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第7回 ─ ミー・アンド・マイ・ギャング

連載
JAMES BROWN IS NOT DEAD
公開
2007/11/15   21:00
ソース
『bounce』 292号(2007/10/25)
テキスト
文/出嶌 孝次

JBのファンキー・サウンドもJBひとりでは作れなかったのだ!


 前回は〈DJに殺されたJBの音楽に永遠の価値を与えたのもまたDJだった……〉とかいうもっともらしい結びで、連載っぽく引っ張っていたと思うんだけど、そうもいかなくなったんだな。筆者がそんなことをのんびり書いていた9月12日、JBファミリーの要人だったボビー・バードがローガンヴィルの自宅で息を引き取ったというんだよ……。そんなわけで今回は予定を変更して、そのボビーをはじめとするJBファミリーの凄さを再認識してもらうとしようか。

 我流でオルガンやドラムの演奏も修得したJBだけど、実際にアレンジなどを組み立てるには当然ミュージシャンたちの助けが必要だった。そこでアイデアを形にするためには、バックを固めるバンドのメンバーたちとの密なセッションが必要だったんだね。ジャズ文法とそこに囚われないクリエイティヴィティーを持ち込んだサックス奏者のメイシオ・パーカーをはじめ、鋭いカッティングを駆使してファンク期からディスコ時代にも貢献したギタリストのジミー・ノーラン、名曲のタイトなリズムを編み出したクライド・スタブルフィールドとジョン“ジャボ”スタークスの両ドラマー……と、名前を挙げていけばキリがないけど、そんな腕利きたちの演奏をJBがビシッと統率したり、あるいは自由にさせたりすることでアレンジを膨らませ、そのなかからベストなものをJBが選んで楽曲化していったというわけだ。

 まあ、ライヴで失敗したプレイヤーから罰金を取るという話が有名なように、その厳しさには反発も大きかったんだけど、脱退者が出たらまた新しい才能にチャンスを与えて自身のサウンド更新に利用していたのもJBの冴えたところだな。一時起用されたナッシュヴィルの白人バンド=ダップス(後にライ・クーダーのバックを務めるティム・ドラモンドが在籍)にしろ、古参メンバーの造反に際してたまたま雇ったブーツィー・コリンズらオリジナルJB'sの面々にしろ、そんなチャンスをモノにしてスキルアップを図っていったわけだしね。結果としてJBのファンク・スクールで学んだプレイヤーやシンガーたちは、豊富な音楽的語彙や対応力を身に付けて、いまも一線で活躍できるというわけだ。


ボビー・バードの編集盤『Hot Pants -I'm Coming』(Pヴァイン)