こんにちは、ゲスト

ショッピングカート

NEWS & COLUMN ニュース/記事

第4回 ─ リヴィング・イン・アフリカ

連載
JAMES BROWN IS NOT DEAD
公開
2007/06/21   12:00
更新
2007/06/21   17:58
ソース
『bounce』 287号(2007/5/25)
テキスト
文/出嶌 孝次

JBが訪れたナイジェリアの地には、JBが待ち構えていた!?


  彼はまるでアフリカのジェイムズ・ブラウンだった──JBが自伝にそう記した男がいる。フェラ・クティ。ナイジェリアはラゴスを拠点に活動し、いわゆる〈アフロビート〉を創造したカリスマ的な人だってことは知ってるよね。しかしながら、彼の音楽性もまたJBなくしては実現しなかったものだったんだ。JBが初めてアフリカの大地を踏んだのは68年で、70年の再訪時に両者は出会っているんだけど、フェラはそれ以前からJBの音楽に邂逅していたんだよ。

 そもそも比較的裕福な家庭に育ったフェラは、10代の頃からバンドでハイライフ(と呼ばれるアフリカの伝統的なジャズ)を演奏し、50年代後半からロンドンに留学すると、より本格的なジャズの素養も蓄えていった。そんな彼にJBの楽曲を演奏して聴かせたのはジェラルド・ピーノ(別掲)だという。衝撃を受けたフェラは、ハイライフ~ジャズにファンクのグルーヴを融合させ、やがてそれを〈アフロビート〉と名付けることになる。69年にクーラ・ロビトス(トニー・アレンも在籍)を率いてUSツアーを敢行した際にはマルコムXといった急進的な黒人活動家の影響を強く受け、帰国後はアフロビートを闘争の手段としていくんだ。

 JBがフェラと出会ったのは、フェラがカラクタ共和国を設立して正式に(?)反政府コミューンを築く前なんだけど、今度は進化したアフロビートの凄まじさにブーツィー・コリンズやクライド・スタブルフィールドらJB'sの腕利きたちもドギモを抜かれ、リハーサルを見学しまくったという。そんな様子を見たJBは、自分たちの影響を受けた音楽が今度は自分たちに影響を与えていることに不思議な感慨を覚えたそうだ。もちろん、そうした輪廻が途切れることはない。R&B~ヒップホップ勢のフェラ再評価もあったし、トニー・アレンはデーモン・アルバーンの後ろで叩いてるんだからね! で、同じように60年代のロンドンではJBを〈発見〉したモダーンな若者たちが……続きは次号!