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第23回 ─ 最終回!! 日本語ラップのパイオニアに学ぶ~いとうせいこう & TINNIE PUNX『建設的』

連載
サ イ プ レ ス 上 野 の LEGEND オブ 日 本 語 ラップ 伝 説
公開
2009/12/02   18:00
テキスト
文/東京ブロンクス

希代のエンターテイナーにして、ヒップホップの未来を担うラッパー、サイプレス上野の月刊連載! 日本語ラップへの深~い愛情を持つサイプレス上野と、この分野のオーソリティーとして知られるライター・東京ブロンクスの二人が、日本語ラップについてディープかつユルめのトークを繰り広げます。長らく続いた本連載ですが、なんと今回が最終回! □□□(クチロロ)のメンバーとしても活動しているオリジネイター、いとうせいこう氏を招き、日本語ラップの創成期についてたっぷりとお話を伺ってきました。

●今月の名盤:いとうせいこう & TINNIE PUNX『建設的』 T.E.N.T/ポニーキャニオン(1986)


いとうせいこうとTINNIE PUNX(藤原ヒロシ、高木完)が86年にリリースした日本語ラップの大クラシック。アメリカのヒップホップを意識して作られた、日本で最初のアルバムと言われている。ヤン富田が作曲/編曲で全面参加。ほかにも高橋幸宏、ケラ、大竹まことなど、ヴァラエティー豊かなミュージシャンや文化人が数多くゲスト参加している。(bounce.com編集部)

ブロンクス「2年以上続いたこの連載もついに感動の最終回ということで、特別ゲストとして日本語ラップのパイオニア、いとうせいこうさんに来ていただきました! 今日は無責任放談というよりも勉強会というノリで、日本語ラップの起源とこれからについて検証して行きたいと思ってます。いとうさんがいちばん最初にラップした時は、何年だったんですか?」

いとう「年数は覚えてないんだけど、放送作家の故・景山民夫さんがTBSで深夜番組を持っていて、そこの1コーナーで〈藤原ヒロシとなんかやってくれ〉って話になって。で、日本語の放送禁止用語を合法的に言うにはどうしたらいいか、みたいなことをやったんだと思う。ヒロシが“Nineteen”っていう曲をミックスして、その上に僕が放送禁止用語を含む日本語を乗せてラップのようなものをやった」

上野「いきなりハードコアっすね、ヤバいなー」

ブロンクス「その頃には、MELONみたいなニューウェイヴ流れの人たちや、〈東京ソイソース*1〉みたいなファンク流れの人たちとか、そういうクラブ・カルチャーを興した人たちもいたと思うんですが、いとうさんが出入りしていた場所はどんな感じだったんですか?」
*1 JAGATARA、MUTE BEATらが出演していたイヴェント

いとう「まだまだクラブ・カルチャーではないね。当時は〈どディスコ〉の時代だったから。あってもピテカン(トロプス・エレクトス*2)くらいじゃない? ほとんど水商売の世界ですよ。僕個人でヒップホップ的なものといえば、恐らくシュガーヒル・ギャングであろうものをFENで聴いていたくらい。若い人たちがクラブ的なものを受け止めて新しいカルチャーを作っていたかというと、なかなかそういうわけではなかった。ピテカンは大人のものだったからスノッブだったし。業界のエッジの立った人たちがみんなピテカンにいたわけ。そこには僕は完全には馴染めない、どこか暴力的なものがあったんだと思うんだよね。でも僕はピテカンでピン芸をやってたから。シティボーイズも、中村有志さんもネタをやってて、その時に客のなかに近田(春夫)さんも、スネークマンショーの伊武(雅刀)さんも、立花ハジメさんもいた。YMO一派的な人たちがいて、そこでたぶん景山さんが僕を拾ったんだよ。講談社に入社したのはその後だね」
*2 原宿にあったクラブ

ブロンクス「ラジカル・ガジベリビンバ・システム*3に参加するようになったのもその頃ですか?」
*3 宮沢章夫、竹中直人らを中心に結成されたお笑い演劇ユニット

いとう「僕が就職してから、2年半くらいしてラジカルができた。僕はほとんどそこに入りたくて会社を辞めちゃうわけだよ。ラジカルの人たちといっしょにクリエイティヴなことをしているのがいちばん楽しいし、二重生活をしていると会社に迷惑がかかっちゃうから。それでラフォーレ原宿でラジカルを旗揚げするわけ。初回の公演では、最後のシーンでヒロシが作ったミックスに乗せて、ラップのような感じの……というか、JB的なラップのやり方でみんなを紹介してた」

