超レアにして最高の名演!! シューリヒトとベルリン・フィルによるブルックナーの交響曲第7番、世界初出

超レアにして最高の名演!! シューリヒトとベルリン・フィルによるブルックナーの交響曲第7番、世界初出。早くも音楽評論界では大注目を浴びている稀有の録音で、本年度一番の話題作となることは間違いありません!
シューリヒト最晩年のザルツブルク音楽祭でのベルリン・フィルとの共演が今ここにリリースとなります。曲目はブルックナーの交響曲第7番。それまで不遇の時を過ごしていたブルックナーが一挙に世界的名声を得ることになった作品として知られています。
1938年、シューリヒトはBPOとこの交響曲をポリドールに録音していますが、その後、シューリヒト自身が作曲法に熟練したこととコンサートでの数々の経験により、解釈はより高みに到達しています。さらに、超一流のゲストを招く際には常に自身のオーケストラを最高の状態にチューンナップしておくことにこだわったカラヤンがこのコンサートのわずか1ヶ月前に同曲の演奏を行っていることも特筆すべきことでしょう。
円熟しきった解釈に加え最高の状態に保たれたベルリン・フィルというこれ以上にないコンディションのもと、このコンサートは行われました。その音楽は、1884年の初演時もかくやと思わせるほど、ブルックナー本人の意図と黄金期のオーケストラ手法があいまって現代に蘇った奇跡的な名演となったのです。シューリヒト&ベルリン・フィルという顔合わせだけでも十分に貴重なものですが、演目がブルックナーの第7番でその演奏が世紀の名演、さらに音質もモノラルながら非常に良いとなると、このリリースの持つ価値の大きさは計り知れません。
すでに、試聴を済ませたクラシック界の評論家からは大絶賛が寄せられており、この盤が人気の高い同曲の決定盤たる地位を獲得することに疑いの余地はありません。
ライナーノーツも非常に興味深く、是非ご一読頂きたい内容です。(ページ下部に全文掲載)
【収録内容】
CD1 (24分33秒)
モーツァルト:交響曲第38番ニ長調K.504《プラハ》
CD2 (63分43秒)
ブルックナー:交響曲第7番ホ長調
【演奏】
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:カール・シューリヒト
【録音】
1964年8月5日、祝祭大劇場、ザルツブルク(MONO)
【日本語ライナーノーツ】
文:リチャード・オズボーン(訳:堺則恒)
カール・シューリヒトとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との1964年ザルツブルク音楽祭でのブルックナー交響曲第7番の録音は、非常に価値の高いアーカイヴである。「もし、永遠が口をきいたとしたら、このように聴こえるに違いない。」ブルックナーの交響曲第7番に関する熱烈な賞賛をこのように記したものがあるが、シューリヒトの演奏はまさにそれを具現化している。個々の手法ということではなく、音楽作りそのものが、1884年12月ライプツィヒで初めてこの作品が演奏された際の演奏方法に由来しているからだ。
このライプツィヒでの初演は、29歳だったオーストリア=ハンガリー帝国出身のアルトゥール・ニキシュ(1855-1922)によって行われた。この演奏は、ブルックナーのキャリアにおいても画期的な出来事であった。作品とその評価はヨーロッパ中に知れ渡り、それまで世界中が―より正確に言うならば、ウィーンが―拒絶してきた作曲家を一転して認めるに至ったのである。この時、ブルックナーは60歳だった。
その頃、ニキシュはハンス・フォン・ビューローよりベルリン・フィルの首席指揮者の地位を引き継いだばかりで、ブルックナーの交響曲第7番は彼の「十八番」となっていった。作品は、まだ富裕層に受け入れられたとは言い難かったが、ニキシュが紡ぎ出す弦楽セクションは秀逸で、彼特有の大胆さはなかったがかなり自由なテンポが設定された。
ベルリン・フィルがこの交響曲を初めて録音したのは、1928年、当時まだ29歳だったヤッシャ・ホーレンシュタインとであった。指揮ぶりは歯切れがよく、演奏も見事であり、この作品にとってもベルリン・フィルにとっても名声を広げる好機となった。1930年1月号のグラモフォン誌においてリチャード・ホルトは次のように述べている。「この交響曲が傑作であるという私の意見にご賛同頂けない方がいらっしゃれば、批判を承知で‘その人は音楽を知らないのだ’と言い切ってしまうだろう。この交響曲は荘厳な作品であり、一旦好きになればその人の偉大なる預言者とも、最も印象深い聖書の一節ともなり得るだろう。」
