カスタマーズボイス一覧

Moto, Tronic / 坂本龍一

DVDには5曲。Neo Geo(from Neo Geo Live in New York,1988)、Merry Christmas Mr.Lawrence(from Media Bahn Live in Tokyo,1986)、Bim Bom(from the 2002 Morelenbaum2/Sakamoto European tour)、Tibetan Dance(from Neo Geo Live in New York,1988)、Insensatez。いわゆる選抜盤であるが、世紀初めまでの作曲者の活動の特徴が良くわかる。

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村夫子さんが書いたカスタマーズボイス

(全718件)

1948年録音。ジュスキント指揮フィルハーモニア管弦楽団。LP復刻の手柄あり。

すでにリヒテルとの連弾で音を知る。ここに全集録音を達成させて、流麗たる音の完備を示した。ひとつ宿題があって、奏者は若年時には、いかなる弾き手であったのか?

プラハの春音楽祭にてリヒテルはソナタを演奏。ここに、レオンスカヤとの連弾も成立させた。

「国際派」ならずとの評言あり。曖昧な話であるが、ソナタ演奏の遅速変化に根拠を認める。

「6人組とは何か」である。そこに音がある。

1973-1986年の録音。自然音の工夫され意図された配置に器楽音で対応。

奏者に就ては、ドビュッシー、モーツァルトは本選集にて要確認。

モーツァルト、ドビュッシーで奏者の音に就いて確認。チャイコフスキー協奏曲の様態を知る。その充実を知る。

24番協奏曲。コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団。聴いて響きを楽団が返す。

オイストラフトリオとのベートーヴェン三重協奏曲。1961年録音。本演奏から該当曲を知り幸いであった。

指揮者および楽団による音の特徴を知るための好適な資料。

交響曲4番。音素を選抜ずみの作曲者には、鈴音が外せぬ。含んで一曲完成。1~3楽章までの個々に潜在するテーマの存在が推測されるが、聴き取りのみでは判然とはせぬ。小冊子にいわくカノン・ガーディアンエンジェルス、カノン・ポカヤネン。さて、宗教曲あるいは宗教に関する曲を好んで聴くか否か。

シュタルケルのシューマン協奏曲、イッセルシュテット指揮フランス放送フィルハーモニー管弦楽団のもの良し。画像は1965年。

1960年録音。この3曲に関して、指揮者と楽団の組み合わせは好適だった。

母韻。詩に基づくうたは、詩表現の増幅にあたる。メアンデルの高橋アキ氏演奏分で、古事記下つ巻、允恭天皇の中にある木梨軽太子の歌によるロゴスの増幅があったが、さらに鍵盤楽器の音を除くと、ロゴスは人声の性格を明白に表出しよう。

5.ヨハネ受難曲。かつてNAXOSの帯に「『魂の救済』の音楽」、「極限まで切り詰められた音が、キリストの受難の物語を見事に描き尽くした」とあった。それはそうだが、原意は福音書にあり、ロゴスはラテン語。磔刑にいたる物語である。救済が狙われた場合、ドラマの内外のどこに 救 済 を 当 て た のか。この一事の整理は、信仰者の側の問題である。

聖骸布(2005年)。本盤は2015年改訂版。2019年にも変化がある模様。磔刑と復活との意味合いがどこに織り込まれて在るか。或いは別種のドラマか。鈴音が後退して奏鳴が前面に出る。一曲として充実。さて、老年の作曲者の思想の現在位置は。

イエズス時代にドイツ語は無縁。バッハの創作でのドイツ語の響きの発現は、作曲者時代に於けるドイツ語訳聖書の存在を前提とする。ここに宗教曲の性質と日常音楽の性質とを共に帯びる。会堂中での演奏は、教会の保持する立場により適否が判断されよう。そして、民衆は思念の限りを天上に向けて歌う。或る意味で泥臭い行為である。一方で、カトリックでは、結構バッハの作品を尊重している。本曲の所在や如何に。

ラヴェル、振付用の詩曲ボレロ。1952年12月30日レニングラード・フィル。フランス、イタリア等の曲調を指揮者が如何に把捉するか。当局によりイタリア留学を拒否された履歴あり、しかしアンテナを各所に配置。面白い音である。

実演を聴いたことあり。膂力あり。しかるに本盤のモーツァルトの音は、20番は20番、27番は27番なりに、曲調にあわせて静かな推移を呈する。2010年の発売であったが、ロシア・ピアニズムのなかでは、抜群であったと記憶する。20番は奏者10歳の頃のデビュー曲であるとのこと!!