ブロンクス「講談社を退社しているということは、すでに〈業界くん物語〉のヴィデオが出ていたんですか?」

いとう「出るか出ないかくらいだね。すごい不思議なことに、講談社が〈お前が作ったんだから、最後までやれ〉って、会社を辞めてるのに本とヴィデオを作らせてもらった。そこには同時に3人のDJがスクラッチ合戦をしている、ヤン(富田)さんプロデュースの“業界こんなもんだラップ”が入ってるわけ。(桑原)茂一さんに相談したら〈じゃあ富ヤンじゃない?〉って紹介してもらった。それでプロデュースをしてもらうことになって」

ブロンクス「当時は日本中からアディダスが消えたっていう話もありますよね」

いとう「その頃は、まだスニーカー屋なんてひとつもないから。みんなで地方営業に行くと、学校指定のスポーツ用品屋を襲撃して、そこにあるアディダスを全部買うみたいなことをやってたよ。骨董通りかな、ヤンさんとヒロシと(高木)完ちゃんと俺かなんかで、紐なしアディダスにジャージ、カンゴールのハットでレストランに入ろうとして断られたことがある(笑)」

ブロンクス「地方営業っていうのは何をされていたんですか?」

いとう「ディスコに行ってたはずなんだよ。とはいえ、ラッパーなんてわからないから、DJの営業に付いていってはやし立てている人だと思われてたんだけど」

上野「DJを紹介する人、みたいな感じですか?」

いとう「そうね。持ちネタもそのくらいしかなかったはずだし。でもね、六本木のどっかだったと思うんだけど……確かジョン・ルーリーが出た時、前座をやったことがある。俺は〈MC SEIKO〉って書いてたジャージを着て。完ちゃんも、ヒロシも、後にシンプリー・レッドに参加する(屋敷)豪太さんもいて。DUB MASTER Xがスクラッチで、ヤンさんが鍵盤かスティール・パンで。持ちネタもないのに4~50分やった」

ブロンクス「いとうさんがメンバーになった□□□(クチロロ)の新作『everyday is a symphony』に収録の“ヒップホップの初期衝動”で歌われてるインクスティック*4っていうのはいつのことですか?」
*4 西麻布にあったライヴハウス

いとう「あれは、富士フイルムかなんかが主催のトンがったイヴェントがあって(笑)。そこになぜかリリースもしてない僕らが呼ばれたんだと思うんだよね。初めて曲も作ったんじゃないかな。ヤンさんがトラックで、DUB MASTER Xが恐らくスクラッチで入って、ヒロシと完ちゃんと俺が3MCで前に出てるって編成だったと思う。たぶんそこでも4~50分は持たせてるはず。リリースされなかった“盗むぜ”って曲があって、〈お前らからパクるけど、それは愛しているからだ〉って、ヒップホップのスピリットを歌った曲で。そのイヴェントの映像を担当してたのが後のディー・ライトのテイ(トウワ)君だったんだよ。おもしろいことに、始まる前に近田さんが〈俺にひとこと言わせろ〉って乱入して。僕らが出る前に10分くらい演説したんだよね。〈いいかお前ら、これから始まることは日本で初めてのことだから聴き逃すな〉って(笑)。それがインクスティックの思い出。裏にある階段で指を鳴らしながら、みんなでラップしたリハが忘れられないんだ」

上野「いまの時代からは信じられない豪華メンツですね」

いとう「一方でDJモンチ田中とかディスコの世界っていうのはちゃんとあって。僕らはそこより文化系寄りで、ディスコの人たちからしたら非常に甘っちょろい存在だったんだよ。当時はソリが合わなかったもん。2年くらい前にDJ YUTAKAさんに会ったけど、会ってなんとなくお互いに握手したのが嬉しかった。〈いっしょになんかやりましょう〉って言われて。よく考えたら、20年間のディスコ一派とサブカル一派の、〈もうここでいいじゃん、素晴らしいヒップホップやろうよ〉って和解とも言えて。YUTAKAさんと俺だったら何ができるだろうってワクワクは、いまあるからね。そういうごちゃごちゃしてるなかで、“業界こんなもんだラップ”が偶然のように生まれ、それが『建設的』になっていった。で、『建設的』になった時にはアディダスをみんな着ているわけだから、意識的にヒップホップ・カルチャーをやるんだって気持ちがあったと思うんだよね」

――『建設的』を出された時には、リスナーの手応えみたいなものはあったんでしょうか?

いとう「全然ない。何枚売れたのかも知らないし、〈ヒップホップってすごいですね〉って話はどこからも出なかった。舞台の音響さんに〈これは、どっから音出てるんですか?〉って言われるくらい(笑)。でも、自分が主催するライヴはあったから、そこに行けばみんなが“東京ブロンクス”を歌ってくれるんだよね。全員が歌詞を知っている初めてのラップが“東京ブロンクス”なんだろうね。マイクを向けるとみんな歌うんだもん」