ブロンクス「で、2007年の終戦記念日、8月15日にTKCの『百姓一揆』といっしょにリリースされた。別にプロモーション費があったわけじゃないし、そこまで反応ないだろうなあと思ってたんだけど……」
上野「その年のアワードで『EXIT』は軒並み1位でしたよね」
ブロンクス「うん。それまで年間3本くらいだった地方のライヴがそれこそ手のひらを返すように50~60本に跳ね上がったり。でも、ずっと観てた俺らからしてみれば、キー君は着実に成長してきたわけで〈そんな急に30倍にはなってねえ〉みたいな(笑)」
上野「その辺の気持ちがSD JUNKSTAのアルバムの〈友だちでもねえのに呼ぶなキー君〉ってラインに表れてるんですかね」
ブロンクス「そうだと思うよ。でもホント、2006年あたりから色々と状況が変わったよね」
上野「ですねえ。俺らも2006年の頭に『ドリーム』を出したし、SEEDA『花と雨』とかSCARSのアルバムも2006年だもんな」
ブロンクス「あと、2006年って言ったらキー君が大怪我して足を悪くしちゃったのもその頃だね」
上野「聞いた時は本当にびっくりしましたよ」
ブロンクス「最初は二度と歩けないんじゃないか、くらいの話だったんだよね。それでキー君が入院中、病院の使ってない部屋にMTRとマイクを持ち込んで作ったのが“IN DA HOOD”だったんだよ。それ以前のキー君はヤンチャもしてたから、羽振りがいい時期もあったんだけど、ついに悪運も尽きて。『EXIT』はそういう意味で本当にゼロからのスタートだったんだよね」
上野「なるほどねえ」
ブロンクス「きっと悪人の才能はなかったんだよ。で、足をやっちゃって〈ラップしかねえ!〉って腹を括った。それから自然とキー君がSD JUNKSTAのリーダーみたいになっていって」
上野「ところでサイト君(東京ブロンクス)とキー君のファースト・コンタクトはいつだったんですか?」
ブロンクス「いちばん最初は高校生の頃にKANE君*6と仲良くなって、2000年くらいの〈B-BOY PARK〉でKANE君にキー君と弁慶(BRON-K)を紹介されたんだよね。2001年にその2人がSD JUNKSTAとして初めて作った“SUPER AFUGAN”って曲がめちゃくちゃカッコ良かったんだよ。この曲でみんなキー君と弁慶の才能に気付きはじめて。でもその後、何年間かSD JUNKSTAは〈HARVEST〉に出る以外は何もしてなくて。才能の無駄遣いをしてた(笑)」
*6 SDP所属のグラフィティー・ライター。
上野「〈HARVEST〉でのSD JUNKSTAのライヴで、キー君はラップしながらDJもやってましたよね。DJ兼ラッパー」
ブロンクス「そうだね。後ろでDJしながらマイク握って、前でBRON-KとTKCがラップしてるという」
上野「それを2階から観ていて〈謎すぎる! すげえなあこのグループは〉って思ってましたよ。俺がステージに上がっちゃったこともあるし。AMEちゃんもいたから、おもしろそうだなって」
ブロンクス「そうそう。SD JUNKSTAのライヴは、とにかくステージ上に人が多かったよね」
上野「いまではみんなやってるけど、SDは早かったすよ。『homebrewer's vol.2』に入ってた“コノハナシ”がはじまると、20~30人くらいがステージに上がって来て。あれはすごかったな~」
ブロンクス「でも、実は俺らは〈HARVEST〉に来てた客のことは毛嫌いしてたんだよね。スカウターで戦闘力を計られてるみたいな妙な雰囲気でさ。〈こいつら腕組んで、つまんなさそうにライヴ観やがって〉ってみんなで文句言ってた」
上野 「俺と(ロベルト)吉野も当時ネットに〈降神とMSCを観に来たのに、あいつらマジいらねえ〉みたいに書かれて、町田のライヴハウスでブチ切れましたもん。〈書いたやつ今日も来てんだろ!〉とかって(笑)」
ブロンクス「日本語ラップ自体は悪くないけど、普通にいち音楽ファンとして器が小さすぎるだろって思うよね。ほかの音楽も聴かないと、日本語ラップの本当の良さもわかるはずないんだから」
上野「いや~わかるなあ」
