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第1回 ─ 宇多田ヒカル“Be My Last”をチアー&ジャッジ!

第1回 ─ 宇多田ヒカル“Be My Last”をチアー&ジャッジ!(3)

連載
菊地成孔のチアー&ジャッジ ―― 全ブロガー 参加型・批評実験ショー
公開
2005/10/06   18:00
更新
2005/10/06   22:05
テキスト
文/菊地 成孔

宇多田ヒカル“Be My Last”の〈ジャッジ・タイム〉

 そして、残念ながらそれが、とうとう魔法が解けてしまったような、つまりは初のクオリティ・ダウンを記録してしまっている事に対して、我々は困惑を禁じ得ない。とうとう彼女は〈マンネリを突破しよう〉と、〈何かを変えよう〉として失策を犯す。という、才能に満ち溢れた者達が必ず通る道に、その足を踏み入れてしまったのだろうか。

 歌詞は(三島由紀夫の原作映画の主題歌。という側面を差し引いても)眉をひそめたくなるような自壊意識に満ちており〈自分で自分を壊す〉、〈繋がりが切れる〉事に執着し、ご主人の紀里谷氏が監督するDVDで、彼女は車に轢かれ(跳ね飛ばされ、街路に叩きつけられるという痛ましくもショッキングなシーンがクライマックスになっている)るが、それ以前に、画面に登場する彼女は(私は体型を美醜にアサインして差別するような愚かしい真似は決してしないが、体型が内面の、何らかの反映であるという考えは有している。彼女には病歴もあり、この指摘がデリケートであることは重々承知の上で書くが)、ここ最近認められる、体型の不安定な変化の果てに、女子プロレスラーの如く映る。これはパンプアップなのか、何らかの止められぬ肥大なのか、単なる普通の成長(彼女がアメリカン・スクールからコロンビア大学に進んだ〈アメリカの女学生〉だった事を忘れてはならない)なのか。

  永きに渡りハッピーそしてヘルシーを維持してきた彼女の内面の、初めての陰り。我々がDVDで見る映像は、楽曲の、そして彼女自身のそれが転移したかのような〈困惑〉を我々に与えざるを得ない。彼女ははじめて歌詞の冒頭で「母さんどうして?」と呼びかけている。そしてそれは、彼女のデビュー以来、もう誰もが忘れてしまっている〈幸薄い少女歌手〉として日本歌謡界に名を残す〈藤圭子〉その人である。

 彼女のクロスロードはかなりの獣道だったようだ。メロディはいつもの天然の伸びを失い、保たれていた規律は壊れてしまい、いたずらに破格や新奇さを狙って、おそらく我々の目の前で初めて、迷走する。〈難しいと思っていたが歌うとシンプルだった〉という、作曲法の極意を行くレースから外れ、〈難しいと思ったら、歌ってみると実際難しかった〉という、ドリカムの悪癖を今、彼女が繰り返さなければならない理由などどこにも無いのに。この楽曲を〈敢えてベースレスにする〉必要など、どこにもないのに。そして、そもそも彼女が〈何かを変えなければいけない〉理由など、少なくとも我々の中には、どこにもなかったのに。

 ここに見て取れるものは、モチベーションの急速な混乱である。現実以上にアメリカ進出を〈惨敗〉と考えたか(PVは、どういう必然性によるものか、東欧と思しきヨーロッパの古都である)、結婚生活も3年目にはいると(彼女とて人の子だ)何らかのストラグルが訪れるのか、ご主人の映画の主題歌でない事にナーヴァスになったか(再び、彼女とて人の子だ)、それとも、トップで居続けることに疲れ、自壊の欲望がリリースされたか(三度、彼女とて人の子なのである)。我々は音楽を通じて、様々に推測せざるを得ない。しかし、こうした紆余曲折も、彼女の音楽性を磨きこそすれ、ジャンクする筈がない。天才が多くそのキャリアに打つ一つの句読点として、更に彼女の音楽性が深化する為の通過儀礼として、何よりも、22歳にして圧倒的な地位にある女の子/職業婦人の、えも言えぬ逡巡や困惑がストレートに描かれた異色作として認識されるだろう。鈍い輝きに満ちた新作だ。

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