NEWS & COLUMN ニュース/記事

第5回 ─ カート・コバーンが篤い信頼を寄せたロック渡世人──パット・スミアの半生

連載
Sonically Speaking
公開
2002/11/21   18:00
更新
2002/11/21   18:36
テキスト
文/キース カフーン

キース・カフーンによる「極私的ポップミュージック偉人伝」。今回取り上げるのは元祖ハードコアパンクバンド=ジャームスのギタリスト、パット・スミア。数々のバンドを渡り歩き、末期ニルヴァーナのツアーギタリストも務めたこの伝説的人物の肖像に迫る。

パット・スミア──たしかに一般的な名前ではないが、ロック史を語る上で、それは無視できない名前だ。自殺者を出したバンドに所属しながらも、彼はこれまでの体験を大いに楽しんでいるかのようだ。むしろいつも「ニヤついている」ことで知られてさえいる。

 本名ジョージ・ルーセンバーグ(Georg Ruthenberg)。芸名は「pap smear(パップスミア)」という、女性が受ける子宮ガン検査の名称をモジったものだ。1959年に6人兄弟の末っ子、しかも唯一の男の子として、ロサンゼルスで産声をあげた。よくメキシコ人と間違えられるが、彼の父親は写真家であり発明家でもあるドイツ人。母親はアフリカ系アメリカ人で、チェロキー語の教師であり、オペラ歌手でもあった。

 いまや悪名高きジャームスは、1977年、彼の高校生時代に結成したはじめてのバンドである。ジャームスは「ハードコアパンク」という単語が使われる以前から、それをプレイしていた。クラスメイトで、バンドのボーカルを務めていたダービー・クラッシュは、極度のニヒリストで、大量のドラッグを摂取し、過激な行動に出ることで有名だった(たとえば、服を脱いでみたり、ビール瓶を頭でかち割ってみたり)。初期には、ベリンダ・カーライル(のちのGo-Go'sのボーカリスト)を迎えたり、DJボーンブレイク(のちのXのメンバー)をドラムスに起用したりしていた。たしかに音楽の質はずいぶん低かったかもしれないが、ラウドでスピーディーなノイズ、そしてワイルドな行動が、彼らを注目の的にした。結果、彼らはペネロープ・スフィーリスのドキュメンタリー映画「ザ・デクライン」に登場し、ジョーン・ジェットがプロデュースした1979年のアルバム『G.I.』をレコーディングするに至ったのだ。

 1980年の12月7日、当時22歳のダービー・クラッシュは、ヒーローのように崇拝してきたシド・ヴィシャスのように、また常々彼がそう公言していた通り、ヘロインの大量摂取による自殺を図った。一緒に自殺を図った当時のガールフレンドは、結局生き残った。