10年後、ポリドールは58歳だったカール・シューリヒトとベルリン・フィルとでこの交響曲の再録音を行った。第1楽章と第4楽章がゆったりした新しい版が使われた。テンポとオーケストラ構成という意味では、今回リリースとなる1964年のザルツブルク音楽祭での録音とこの時の録音はそれほど違ってはいない。とはいえ、スコア解釈が凝り固まっていたという意味ではない。構成の解釈だけは確立していた。この解釈は、指揮者自身の作曲法の鍛錬と実際のコンサートホールでの実演を通した経験により確立されたものである。
カール・シューリヒトは1880年、ダンツィヒ(現グダニスク)でドイツ人の父とポーランド人の母の間に生まれた。父はオルガン製作者であったが、カールの誕生直前、溺れた同僚を助けるために亡くなっている。母はオラトリオ専門の歌手であった。カール自身は音楽のあらゆる分野で才能を示した。10代半ばにして才能ある器楽奏者として認められ、自身が作曲した作品もすでにかなりの数にのぼった。その上、指揮の経験まであった。ベルリンでフンパーディンク、ライプツィヒでレーガーに学ぶ権利を得、その後ヴィースバーデンで指揮者としての地位を得る。この地位は、彼のキャリアのベースとなるもので、1911年から1944年の30年以上もこのポジションを務めた。
当時としては異例であるが、シューリヒトはオペラ界で名を馳せることにそれほど強い興味を持っていなかった。古典、ロマン派、現代作品を含む管弦楽作品と合唱作品がシューリヒトの興味の中心であった。第二次世界大戦の勃発により、スイスに拠点を移していた期間はどこのオーケストラにも属さず活動した。異国の地でレパートリーがかなり広い分野にまで拡大した事実は、指揮者を“〇〇のスペシャリスト”として認識することを好む評論家や音楽愛好家たちを少々混乱させた。シューリヒト自身は「私は、フランスではシューマン、デンマークではブラームス、オランダではブルックナーのスペシャリストと考えられている。」と述べている。
シューリヒトはニキシュやフルトヴェングラーに次ぐ楽壇のスーパースターというより、むしろ‘通好み’な指揮者として人気を得ていた。その理由には“微笑みを絶やさない、誠実な目をした”(ベルナール・ガヴォティの言)外見と、本質的に慎み深い性格によるところが大きい。それでも楽壇での存在感は圧倒的で、1950年代前半にシューリヒトがロンドンで指揮したブラームスのドイツ・レクイエムには畏怖の念を抱いた者もいた。さらにディーリアス解釈でも崇敬されていた。(最も得意とした作品は「海流」)1955年のロンドンでのシューリヒトの評価を物語る内部メモが発見された。BBCは、尊敬されてはいたが未知数でもあったオットー・クレンペラーに指揮を依頼することを検討していたのだが、シューリヒトとの公演回数を減らさないという条件下でなければ受け入れられないとしたのである。
シューリヒトとベルリン・フィルとの共演は、正式には1933年に始まっている。クレンペラーの強制的な亡命によりベルリン・フィル合唱団の新しい指揮者が必用となったためである。実際、合唱団の主力メンバーもほとんどユダヤ人であり、彼らも亡命せざるを得なかった。このため、2年の着任期間中は苦労続きで、演奏内容はシューリヒトの実力に見合うものではなかった。これは、オーケストラ自体、より正確に言うならばオーケストラと関連する政府関係者がシューリヒトを囲い込むための方策だったと言える。ベルリン・フィルのドイツ国内での膨大な仕事量とフルトヴェングラーの公私に渡るナチス政権との関係性から考えると、アーベントロート、ベーム、ヨッフム、クナッパーツブッシュといった錚々たる指揮者陣は国の威信をかけたベルリンでのコンサート及び海外ツアーを実施するには不可欠だったのである。シューリヒトはこの陣容に取り込まれたのである。1944年、彼自身がスイスに移り住むまで、おそらくシューリヒトがこの指揮者陣の中で最も名声を得ており、確実に旧友フルトヴェングラーに一番近いところで活動した指揮者であった。