2011年発売。9、14世紀から現代にいたるまでの21曲を古今障壁なしで録音。聴き込むもよし、聞き流して総体を楽しむもよし。奇抜な企画ではあっても成果としての音の群れに違和感は小さい。

ROTHKO CHAPEL。およそ、宗教曲と目されるもののなかに、教会、あるいは会堂での演奏に適するものとそうではないものとがある。本曲は、演奏のしようにより、どちらにもなるであろう。本盤では、若干不穏の響きが認められていて、しかし、この一事は曲全体の統一性を傷つけることはない。

セシル・ウーセ氏の画像あり。録音状態は良。

ヴィヴァルディ協奏曲ロ短調第3楽章アレグロ、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団(1942年、ジュネーヴ)。奏者初期録音中のイタリアもの。指揮者・楽団による古楽としても面白い。

1976年。「アリーナのために―アリヌシュカの癒しにもとづく変奏曲(1976年)」。タリンで演奏された7曲のなかの1曲。ティンティナブリ様式の典型とされる。本盤録音には作曲者自身が立ち会ったとのこと。これを肯定するなら徹底した肯定。しかし、否定するなら如何。

指揮者によるブラームス解釈。聴きやすい。音として当方はこの人物とムラヴィンスキーとを支持する。

1981年録音。ベルリン・ドイツ交響楽団。荘重。ヨッフムについては、エトヴィン・フィッシャー、バイエルン放送交響楽団とのモーツァルトピアノ協奏曲を聴き込んだ。

23番ソナタ。ベートーヴェンにはドイツ風土が馴染む。それがウィーン、イタリーと転じた場合どうなるか。奏者は国際派、とも呼ばれる。かかる曖昧極まりない言い方の中に、おそらくは起伏の存在に基づく一種のアンバランスが「ない」ことや基本に徹する解釈姿勢に対する敬意が認められるやも知れぬ。わずかなモーツァルト・ソナタの録音をかつて繰り返し聴いたことがあった。モーツァルトとベートーヴェンの肖像がともに類縁関係にあると思った。印象批評などあてにはならぬが。

それでは当方は音楽に於ける自由に就て。自由の追究は無制限のそれではなく、或る向きへの進行を妨げる要因を排除した上での表現手段の獲得による。かつてグールドの録音集成において、別種の自由の展開が認められたが、ここでは呼称、三羽ガラスの一人として、ウィーン伝統を承知した後の変化の呈示がある。確かグールドにあってはリフレインの省略があり、例えば一方でリヒテルは、作曲者の手になる反復指示への反抗は極力排除する旨宣言していたはずである。弾きつつ聴く。奏者の聴いていた音がそこにある。

1995(平成7)年発売。打楽器とピアノによる即興演奏のための「響音Ⅰ」、独奏マリンバとフルートのための「ビジョン」、独奏マリンバと二人の打楽器奏者のための「コントラ」、高橋美智子と三人の打楽器奏者のための「ザ・ダ」の4曲。マリンバの素の音を採るなら第2曲が好適。邦楽楽器とではなく、フルートと共演。作曲の段階で、潜在させられている曲調が認められる。楽器「で」演奏。

近似のプログラムのリサイタルを実聴した。さて、焦点をフランクに当てる。奏者自身が、この曲のあとに演奏はない、と発言した記録もあり、若年時からの研究対象。その昔、選集の付録CDにしか録音の無い時代があり、入手して半年、これとFM放送エアチェック録音とを併せて随分お世話になった。本盤があれば、より楽をしたろう。グリーグ、ラヴェルへの注目。録音結果としての音が細密でしかも奏者の対比奏法を展開せしめて効果歴然たる部分が面白い。

