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第139回 ─ 映画「コントロール」から振り返る、ジョイ・ディヴィジョンの軌跡

第139回 ─ 映画「コントロール」から振り返る、ジョイ・ディヴィジョンの軌跡(2)

連載
360°
公開
2008/03/27   14:00
更新
2008/03/27   18:07
ソース
『bounce』 297号(2008/3/25)
テキスト
文/村尾 泰郎

混沌の時代を駆け抜けた、ジョイ・ディヴィジョンの4年間


  始まりは76年6月4日、ジョイ・ディヴィジョンの地元であるマンチェスターのクラブ、エレクトリック・サーカスだった。その日行われたのは、当時話題になっていた新バンド、セックス・ピストルズのライヴ。そのショウに衝撃を受けたバーナード・サムナー(ギター/キーボード)とピーター・フック(ベース)が、自分たちもバンドを結成することを決意。彼らはスティフ・キトゥンズと名乗り、ヴォーカルとドラムを募集する。そこに現れたのがイアン・カーティス(ヴォーカル)であり、スティーヴン・モリス(ドラムス)だった。

 4人が揃ったところでバンド名をデヴィッド・ボウイの曲名から取った〈ワルシャワ〉に変更し、77年に初めてのギグを行う。この頃の彼らはまだ粗削りなパンク・サウンドを鳴らしていた。しかし、バンド名をさらに〈ジョイ・ディヴィジョン(ナチス将校がユダヤ人収容所に設置した性的慰安施設から借名)〉に変えて、地元のインディー・レーベルであるファクトリーと契約を結んだことをきっかけに、そのサウンドは大きく変化しはじめた。レーベル主宰者のトニー・ウィルソンが天才エンジニア、マーティン・ハネットを彼らに引き合わせ、バンドはハネットとのセッションを通じて、デジタルな反復ビート(モリスはかつて「リズムボックスになりたい」と発言していた)、フックのメロディアスなベース(ヘタクソなサムナーのギターをフォローするための苦肉の策だった)など、独自のバンド・サウンドを生み出していく。しかし、何よりもリスナーにインパクトを与えたのは、痙攣するような身振りで孤独や切望を歌うイアンの姿だった。79年にファースト・アルバム『Unknown Pleasures』をリリース。同作は絶賛され、長引く不況に鬱屈していた若者たちは、ジョイ・ディヴィジョンの沈み込むようなグルーヴとイアンの激しいパフォーマンスに共感した。

 ところが、ライヴで感情を爆発させることはイアンの精神をすり減らし、同時に私生活でもトラブルを抱えていた彼にとってツアー漬けの毎日は大きな負担となっていく。ついには癲癇の発作を発病するが、それでもバンドの勢いを止めるわけにはいかず、ツアーの合間を縫ってアルバムのレコーディングも行われたという。

 そんな状況のなか80年4月にシングル“Love Will Tear Us Apart”を発表し、その1か月後の5月18日、初めてのUSツアーに出発する前日に自宅で首を吊っているイアンが発見される。そして、7月にイアンの死を悼むようにセカンド・アルバム『Closer』が発表されたのだった。

 イアンを失ったバンドが、その後、新メンバーを加えてニュー・オーダーと名乗り、活躍していくのはまた別の話。USで映画「コントロール」がプレミア上映される際に、一夜限りのバンド再結成の話がフックに持ちかけられたそうだが、その時、彼はこう答えている。

「そうだな、最後に聞いたところではリード・シンガーは死んだって話だったけど、何か状況が変わったか訊いてみるよ」。

 ジョイ・ディヴィジョンがパンク・シーンに残した鮮烈な傷跡は、いまも誰もふさぐことはできないのだ。