、坂本氏に対するwithの随伴の記録を多く含み、しかもそれらは良質である。文句なし。

K.264。ヴァリエーションの小曲ながら推進力あり。

マリー=テレーズ・フルノー。こんな音源がまだあるからこそ21世紀はまだおわらない。

クレンペラー麾下フランス国立放送管弦楽団のふところは深い。されば、弦の音を聴かせてよ。50年代がピークであったとの評もあるが、ここでは、1960年6月17-19日の録音。作曲者のこしらえた旋律をどこまで歌わせるか。

18曲の選曲、整序にあってCD2の巻頭にベルク「ヴァイオリン協奏曲《ある天使の思い出に》」第1楽章を置いた事実が秀逸。常に先達であり続けた撰者であった。

聞き覚えのある懐かしい旋律が再生される。奏者は、語るべき内容を音に仕立てる。聴く者は、そうと知っていて音を受ける。

役割分担して文学の方を引き受けると、『太陽の子どもたち』での主人公の妹と妻とでは、芸術に対するスタンスが異なり、前者は病者の立場において詩的メランコリイを表出するのに対し、後者は芸術に触れることにより享受する喜悦を良しとし、触れていないときにおける倦怠を自覚して、倦怠の存在を指摘するのである。鍵盤におけるメランコリイとデジタルサウンドにおける抽象的幻影=冷たい音との違いが相応するものか。これは、あくまでも比喩のうえでの対照であるので、音、音楽表現での取り扱いを戯曲の内容に応じて点検することを要する。

ウィーン三羽烏をCD1、3に配置。グルダのハイドン、モーツァルト、デームス、バドゥラ=スコダのモーツァルトを収録。スコダの緩徐楽章が秀逸。他に、ハスキル、ラローチャ、ケンプ、バックハウス、アンダ、アニー=フィッシャー、アラウ、リヒテル。

ハイドンの主題による変奏曲。第1ピアノの推進力よし。

音と画像。運動の具体的展開。2つの相が、いつまでも続いていく。

21世紀映画音楽の歴史の一つの極点。バッハの解釈と応用の謂であるが、問わず語らず、そこにある音を聴き分けることとなる。音楽担当のエドゥアルド・アルテミエフ氏は2022年12月に死去。

Anton Webern、Stefan Wolpe、Philipp Herscovici、Leopold Spinner、Fré Focke、Arnold Elston、Roland Leich、Humphrey Searleの作品集。ウィーン学派をグレン・グールドがロシアに伝え、私は、リヒテルが1989年に演奏した音で初めてウェーベルンの27番を聴いた。一種の逆輸入。

DVDには5曲。Neo Geo(from Neo Geo Live in New York,1988)、Merry Christmas Mr.Lawrence(from Media Bahn Live in Tokyo,1986)、Bim Bom(from the 2002 Morelenbaum2/Sakamoto European tour)、Tibetan Dance(from Neo Geo Live in New York,1988)、Insensatez。いわゆる選抜盤であるが、世紀初めまでの作曲者の活動の特徴が良くわかる。

カムフラージュはドラマ『眠れる森』の主題歌。歌詞がドラマの筋のテーマに沿っている点では無類のもの。曲を独立したものとして見ても素晴らしい。

実は、先行本盤の曲の一部については、先行発売音源に「グラフNHK」の附録ソノシートが存在するものがある。経験は、受容者が触れる媒体により変成するだろう。新日本紀行、きょうの料理、宇宙人ピピ、空中都市008、文五捕物絵図、花の生涯、天と地と、新・平家物語、勝海舟良し。新日本紀行の少年少女オーケストラ演奏のものお囃子以降も良し。

坂本龍一氏らによるグールド研究の成果の一つ。DISC1ではバッハと中心に、DISC2ではギボンズ、グールド自身、スウェーリンクの作品を扱う。グールド小史を知る者には理解できる選曲。「もしぼくがやれるとしたら、グールドの演奏や音楽に対して別の面から光を当てて魅力を伝えることではないだろうかと考えました。」と解説にある。