ブロンクス「2003年くらいはアンダーグラウンドってだけで、いまはシーンが分かれてるような連中がいっしょにいたよね。降神やイルリメもいたし、上ちょもいたし、韻踏とかMSCもいて、SDPもいて。でも、逆にいまみたいに客が混ざり合ってなかった」
上野「そういう気持ち悪さはいまも続いてるかもしれないっすね」
ブロンクス「みんな切磋琢磨して競い合ってるわけでさ、ラップをやってないやつが技術論とかに触れてどうこう言うのは、マジでダサイから止めてほしいよね」
上野「間違いない。例えば、他人のラップ取り上げて〈ブレスの位置が~〉とか〈日本語の発音はそもそも~〉とか言ってるやつもいますけど、そんなことは歌い込まなきゃわかんないっすよ。自分の感覚でしかないんだから。そんな専門家ならてめえでやれよって言う」
ブロンクス「やっぱり自分でやってみると、好みとか関係なくちゃんとやってる人たちはみんなヤベえなあって普通に思うよね」
上野「ホントねえ、ヒップホップはまず自分でやるのが大前提ですよ。ヒップホップじゃない日本語ラップなんていらないでしょ」
ブロンクス「そうそう。でも『EXIT』は、いわゆる日本語ラップ・マニアにも受け入れられたんだよね。俺が毛嫌いしてた日本語ラップ専門のサイトとか、そういうマニアが集まってるところでも1位になったんだから」
上野「『EXIT』はホントに総ナメでしたね。〈CONCRETE GREEN〉に参加したメンツのなかでも、先頭に立って切り拓いて行ったのは間違いなくキー君でしょう」
ブロンクス「『EXIT』の収録曲で思い入れがあるのは“2 FACE”かな。『OUTLET BLUES』を出した時にアナログにもしたし。CISCOが倒産して酷い目にあったけど良い思い出だよ……」
上野「あれはいきなりクラシック認定の曲になりましたよね。I-DeA君のビートも完璧だった。俺がLEGENDオブ伝説名義で出すミックスCDには必ず入れたいって伝えてあります」
ブロンクス「で、キー君が他のラッパーと違うのは、トラックも作れるしDJもできるってところもデカイよね。最近は〈トラックメイキングは本職の人たちにかなわないから〉って言って全然作ってないけど、トラック選びのセンスはハンパない」
上野「本職のトラックメイカーよりカッコ良い曲もいっぱいありますよ」
ブロンクス「俺らからしたら“IN DA HOOD”と“コノハナシ”と“SUPER AFUGAN”はいまだに特別な曲だし、いまはいなたく聴こえる曲も、当時は全部めちゃめちゃカッコ良かった。キー君は、早いうちからI-DeA君とかBACH LOGIC君にビートを提供してもらっていて、トラックメイカーにもすごく恵まれてるけど、それも結局、本人のトラックを選ぶ耳が恐ろしく良いからなんだと思う」
上野「で、トラックもらって、ラップ乗せてミックスして……みたいな流れで全部作っちゃってる人は多いじゃないですか。ラップとビートが水と油みたいに分離したままのアルバムなんてめちゃくちゃあると思うし。でもキー君はそうじゃない」
ブロンクス「そこがキー君とかSEEDA君の世代がエポックメイキングだった理由なんじゃないかと思うよ。これはSEEDA君が言ってたんだけど、まずトラックを聴いて、足りない音程をラップで埋めると」
上野「おお~……すげえなあ。昔だと、〈歌詞先〉とか普通にあったと思うんですよ。でも、いまはあらかじめ曲を聴いて〈これだったらこういう感じがハマるなあ〉って作っていく。そうしないと全部書き直しになっちゃいますからね。だから、いまもMIC大将*7とかが、俺とやる予定の曲を勝手に自分のなかでビートを決めて考えてるらしくて〈大丈夫なのか?〉って思うんですけど(笑)」
*7 サイプレス上野とロベルト吉野や、STERUSSらが在籍するクルー、ZZ PRODUCTION所属のラッパー。
ブロンクス「それは何用なの?」
上野「ZZ PRODUCTIONのアルバムですね。年内か、年明けには出そうと思ってるんですけど、携帯が止まって連絡がつかないようなやつばっかで大変。KAZZ-K(STERUSS)なんて〈最終ミーティングをやって、本当に出すかどうか決める〉とか怒っちゃって(笑)」