ニルヴァーナが歩んだ6年間
「このへんがアバディーンだよ」。以前シアトルに行ったときに、地元の友達に連れて行ってもらった場所は予想以上にどんよりしていた。重たかった。それはカート・コバーンが死んで間もなかったこともあるんだけど……。そんな街でカートは育った。決して家庭環境に恵まれてはいなかった彼が、心からのめり込んだのはやはりパンク、ハードコア、そしてロック。メルヴィンズやブラッグ・フラッグ、ストゥージズなどに影響を受け、高校の先輩であるクリス・ノヴォゼリック(ベース)と共に83年頃からバンド活動を開始。そしてニルヴァーナとして積極的に展開するようになったのは88年を過ぎたあたりからである。時を同じくしてシアトルではグリーン・リヴァー、サウンドガーデン、マッドハニーなど、アンダーグラウンドなバンドが台頭しはじめ、インディー・レーベル、サブ・ポップがスタート。ニルヴァーナもチャド・チャニング(ドラムス)を加入させ、ショッキング・ブルーのカヴァー“Love Buzz”でサブ・ポップよりシングル・デビューを果たしている。翌年の89年夏にはもう一人のギタリスト、ジェイムス・エヴァーソンを迎え、ファースト・アルバム『Bleach』を同じくサブ・ポップからリリース。その後もシングルのリリースやコンピへの参加など積極的に活動をしながら、91年にメジャー・レーベルであるゲフィンと契約。それと前後してジェイムスが脱退している(彼はほとんどヘルプ的メンバーだったらしい)。さらにチャドに不満だった彼らはワシントンDCのエモーショナル・ハードコア・バンド、スクリームのメンバーだったデイヴ・グロールをドラムスとして迎え、セカンド・アルバム『Nevermind』を発表。噂が噂を呼び、今作はビルボード・チャートの頂点に。同時に本格的なグランジ・ムーヴメントが全世界中に巻き起こり、ニルヴァーナはその代名詞的スターとなった。しかし、単なるアンダーグラウンド・バンドだった彼らの成功により、シーンはビジネスを優先して動くようになる。結果、バンド自身も苦悩の時代が続き、カートのドラッグ問題もこのあたりから露出されるようになっていく。そしてホールのコートニー・ラヴとの結婚を経て、93年には全世界待望のサード・アルバム『In Utero』をリリース。アンダーグラウンド・バンドという意味合いを大きく示したかったのか、本作はスティーヴ・アルビニ(現シェラック)をプロデューサーに迎えて制作された。その荒削りな作風にシーンはリスペクトを贈るが、カート自身の心はどうしようもないところまで辿り着いていたであろう、94年4月に短銃自殺。デビューからたった6年後の出来事だった。
オリジナル・アルバム以外の作品を一挙紹介