倖田來未“You/Sweet Kiss”の〈ジャッジ・タイム〉
既視感と言えば聞こえは言いが、要するに「全部どっかで聴いたことあるよこれ」という、もはや脱力感を越えた、無痛感、無感覚感である。総てがシュミュラクラ(何かに似ている。何かに見える。という感覚)で覆われた世界。という、凄まじいディストピアをエイベックス・エンタテインメントは我々に見せつけたいようだ。
モード風のメイクを施し、ギャル服でなくなった彼女は、浜崎あゆみの声と歌唱法、鈴木あみの顔(角度によってはあろうことかUAにまで見える)のまま、エイベックスのカタログに保護色的に消えてしまいそうだ。1940年代のMGMビューティー達は、徹底的な整形手術によって同じマブタ、同じ唇、同じ輪郭、同じバスト、同じウエスト、同じヒップ、同じブロンドの髪。に人造され、マリリン・モンロー等はその成果とも言える訳だが、ギャル文化が作り出した均質化と、エイベックスが作り出した均質化の違いは、永遠のイタチごっこの様に見えて、その実答えは明白である。即ち〈エロカワなギャル文化の完成による均質化を、エイベックスはサウンド・プロデュースの怠惰によってダメにしようとしている〉。
これでは、せっかくの彼女の、シンプルなようでいてその実、複雑な効果の重なりによるサクセスが「のっぺりした、淡泊な庶民派顔。という、ネガティブぎりぎりの個性が補償的に、えげつないまでのセクシャリティー(どこまで黒人化を推進しようとも、我々日本人は〈セクシー〉が〈ヘルシー〉に及ぶ一線を越えることは出来ない)と結びつき、露悪的にプレゼンテーションされる。という、汚れ寸前の策が功を奏して大きなセールスを残した来た(それこそ、彼女が好きなクリスティーナ・アギレラ方式)」のだなあ、結局。といった、逆算された、深みのない断罪によって彩られてしまうだろう。
彼女には至急〈何にも似ていない、新鮮な楽曲やサウンド〉を提供し、新たな世界観を購買層の外郭地域に提出させるべきだが、この企画の第一作を聴く限り、とてもそうした未来は見えない。ここに感じられるのは、先程の〈最悪の創造力〉から導き出される〈いっぱいいっぱいの成功が招く脱輪の典型とも言うべき『間違ったハイクラス志向』に向かってしまっているのでは?〉もしくは〈音楽はもう変えることができないから、コスプレをアダプトしただけの安易な企画なのでは?〉もしくは〈ひょっとして、調子に乗っているのでは?〉という危惧しかない。
一作だけなら軌道修正も効くだろう。しかし、これが来年の2月まで12回も続くのである。いらないサーヴィスほどキツいものはない。どうしてこういうことになったのだろうか?
それは、エイベックス・エンターテインメントの〈時代を読む力〉の脱輪に他ならない。アンドロイド/CG/アニメでありながら生々しい自我の血を流すニュー・タイプ・ジャンヌ・ダルクとしての浜崎あゆみに沿って、彼等は音楽の総てを鋳造した。それは、浜崎が女帝として輝いていた、抗鬱剤と引きこもりの90年代末の、正に時代の音楽である。エイベックスは90年代初頭「なんだこいつら?」という奇矯なダンス快楽主義によって世に姿を現し、いくつかのキッチュな変遷を経て〈浜崎音楽〉としか言いようがないオリジナリエーターとなり得た。そして時が経過すると、浜崎よりも遙かに〈生肉〉である倖田を獲得し、浜崎という原型からの偏差を加えながら、時代の変化に対応していった。しかし、倖田に加えられるプロデュースの大半は音楽以外のものなのである。浜崎をただ軽くしただけ。直接的にエロにしただけ。とまでは言わない。しかし、今回のバラードが呼び水となるのは、彼女に特に愛情を持たない層からの、そういった目の粗い批判ではないだろうか?
浜崎あゆみが大衆性を獲得しようとあがき、鈴木あみがセクシャリティーを獲得しようとしてあがくのを後目に、〈いつのまにか〉としか言いようがない意外さで、倖田はエイベックスの顔になった。京都生まれの、〈水商売〉という言葉が全くダーティーにもナスティにも聴こえないという〈天然の品位〉を持つ彼女が抱えている崩壊の可能性は、彼等の陣営が思っているよりも大きい。彼女の快進撃は、景気が回復し、引きこもっている場合ではなくなるであろう(そして、憲法が改正され、女帝が認められるであろう)近未来に向けて、ほとんど支持を失うだろう。それを支えているのは、エイベックスの〈時代を読む力〉の、初めての脱輪である。ギャル文化は敗北した。なにに対して? 彼女のシングルが12枚出終えた頃には、それは歴然となるだろう。
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