ベルリン・フィルが初めてブルックナーの交響曲第7番を演奏したのは、1922年、フルトヴェングラーの指揮によってである。ちょうど、ニキシュが死去し、フルトヴェングラーが後任となった年であった。対照的に、フルトヴェングラーの後継者となったヘルベルト・フォン・カラヤンは就任後9年間もこの交響曲を振ろうとはしなかった。(その間、カラヤンがまったくこの交響曲を演奏しなかったわけではない。ウィーン・フィルとは演奏している。)カラヤンは、彼自身が招待したザルツブルク音楽祭でシューリヒトが第7番を指揮する僅か1ヶ月前にベルリン・フィルでこの交響曲を演奏している。これは単なる偶然ではない。クリーヴランドのセル同様、カラヤンも一流のゲストを招く前には、自身のオーケストラを最高の状態に保つことに余念がなかったのである。
ベルリン・フィルは1964年のザルツブルク音楽祭において5回のコンサートを行っている。指揮はカラヤン、メータ、サヴァリッシュ、シューリヒト、そしてセルであった。その中でも、シューリヒトのコンサートは忘れかけていた黄金時代を現代に蘇らせたとして脚光を浴びた。これは弦楽パートによるところが大きい。シューリヒトが目指した“いかにして正しい表現と完璧なレガートを得るか?”という命題を具現化するため19世紀後半から20世紀前半の偉大なる指揮者たちの試みが再現された。(フルトヴェングラーがカラヤンを称賛した唯一の言葉は“彼は本物のレガートを創造する方法を知っている。これが音楽において最も難しいことなのに”である。)シューリヒトは彼独特の方法で弦楽パートを強調している。しばしば弦楽器パートをより細かく分け、それぞれに別のボーイングを指示し、特に主題と関係の深い長いフレーズを持続させるといった手法をとっている。交響曲第7番の有名なアダージョにおけるオーケストラの構成を聴くだけでもご理解頂けるだろう。燦然たる嬰ヘ長調の中に第2主題が完璧な様で浮き上がってくる。その様は、古き良き時代の熟練した音楽家達が実践した方法が現代に蘇るという奇跡を目の当たりにするかのようだ。現代的な“古楽器”奏法の氾濫や“真のレガート”奏法には似ても似つかないスタイルの増殖によって、シューリヒトの手法が忘れられた芸術の復活と感じさせたのである。
この一時代の終焉を感じさせる演奏を可能とした他の要因は何だったのだろうか?グラモフォン誌の評論家の言によると「シューリヒトの視野の広さ、柔軟性、細部を統合する技術、そして何より本能的なテンポ感」であった。時代の流れに抗わないことも、逆にそれを強調することもできたはずだ。だがそれは、より大きな歴史的観点から見れば些細なことであることをシューリヒトは知っていた。雄大でありながら同時にすばらしく簡潔に表現された交響曲第7番の終楽章でのシューリヒトの的確なテンポ設定がそれらすべてを物語っている。
もうひとつ、この演奏には他とは明確に違う特徴がある。それは壮麗な金管セクションである。特にトランペットとトロンボーンはそれぞれ特有の「レジスター(音域、オルガンのストップ)」を持っている。この点にはオルガン奏者でもあったブルックナーも満足したであろうし、オルガン製作者であったシューリヒトの父親もまたしかりであろう。
1964年ザルツブルク音楽祭のコンサートで前半に演奏されたのは、モーツァルトのプラハ交響曲であった。この演奏で聴衆は、84歳であったこの指揮者の現代的な表現に戸惑いを隠せなかった。第1、3楽章は個性的なまでに整然としており、緩徐楽章はやけに活気に欠ける。この年の10月にベルリンで行われた同曲のコンサート[Testament SBT21403]での演奏との比較は大変興味深い。10月のコンサートでは、第2楽章のアンダンテがより推進力を持ったテンポで演奏されている。
シューリヒトは1967年1月、スイスのコルソー=スール=ヴヴェイで86歳の生涯を閉じた。「Conductors:A Record Collector's Guide」の中でジョン・L・ホームズは以下のように記している。「シューリヒトは、音楽というものはその美しさと意義を完全に理解している音楽家の心を通り抜けて行くものである、と常に意識していた。」この忘れえないブルックナーの交響曲第7番を聴くにつれ、この演奏こそが作曲された当時から続く眼識や職人気質を今に伝える最後の偉大なるパフォーマンスであったのではないか?という思いを強くするのである。
(c)Richard Osborne,2014
カテゴリ : ニューリリース
掲載: 2014年09月17日 17:30