RADIO SAKAMOTOへの投稿作品からすぐれたものを坂本氏が選び出したもの。2004年発売なので、番組においては、投稿、坂本氏らによる活動紹介ともに濃密さを極めていた時期の録音。

本盤の作品は1954年の6月から作られていて、1954年4月からの「七人の侍」音楽編成の後の時期。翌年作者は亡くなる。すでに1936(昭和11)年に金田一京助訳の「ユーカラ」を読み始めており、構想から完成まで多年を要したもの。本盤6小曲のうち最終曲のみアップテムポで仕上げており、印象が強い。

言うまでも無く、バッハに関する定見より始まり、視聴者は、じかに編者の意図に触れることになる。三々五々戻る道々脳裡に浮びきたった音が、貴君の受容の有り様の一部である。わたしは、早速ユリア・ハマリ氏の歌唱に耳を傾けた。

かつてのYMOのテクノポップ+手作り感がまだ活きている。しかし、英語ででも日本語ででも表現の行為は一回性のものであり、やはり、新しい。もっとも当時も新しかった。ここにあるのは、新たな新しさ。

ブリューノ・モンサンジョン氏の映像に、モーツァルトに関して「わからない」というコメントがあった。しかし、ソナタでも協奏曲でも決然と奏者は弾き始める。さて、ベートーヴェン演奏の場合と比較すると、曲想の解釈が対比奏法になじまない。そこで、奏者は何に従うのか。作曲者に従う。それならば、どのように従うのか。

音が、聴く者の妨げにならない。このセッションの安定が、時代の片隅でのいわば夢の実現であったとすると、これからあとの時代には、夢は見ようとして見続けられるべきものとなるのだろう。ボサノヴァを間にはさんだ試みも成功していると思う。

2012年福島から映像は始まる。最初に遠景があって、タルコフスキー監督がきりとったかのような静けさがある。発売は2018年であったが、それまでの長期にわたる取材に基づくもの。水に部分的につかっていたピアノを用いてコンサートを行う。戦場のメリークリスマスのテーマから。元の避難所が舞台であり、聴衆が耳を傾ける。

モルダウの第1の主題に入る前にタメがあり、少々驚いたが、あとの叙述は、聴きやすく、録音良し。また、ナマの音で聴いてみたく思った。

RADIO SAKAMOTOなどのリスナーならば、作曲者のファンのなかには自身も作曲者、演奏家として高段者である存在の層があることを知っている。本盤は、作曲者の従来の音の「愛聴」者であり、かつ「再現性の高い技量」を呈している個人の集合により提供されていることが先ずわかる。そして、「欲する所に従いてその矩を踰えず」といった、自制のコントロールのセンスがあって、逸脱が無い。あなた方は、われわれの代表者でもあったのだ。感謝したい。

バッハ~グノー:アヴェ・マリア。宮澤淳一氏による解説によれば、グールドの残した1962年の演奏に宮本笑里氏がヴァイオリン独奏を重ねたもの。ここで、グノーが旋律を載せた「前奏曲」には、第22小節(冒頭の4小節の反復を数えれば第26小節)のあとに、バッハによる原典に存在しない1小節が追加されていて、原典で演奏したグールドの録音にはそのままでは旋律は重ねられないという難題があった。そこで、施された工夫は? あとは添付小冊子を読まれたし。2012年1月録音。

追憶の形式は、1 大切なもの、2 好きなもの、3 愛しているもの、4 良いと思っているもの、の内容に落ち着くだろう。ここで、わが国では、例えば、黒澤明氏が菊千代に「こいつは、俺だ 俺もこの通りだったんだ」と言わしめる今の尖端における全時間の処理の手法がある。追憶は過去への耽溺ではない。今の今たる鳴動である。

ラフマニノフ前奏曲作品32の5、12。典雅かつ切迫の度合いを拾って鮮やか。チャイコフスキー1番協奏曲は、ゲヴァントハウスにコンヴィチュニー指揮。1951年ライプツィヒの録音。40歳代前半の奏者の音は貴重で、かつ「曲自体」を堪能できる。

奏者は、曲を作曲者にじかに習った。Nimbusレーベルならではの名盤の復刻。

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