オーマンディ&フィルハーモニア管のシベリウス第2&古典交響曲のライヴが世界初登場!

ビートルズが大ブレイクし、プロヒューモ事件(註1)がスキャンダラスに報じられたロンドンをさらに過熱させた、ルービンシュタインとオーマンディという二大巨匠の共演!
アルトゥール・ルービンシュタインとユージン・オーマンディは、(特にアメリカでの)十二分なキャリアで世界的称賛を得た巨匠ではありましたが、それぞれのレコード会社との契約上の問題で、レコーディングでの共演はありませんでした(註2)。そのため、1963年のロンドンでの共演は、千載一遇のチャンスとしてロンドンのファンを熱狂させました。1963年のロンドンは、ビートルズの大ブレイクやプロヒューモ事件などで、世界中から注目されており、街の空気自体がどこか高揚していたのですが、そんな中での二大巨匠の共演はそうした空気感をさらにヒートアップさせたと言われています。当然、チケットは完売、期待の高まりは尋常ではありませんでした。しかしながら、当日、期待を裏切るどころか上回る究極の演奏が成されたのです。古典交響曲では、たいがいの演奏には驚かないロンドンの聴衆を震撼させるほどの速いテンポが採用され、「オーマンディはロンドンのオケを試しているのか?」とすら思わせるものでした。《皇帝》(註3)では、76歳とは思えないルービンシュタインのピアニズムが冴えわたり、オリンポスの神々のごとく堂々とした演奏を聴くことができます。シベリウスの交響曲においては、オーマンディ独自の解釈で木管とトランペットの編成が倍になっています。その結果、スカンジナビア的な淡泊さというよりはロシア的な重厚なサウンドで、壮大かつ豊穣なドラマが表現されています。
(テスタメント)
(註1)プロヒューモ事件…1963年3月に発覚した英国最大の国家機密漏洩スキャンダル。
(註2)1963年当時、ルービンシュタインはRCA専属、オーマンディはCBS専属でレコードでは共演できませんでした。但し、両者がRCA専属だった1942年にはグリーグのピアノ協奏曲の録音を残しています。その後、1968年にオーマンディがRCAに復帰したことで、両者はLP4枚分の録音を行いました。
(註3)《皇帝》は以前BBC LegendsよりBBCL41302(廃盤)の品番で出ていた1963年6月14日録音の音源と同一と思われます。
(タワーレコード)
【収録内容】
CD1 51.57
セルゲイ・プロコフィエフ1891-1953
1-4 交響曲第1番ニ長調作品25 《古典》
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン1770-1827
4-7 ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73 《皇帝》
CD2 43.41
ジャン・シベリウス1865-1957
1-4 交響曲第2番ニ長調作品43
【演奏】
指揮:ユージン・オーマンディ
フィルハーモニア管弦楽団
アルトゥール・ルービンシュタイン(ピアノ)
【録音】
1963年6月、ロイヤル・フェスティヴァル・ホール、ロンドン(ライヴ)
【日本語ライナーノーツ全文】
1950年代、国際線の発達で世界はせまくなったと言われていたが、1963年6月のロンドン・ロイヤル・フェスティヴァル・ホールにおける二人の世界的アーティストの共演は稀有の機会と捉えられた。二人のアーティストとは、アルトゥール・ルービンシュタインとユージン・オーマンディ。どちらもすでにアメリカにおける幅広い(もしくは集中的な)キャリアを築き上げており、レコーディングでも多作なアーティストとして幅広く活躍していた。レコードは世界中で発売されていたが、それぞれのレコーディング契約によりまだ数年はこの二人のアーティストが共演したレコードの制作が出来ないことになっていた。ルービンシュタインはすでに、オーマンディが長らく音楽監督を務めているフィラデルフィア管に多く出演していた(1906年のアメリカ・デビューの際はまさにこのオーケストラとの共演だった)にも関わらずだ。