バッハ主題によるコラージュ。バッハの音に作曲者が観ているものがある。トッカータ、サラバンド、リチェルカーレと3様態の収録。宗教にかかる雅と俗調とをともに把握。この一事が確認されなくてはペルトの初期作品の内訳は不分明のままならん。のちに音素の採集に苦闘する。世に静穏の美というものがあるが、それを以て評言に当てるのは論者の努力不足。黙は沈黙のいいである、と言ってその類の同語反復に果たして意味が発生するか。音には音を得よう。この人のメタ音楽には表現上の制限、表現対象が表現できぬ苦しみが潜在するものか。こればかりはインタビューするより他はあるまい。

Instagram通知により予約。本盤の次段階では、音の採取、応用はどう変化するか。

2007年のトルコ行進曲“ジャズ”。この年の演奏会で実際に音を聴いた。モーツァルトが応用した伝統のフレーズを用いて自由を伺う音をつくってみせている。ただし、本盤の演奏は短く、該当曲の民族性の要素を充分に点検することは難しい。かつて、ロシアの音で指揮者ガウクの多彩な振る舞いを調べた。同様のことを施してみたいとも思う。

2-8を調べる。整則性の表現。これはバッハ作品の要素。穏当な推移を認める。

かつてローレンス・コールバーグらが道徳の6つの発達段階を帰納的に定めた。その最高の正義の段階の内容が、キリスト教文化に根差したものになっている可能性が認められた。本盤における音の宗教性の要素は、特殊な宗教志向なのか、普遍的志向が宗教性を帯びているのか判じ難い。

2006年の本盤、1976年の「YUJI PLAYS YUJI」、1975年の「Yuji Plays Bach」の3枚は、繰り返し聴いてみていた。とくに、本盤には、全11曲の最初と最後にモーツァルトの2つのロンドが入っており、リピートさせておくと2曲が連続で聞こえてくる。

1961年のバッハ管弦楽組曲第2番。はやくにラッシャン・ディスクで出ていてすぐに消えた。同曲をさまざまな指揮者・楽団で聴いてきたが、本録音は、くぐもった音のなかで、同曲の本質の一端を明かしているように思う。すなわち沈降する音のコントロールを。

弾き振り。ややゆったりとしたテムポ。ブランデンブルク門はUnchained-Gate、すなわち無門関でもある。当方は5番をとくに好む。

サティ紹介者の音。奏者、サティからフェルドマン、アジアの諸作曲家まで録音を持つ。当方は、高橋悠治氏「メアンデル」録音にお世話になり聴き込んだ。坂本龍一氏「エナジーフロー」もしかり。このあと6人組の音を追ってみて、奏者によるサティを聴いておいてよかったことが判然とする。

1989(平成元)年発売。打楽器の魅力を11曲で様々に表現。個々の小曲の既得の印象がそのまま肯定される音もあれば、変化させられる音もある。7.トルコ行進曲を例にとると、ファジル・サイ氏による同曲のピアノ演奏を直接聴いたことがあるが、そのときに感じた民族性の理解の要素を一部受け継ぎ、また、それとは異なる要素も垣間見られた。すなわち、伝統と創出との同時並行であると考えたが、これはさすがに聴者によろう。初っ端の1.ハンガリアン・ラプソディには、「聞いたことのない音」を感じた。その理由を解明するには、奏者の音をよほど多く聴かねばなるまい。

モーツァルト協奏曲、求めて得ざるものを不意に得て驚く。かつてなかなかCD化されぬリヒテルのそれをまずLPを探し出し、あとにようやく入手し得たことがあった。本盤はそうではなく入手してはじめてそこに録音を得た。さいわいであった。この人、およそ数々ある録音のなかでのセッション=共演で、相手の呼吸を外さぬ。カデンツァまでも期待通りの範囲に収まる。私家版ソナタくらいであろう、逸脱をみるのは。プラド音楽祭での活躍もあった。未亡人の許可をえた記録集2集もあった。個人的には、音が好きな人物のひとりである。

CDのフランク集で新規の進展は見出し難く、ジャン・デュベ以来の本盤登場となった。コルトーの研究による一曲も入り、充実。

トラック1、2は器楽曲の音の有力な判別手段。後者はカザルスが書店で楽譜を発掘するまで世に主流をなし得なかった。本盤本演奏は奏者の各曲に対する解釈であり、一定の見識を呈する。良いと思った。主旋律を口笛で、と感じた箇所が幾つもあった。主旋律に意識が赴く。

