ご好評のうちに終了した「CDは株券ではない」に続き、菊地成孔の新たな音楽批評連載「菊地成孔のチアー&ジャッジ」がスタート! 菊地成孔が1つの楽曲に対し、〈大絶賛〉と〈酷評〉の2つのレビューを書き、「その2つのどちらが優れているのか?」を読者の皆さんのトラックバックによって決める。という、ブロガー参加型の批評実験場です。第一回目は宇多田ヒカルの“Be My Last”。皆様の参加をお待ちしております!
ドカーン! 全国音楽ユーザーの皆様。そしてブロガー/トラックバッカーの皆様お待たせ致しました!「CDは株券ではない」に次ぐ、ワタクシ菊地成孔の新企画「菊地成孔のチアー&ジャッジ」です!
この連載は、皆様の投票と投書を通して21世紀に於ける音楽批評の在り方を考える批評実験ショーでありまして、ワタクシも非常に楽しみにしているわけですが、実験と言うことでちょっとルールが込み入っておりますので、連載のルールに関して、先ずは皆様ココをご覧下さいませ!
(「ふむふむ」×10000000000000)
……はい!というわけで早速第一回の幕を開けてみましょう! ルールに書きました通り、ワタクシ菊地成孔の、個人的な感情は極限まで排して(完全に排して。が目標ですが、そんなこと人間にできるわけないので・笑)チアー(応援)とジャッジ(酷評)を書き分けました。途中までは同じテキストですが、途中から〈チアー・タイム〉と〈ジャッジ・タイム〉に別れますので、おのおの、文頭から枝分かれする二つのテキストと判断下さい。
それでは四の五の言わずに早速始めてみます! 先ずは二つのテキストを熟読下さい。投票方法はテキストの後に記載してあります。それではどうぞ!! 記念すべき第一回は……!
■宇多田ヒカル“Be My Last”
Island Recordsからの全米デビューの結果がどうあれ(日本での売れ行きとアメリカでの売れ行きを単純に比較し、その数比を見てガッカリするような向きは、過去の挑戦者達の戦績。即ちピンクレディー、松田聖子、ドリカムのそれと比べてみると良いだろう。そこから解ることは〈音楽の売り上げ〉というものが、トップに近づけば近づくほど狭い数値の幅に納まってしまうこと、従って彼女が喫したのは〈惨敗〉などではなく〈単なる平均点〉だったこと、そして、彼女達が全員女性である。ということだろう。中でもR&Bのエキゾチズム部門・ソロシンガー部門をアタックした彼女が、その競技の〈基礎装備〉である〈エゲつないほどのセクシャリティ〉を打ち出せなかったのは仕方がないとはいえ、とても惜しかったとしか言いようがない)宇多田ヒカルは超日本人級であることは変わりがない。彼女の作曲と歌唱能力の、果てがないのではないかと思わせる高さと深さは「缶コーヒーのテレビCMにハリウッドスターが〈安い感〉を漂わせながら出演」といった事が日常になっているこの国で〈(やっぱ外人はケタが違うな。日本人は全然ダメだ。といった感覚と共にもたらされる)圧倒的な力〉にひれ伏す。という快感を得られるチャンスは、今やスポーツ界を除けば、彼女の新作を自宅でプレイする時だけではないだろうか。
「うたばん」に出演する(まだ成人したばかり。の)彼女の〈必死の自然さ〉、〈苦しい明るさ〉、〈居心地の悪そうなリラックス〉は、超越的な人物が持つ孤独。を感じさせ、健康優良児的なルックスとの相乗効果によって、例えばバレーボールの女子選手などが、中身は天然系のお嬢様なのに、とにかく巨大なので身の置き場がない。といった、あの〈困り笑いの窮屈さ〉を常に想起させる。彼女は、この国に暮らし、この国に生きることにナチュラルにフィットしようともがけばもがくほど規格外である自分と対峙しなければならない。
いつ飽きるか、いつクオリティが落ちるか、さすがにもうマンネリになるだろう。といった、悪意とも呼べないような、切実な欲望の視線に対し、彼女は超然とするわけでもなく、むしろ震える子羊の如くセンシティブな手さばきで、しかし毎回きっちりと場外ホームランを叩き出す。04年にリリースされたベスト盤『UTADA HIKARU SINGLE COLLECTION Vol.1』を通して聴き、そのまま前シングル“誰かの願いが叶うころ”を聴く事で得られるものは、昇天にも似た、果てしなくどこまでも昇ってゆく圧倒的な感覚で、その、歌唱から生み出される(知的な操作や構築が全く感じられない)ナチュラルな作曲は、どこまでも自由にして強い内在律に支えられ、散漫にならず、単調にならず、甘えが無く、破綻がなく、強い生命力に支えられて、樹木にも似た、静止しているかのような時間の中で刻々と変化を遂げ、驚くべき静けさで完成度を上げている。
“Automatic”と“誰かの願いが叶うころ”を、特に「そんなに差がないんだよなきっと。最初から凄かったんだろうなあ」などという先入観を持って聴き比べるとき、我々は驚愕する他ない。“誰かの~”のクオリティの高さは、イントロのピアノタッチ(本人の演奏である。彼女のピアノは彼女の血肉と化し、所謂〈ピアノ弾き語りシンガー〉のそれとは全くレヴェルの違う結晶度を見せている。矢野顕子の〈歌と同レヴェルのピアノ〉といった華麗で浮遊的な物ともまた違い〈楽器と一体となって、全身で一本のメロディーを紡ぎ出している〉感じだ)からエンディングの残響に至るまでの4分28秒、無駄な音や迷いの音、時間稼ぎの音や無意味な音が1音も見つからず、しかも継ぎ接ぎなどといった姑息な〈編集〉を経ず、一気に歌いきった感があり、彼女の〈気が付かない内にこんなにまで〉していた成長に嘆息せざるを得ない。
彼女は浮き沈みどころか〈一目で分かる変化〉や〈誰が目にも明かな頂点〉すら示さないまま、デビュー後の実に7年の長きに渡り成層圏を越え続けてきた。しかも彼女は、恐るべき事にまだ22歳で、しかも結婚3年を経過したミセスなのである。『UTADA HIKARU SINGLE COLLECTION Vol.1』という、シェイクスピア全集に匹敵する(ジャケットのアートワークは、明らかにそうした〈格調〉を意図している)ソングブックのライナー・ノートの1ページ目には、少々ヘタクソ目な自筆で〈思春期〉と書かれている。我々が想起するのはトンパチの大リーガーである。
そして最新曲“Be My Last”は、タイトルに暗示されているのかどうか、そんな彼女の、初めてかも知れない〈転換〉である。一聴して解ることは作曲と編曲に現れた変化だ。
→ 宇多田ヒカル“Be My Last”の〈チアー・タイム〉はこちら
→ 宇多田ヒカル“Be My Last”の〈ジャッジ・タイム〉はこちら
※菊地成孔ですー!はい〆切ー!! 初回は43個でした!! トラバ有り難う御座いました!! コメントと集計はしばし待たれよ!(その間に、ご面倒かと思われますが、他のトラックバックも総て熟読しておいてくださーい)