この二人のアーティストによるベートーヴェンの《皇帝》を聴ける機会とあって、早くから満席になることは確実視された。プログラムにはプロコフィエフの古典交響曲とシベリウスの交響曲第2番が予定された。当日の観客は、今ここで録音を聴く我々同様、期待を裏切られるようなことはなかった。当時、ルービンシュタインのほうがロンドンを訪れる機会が多かった。ルービンシュタインはパリのマレシャル・フォシュ通りにほど近い場所に小さな家を所有しており(第二次大戦の末期にフランス政府より贈られた)、ロンドンではサヴォイ・ホテルを定宿としていた。ホテル側は彼を大変歓迎しており、彼が訪れれば必ずテムズ川を望むスイート・ルームが(格安で)確保され、川と逆側のサウス・バンク方面の窓からはロイヤル・フェスティヴァル・ホールが見えた。しかしながら、オーマンディは、全面大理石のインテリアで有名なハイドパーク・ホテルを選んだ。ロイヤル・アルバート・ホールとかつてのクィーンズ・ホールの中間に位置し、多くの音楽家が愛用していた。ハイフェッツやピアティゴルスキーなども含まれる。オーマンディは1977年の最後のロンドン公演の際もこのホテルに滞在している。ルービンシュタインとオーマンディが滞在していたまさにその6月、ロンドンは世界中の注目を浴びる事件が多発していた。まず、ビートルズのブレイク、プロヒューモ事件(イギリスのマクミラン政権の陸相であったプロヒューモが、ソ連側のスパイとも親交があった売春婦に国家機密を漏らしたと疑われた事件)の発覚とステファン・ウォードの逮捕、他にも政治的混乱が続いた時期であった。
確かに、ロンドンには何か高揚した空気があり、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールでの二人の巨匠-ソリストと指揮者という違う立場ではあるにしても-の共演もまた、その興奮をさらに高めるのに一役買ったともいえる。
5年前に、ルービンシュタインがヨーゼフ・クリップスとともにベートーヴェンのピアノ協奏曲全集RCAからリリースしていたことも、期待感に拍車をかけた。オーケストラはトスカニーニのために創設されたNBC交響楽団の後継団体、シンフォニー・オブ・ジ・エアであった。ルービンシュタインは1944年にベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番をトスカニーニ指揮のNBC交響楽団と録音しているのだが、この録音を気に入ってはいなかった。トスカニーニはあまりにも独断的過ぎて、ピアニストのアプローチよりも自身の解釈から演奏を指示してくることが多くパートナーには向かないと思ったらしい。あるライターが、後にこの録音の再発売の許可を得ようとする日本人を連れ彼のパリの家を訪ねたことがあったのだが、このライターによるとルービンシュタインはその場で「この演奏は好きでない」と断言したのだそうだ。
ルービンシュタインはステレオでの全集の録音で、完全に最初の全集での汚名を晴らした。ステレオの全集は世界的な評価を得た。その頃オーマンディも同じくライバル会社であるアメリカ・コロンビアに、ルドルフ・ゼルキンやクラウディオ・アラウとともにほぼすべてのベートーヴェンのピアノ協奏曲を録音していた。ライヴにおいても録音においても協奏曲のパートナーとしての評判は他の追随を許さなかった。先に述べたとおり、二人は別のレコード会社との契約があったのだが、フィラデルフィアの演奏会での共演回数は多かった。ロンドン公演では、2曲の有名交響曲と趣が違う20世紀の交響曲とのプログラムで、フィルハーモニア管にとっても記憶に残るコンサートとなった。そしてまた、オーマンディの劇性の強い指揮ぶり(オーケストラも良くオーマンディの意図を表現している)とルービンシュタインのエレガントながら雄大で透明感のあるベートーヴェンの《皇帝》は他の演奏とは全く違う個性をもった名演として昇華されている。世界一鍛えられているロンドンの聴衆ですら、プロコフィエフの古典交響曲の1、4楽章のテンポには度胆を抜かれた。オーマンディは他のオーケストラでは到底演奏できないほどの早いテンポを要求したのだ。フィルハーモニア管をもってしても、それは限界点そのものだった。聴衆の中には、「オーマンディはフィラデルフィア管にもこんな法外な要求をするのか?それとも、ロンドンのオーケストラを試しているのか?」と考えた人がいたに違いない。指揮者の意図がどこにあったとしても、実際の演奏は最高の輝きを持つものとなった。フィルハーモニア管は二度とあのテンポでは古典交響曲を演奏できないのではないか、とも思わせた。