先ず個々の楽器(発音体?)単体の音の特異な魅力に満ちている。次にすぐに判明するのが、フレーズとその推移の選択のセンスの所在であって、奏者は、聴衆とこれを共有する。初っ端のwork01で、複層構造の曲を呈示する。これは成功で、かつて冨田勲氏がFM放送で4トラック以上の音の拡散と集積とを示してみせた企画に似ている。当方ならその聴覚上の経験の淵源はいずこにあるか。アーケードゲームでArkanoidというものがあり、その使用音源にすでに複層がみられたと記憶する。steel drumなので、金属様の残響がある。残響は曲全体を活かしもすれば殺しもするのであって、本盤では奏者によるひとつの提案がなされている。もし抑制すれば? 祭りのお太鼓にまで落ちるかも知れない。そこで適度な響きが必要となろう。繰り返して聴き、聞くに耐える素晴らしい音の数々である。ジャズのインプロヴィゼーションで1970年代に出されたLPにあった類の企画の熱気が感じられる。ところで一般に「宇宙音」の正体とは何か。映画音楽を中心に場面が宇宙にいたる際に音が鳴る。本来宇宙に音はない。それが既に我らは、宇宙音を経験していて、その良し悪しを判別できる。ここでは純粋に楽器の音が示す形がある。音への慣れと承認とであろう。

「喜び、悲しみ、憎しみ、強さや弱さ、あらゆる人間の感情すべてを表現できるもの、誰を傷つけることもなく、そして万人に公平に伝えることのできる手段として音楽というものがこの世に存在するのではないだろうか。自然の大きさすべてを優しさと言えるなら、それに包まれた私達はその中で無条件に生かされている。自然に反発しようとも打ち勝てる者は、地球上に存在しない。私達はその中に身を委ねるしかない。」「そんなペルトの世界観が打楽器で表現できるものか、とてもかけ離れた世界にあるようにも思うが、敢えてそこに挑戦したいと思い、奏法、録音法、空気感などあらゆる手を尽くして音色作り、音楽創りを考えた。」以上は奏者自身の感想の一部抜粋。奏者にあってはこれが真実であろう。当方もペルトを好むし、その音に多くの聴き手がさまざまな見解を持つにいたることは多様性自体が楽しい。これにアンチテーゼを付しておくべきか否か悩む。受容者として前世紀末から苦闘してきたゆえに。例えば、運動生理学の世界ならば、多種感覚の同時共在は第2法則である。しかし、この世に実際には「同時」はあり得ない。先般亡くなったある作曲家兼演奏家は同僚のドラマーに遠慮して、リズムについては、うまく表現できているか自信がない、と発言したが、できてきた音の保持するリズムはどんぴしゃりで、ドラマー張りであった。そのことを当方はひと月ほど繰り返し聴いて確認した。即ち、本来あり得ない「同時」への挑戦を敢行し、やり遂げてあった。このことは傍系の別種の問題も派生させるのであって、自然は無駄を許さず、自然を模倣する音の創出=写生は、反復行為にあたり、一種の無駄と判断できるが、その無駄が存在しても良い理由があれば、新たな音は存在を許される訳である。『惑星ソラリス』の音楽にIch ruf' zu Dir, Herr Jesus Christを採用したアルテミエフの意図を『ソラリス』の音楽担当者は、リズム要素において増幅せしめた。われらは、バッハの音をロゴスを付しても引き去っても成立する宗教性格の表現とみなしていたが、そこには効果音楽である以上は、劇の推移に付き添って、「リズム」を確保する使命をも帯びていたのだ。卓見である。奏者は音楽の使命をも記したように思う。ペルトの意図がその通りだったとして、では、当方は今日までペルトの音を果たしてそのようにとらえていたか。否。

英国のセイヤーズ著『ナイン・テイラーズ』に鳴鐘法の説明あり。方法を以て鳴らす。ここにあるのはロシアの鐘。ポリグラムのカタログ冊子で早くから注目していたが、さすがに若い頃には資金がなく、一般(?)演奏録音が優先させられて、あとにまわされた。入手してからはすべてが迅速に動き、ルビンシテインの作曲に移り、ロシア・ピアニズムへと研究対象が変化した。鐘の音はロシア音楽の基礎基本の一部である。

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