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第2回 ─ 山下達郎“白いアンブレラ/ラッキー・ガールに花束を”をチアー&ジャッジ

第2回 ─ 山下達郎“白いアンブレラ/ラッキー・ガールに花束を”をチアー&ジャッジ(3)

連載
菊地成孔のチアー&ジャッジ ―― 全ブロガー 参加型・批評実験ショー
公開
2005/11/04   15:00
更新
2005/11/04   18:21
テキスト
文/菊地 成孔

山下達郎“白いアンブレラ/ラッキー・ガールに花束を”の〈ジャッジ・タイム〉

 変わり果てた姿である。そこにあるのは魔法を失ったポップスの残骸で、7年前まで彼の世界に住んでいた、永遠が約束されていた人々はかなり苦いリンゴを齧らなくてはならなくなる。ポップスの残骸が与えるものはただ二つ。それは老いと死である。

 「ずっと大人になれない 夢見るだけのNever land いつもひとりはさびしすぎる」という2曲目の歌詞の皮肉な響きは〈達郎の音楽を聴いて大人にさせられなきゃいけないのか〉という苦すぎる現在。そして老醜という〈ポップスに淫することで回ってきたツケ〉の大きさによって、絶望的な現実の確認を強要する。

 挙げたくもない根拠の一つ一つが、ゆっくりと襲いかかる。第一にはヴォーカル・トラックの、第二以降には漸近線的に総てのトラックの音質の悪さだ。コンピューターによる20世紀的な芸術の破壊は、映像の世界でも、漫画の世界でも、文章の世界でさえ、そして〈山下達郎だけは軍門に下るはずがない〉と信じられていた音楽の世界でも等しく報告されているというのに。我々は「スター・ウォーズ」や「チャーリーとチョコレート工場」のCGにげんなりした心のまま、彼の天才的な歌声を聴くことになる。彼の歌声が〈まったく変わらない〉ことによる、こんなに酷い皮肉。音程を主にした、あらゆる修正が必要ない彼のヴォーカルが、ありのまま、音質だけを損なって朗々と鳴らされる。いっそ取り上げられてしまえば、どれほど楽だったろうか。

 彼のレコーディング・メイニアックな性質がコンピューターに手を出すかどうか? という懸念は、実はもっと取り沙汰されるべきだった筈だ。我々は信じたのである。彼が凡百のアーティストと同じように〈ポップスのコンピュータライズ〉という、最悪の麻薬性に取り憑かれ、大切な魔法を失うことなど決してないのだと。

  しかし決壊は破られ、1曲目の“白いアンブレラ”は、20年前の彼なら、余裕綽々で〈スタジオで生一発録り〉を選択したであろう〈ジャズのビックバンドによる、スイング・ワルツ〉というアイテムに関わらず、クレジットにはご丁寧にもコンピューター・プログラミングという文字が二人(本人と、オペレーターの橋本茂昭)分も踊っている。一体この曲の何処に、コンピューターによるプログラミングが、二人も必要だというのか? 我々は〈新時代の音楽は新しいテクノロジーと共に進む〉といった近代のウソ八百や〈そもそもポップスのマエストロはサウンド作りに関して機材ヲタクの側面があるものだ〉といった蒙昧な伝説、そして〈これだけ制作に時間が掛かったのも、完全主義者である達郎の情熱によるもの〉といった偽のアリバイを買わせられることになる。「車のコマーシャル・ソングが溜まったから、それをまとめただけだろ。7年も金儲けに熱中して、期待値が上がりすぎたからって、単なるCMソング集を入魂のフル・アルバムみたいに謳うのかよ」等といった悪態を、他でもない山下達郎に吐くことになろうとは。彼は、もう一人のポップ・マエストロである大瀧詠一と並び〈コマーシャル・ソングで良い仕事をするという事の意義〉を啓蒙した第一人者なのに。

  時の流れが常に残酷だとか、リッチマンの腐敗だとか言うのは辛すぎる。現代に適合しすぎている問題だからである。2曲目の“ラッキー・ガールに花束を”の〈死んだ感じ〉は、30年後にはある種のダークサイド・オヴ・ジャパンとして、ブライアン・ウィルソンやフィル・スペクター等と同じ殿堂に入るかも知れない。ドツドツという、何が言いたいのか解らない(〈時代に乗り遅れたリッチマンが自分もコンピューターを使えるんだぞと喜んでいる〉という最悪の創造力まで、あと一歩だ)無機質なキックの連打。数少ない生演奏のパートのピアノ奏者は名人難波弘之。内容は8ビートの単純なカッティングのみ。そしてこの曲もコンピューター・プログラマーは二人。どう聴いてもカット・アンド・ペーストの為(つまり、手間を省く為)だけに使ったとしか思えない(〈時代に乗り遅れたリッチマンが自分も(以下同文)〉という創造力まで以下同文)その新しくつまらんオモチャに熱中するのは止めてくれと嘆願する事でのみ、我々は最後の諦めから必死で離れることになる。

  この、国産車の宣伝広告のために作られた楽曲ばかりを中心に掻き集めたアルバム、そして、更にそこからシングル・カットされるという、二重にエゲツない〈商魂(ライブ・ヴァージョンの1曲のために、このアイテムを買わなくてはいけない)〉が〈ポップス〉という、芸術と経済が見せた栄光の蜜月のなれの果てであり、それはコンピューターという機材が、何にでもバケる、あらゆる世界での最終機材であり、同時に何の機材にもなり得ない。という事実と見事なまでにクロスしている。現在テレビの中で宣伝される商品の中での〈国産車〉というアイテムの位置や意味(服部克久という音楽家の持つ、腐臭に満ちたノーブルさとの相性も抜群である)を考えるに、その絶望的なまでの喪失感が他ならぬ7年振りの、21世紀の山下達郎からもたらされた事を、我々は深く受け止めるべきだ。それはシティの喪失であり、ポップ・ミュージックの死であり、「ずっと大人になれない 夢見るだけのNever land いつもひとりはさびしすぎる」という、両義的ここに極まれりといった歌詞なのである。

 優れた楽曲と優れた歌唱の不変(時の停止。永遠の青春)が時代の激変を際立たせる。信者ならずとも『SONORITE』からの本作と、25年前の『RIDE ON TIME』からの“RIDE ON TIME”を聴き比べるべきだ。“RIDE ON TIME”と“白いアンブレラ”、1980年代の山下達郎と2000年代の山下達郎を比較することで我々が知るのは、現在が、25年前の無惨な反復であるという事実。そして、ポップスは老成しない。という事実だ。 ポップスの死を見せることが出来るのは、ポップスの創造主のみであり、瑞々しい生は、老いと死という運命と対峙しなければならない。歴史は繰り返し、生まれ、死に、再び生まれる。山下達郎はそれを我々に、そういう総てを、とうとう、すっかりと見せた。30年のキャリアが持つ意義はかくも苦い。

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