このオープニング曲に続き、オーケストラは(恐らく聴衆も)満を持して76歳のピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインとの《皇帝》に臨むことになる。彼はまさに生ける伝説であった。高齢ではあったが、その分1896年のブラームスを初め、数々の偉大な作曲家に実際出会い、ルービンシュタインの芸術性に感銘を受け作品を贈られたことも少なくない。加えて、世界最高のピアニストとしての名声を維持し続け、レコードも、特にショパン、シューマン、ベートーヴェンは世界中から絶賛を浴びている、類稀なアーティストであった。
この《皇帝》におけるルービンシュタインのピアノは、熟達の極み、非凡な感受性と言って過言ではないだろう。つまりは、究極の洗練なのである。確かに、年とともにパワーに衰えは見えるが、音符はすべて完璧にコントロールされていて、外見的な動きは最小限にして現れる効果は最大となるよう緻密に計算がされている。完全に古典的であり、まったく利己主義的でない。持久力もずば抜けていて、とても70代とは思えない。「激しいフレーズを演奏する際は息をのむような迫力で、柔らかい旋律を奏でるとこの上もなく美しい。」こうした評価は、彼の演奏を論じる際には標準的なものになりつつあった。実際、この演奏でもオリンポスの神々のような堂々たる威厳とピアニストが可能な表現がすべて凝縮されている。ロンドンのTimes紙に掲載された無記名のコンサート評には「ルービンシュタイン氏が進む道は、常に栄光に満ちている。第1楽章における難所、オクターヴによる音階も颯爽と表現した。アダージョでの歌うような表現はどんな演奏より印象に残るものだが、決して感情に流されることなく詩的で、どこまでも感動的であった。」この演奏には、一生分の経験が凝縮されているかのようだ。
プログラムの最後の作品はシベリウスの交響曲第2番である。オーマンディによる同曲の演奏はシベリウス自身から称賛を得ていることが知られているが、我々はまさにその指揮者による演奏を聴いているのである。昨今、ある指揮者とオーケストラが一曲を録音すると、すぐにその作曲家の他の作品、さらには全曲録音を試みようとする傾向があるが、一時代前の指揮者たちにとって全曲録音はまったく現実的ではなかった。ビーチャム、クーセヴィツキー、カラヤン、ストコフスキーといった真に偉大なシベリウス指揮者ですら、7曲すべての交響曲を録音してはいない。オーマンディも同様で、全曲は演奏も録音もしていないが、その理由は単純で「第3番が理解できない」と公言していた。
だがしかし、演奏し録音した交響曲はどれも普遍的な称賛を獲得している。第4番と第5番のカップリングは特に有名でシベリウス評論の権威としても知られた作曲家ロバート・シンプソンから以下のようなコメントを得ている。「オーマンディの第4番は非常に荒々しくドラマティックだ。それでいて、緩徐楽章での深い瞑想も損なっていない。第5番の第1楽章には長大なアッチェレランドがあり、時に指揮者にとって致命傷ともなる難所であるが、オーマンディは卓越したテクニックでこれを表現し、耐えられないほどの高揚感を与えてくれる。」
確かに、オーマンディはシベリウス指揮者として、その演奏はいつも深刻に議論される運命にあった。シベリウスの初期交響曲における解釈でとりわけ興味深いのは、時折見られるオーケストラ・バランスの調整である。第1番では、わずかながらオーケストレーションの変更が見られる。恐らくオーマンディは第2番でも、1962-63年のシーズンにフィラデルフィア管で使用した自身のパート譜をロンドンに持参していたと思われる。このフィルハーモニア管での演奏では、木管パート全体とトランペットの編成が倍になっており、追加された楽器はフル・オーケストラで奏でられるパッセージのみで使用された。その結果、ロシア的な重厚なサウンド効果がもたらされ、スカンジナビア的な淡泊さは感じられない。スケルツォでのテンポはやはりフィルハーモニア管がいつも演奏しているものよりかなり速い。それでもなお、壮大で豊穣なドラマが表現され、文学的なアプローチからでは表現しきれない作品の容貌に光を当てている。
(c)Robert Matthew-Walker,2014
訳:堺則恒
カテゴリ : ニューリリース
掲載: 2015年02月19日 12:00