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第9回 ─ Cornelius“MUSIC”の回のトラックバックに菊地成孔がレスポンス

連載
菊地成孔のチアー&ジャッジ ―― 全ブロガー 参加型・批評実験ショー
公開
2006/11/16   15:00
更新
2006/11/16   22:02
テキスト
文/ヤング係長

菊地成孔による音楽批評実験「菊地成孔のチアー&ジャッジ~全ブロガー参加型・批評実験ショー」。今回は、Cornelius“MUSIC”の回に対して読者のみなさんから送られたトラックバックへのレスポンスです。

――今回は、冷やかしのようなトラックバックはほとんどないです。みなさんきちんとチアーorジャッジの理由を書いているんです。

菊地 みんな真剣なんだよ。誰も茶化さないしふざけないということに、Corneliusの意味が有るよね。いまは“MUSIC”のリリースから1ヶ月くらい経って、音楽誌がちょうどアルバムを特集しはじめているでしょ? アルバム全体の評価はどうなの?

――ほとんどすべての音楽誌が絶賛している状況です。個人のブログを読んでも大概褒めています。

菊地 素晴らしいことだね。じゃあ、トラックバックもチアーばっかり?

――そうでもないんです(笑)。1票差でチアーが勝っているのですが。今回は、菊地さんの評価の〈子供/大人〉という部分にひっかかっている人が多かったです。

菊地 音楽誌的には大絶賛だが、ぶっちぎりでチアーだったわけではないんだな。でも、音楽の内容をけなしている人はほとんどいないよね。ジャッジでも〈音楽はいい〉という人が多い。やっぱり、オーラだね。大人と子供の問題っていうのは、多分Flipper's Guitarの2人だけではなく、クリエーターのほとんどが一生提示し続けていくものだと思うけれども、それにしてもフリッパーズの二人は、登場の仕方が余りにアンファンテリブルだったんで、象徴みたいになっちゃった。今回もそこをメインで扱っている。

  いま小山田さんのルックスだけを見ても、〈大人と子供の問題〉を考えざるを得ないんだな。〈真の大人〉とはなにか、〈真の子供〉とはなにか、〈偽大人〉とはなにか、〈偽子供〉とはなにかという図式の、どの位置するのかっていう、ビットマップみたいになってしまう。年齢的には大人なんだけれど、いつまでも少年の心を忘れないっていうケースもあるし、アダルト・チルドレンに代表されるように実際は子供なのに頭の中はすっかり大人というのもある。とにかく大人/子供の問題というのは、正常/狂気なんかと並んで、人類の一番古い問題としてあるわけだ。現代に於ける通過儀礼とは何かという話も当然関わってくるし。

――なるほど。大人/子供の問題も含めて、小山田さんに対してある種の自己投影的な見方をしている人が多いような気がします。

菊地 そうだね。聴く人は、音楽家が自己投影を伴いながら〈大人になって行く〉ということと、そういうことはまったく気にしない純音楽主義に引き裂かれざるを得ない。

 このシングル“MUSIC”を、〈小山田圭吾とはいえ、もう文句なしに大人で、そういう問題は振り切った〉という気持ちで聴くと、安心感がある。でも〈まだ子供/大人という問題を発し続けているんだ〉という気持ちで聴くと、エッジに欠けるような気がしてくる。そこを争点にしてみたんだけど、今回は犯されざるものっていうか、みんなが本当に大切にしているものに触れている感じがしたな。

――〈エッジ感〉というのも多くの人が挙げていました。なににエッジを感じて、なにがエッジではないのかという話です。

菊地 うん。でもこの曲にエッジがあると言っている人はいない。だから、エッジがないということで共通はしていると思う。ただ、エッジ感がなくてもいいということは、ひとつのスタンダードとして成立しているわけだから、ここでチアー菊地はエッジ感がなくてもいいという立場をとり、更に〈最初から実はある種の円熟を目指していたのではないか〉とダメ押ししている。それがここに来て確立されたのだと。

 で、ジャッジ菊地は〈エッジ感がないからダメだ〉というストレートな主張をしている。トラックバックしている人たちは全員エッジ感がないということは共通しているんだけれど、それでもいいといっている人が僅差で半分いたということだね。

――〈最初から安定感を築こうとしていた気がする〉というチアー菊地のコメントに、〈そんなものは求めていない〉と反論をしている人もいます。

菊地 まあこれも仮説というか詭弁と言うかさ。Corneliusがものすごくエッジなユニットだという側面は紛れのない事実なわけで、とはいえ今回は最初に丁寧に断ったけれど、Flipper's Guitarからの流れは切断して、この世に突然Corneliusが登場したという設定で書いているから。そもそも無茶なんだけれど、Corneliusっていうのは、フリッパーズで子供を使い果たした後に登場した屈折した大人志向=コドモの発想。という、もう入れ子構造が複雑すぎて、なんでも良い様な話になっちゃうよね(笑)。

――子供の視点から見た大人ということですか?

菊地 大人になるって言うのは、何かを捨てる事だから。昨今のフィッシュマンズのリバイバルっていうのがあったでしょ。とはいえ当時のフィッシュマンズはもう戻らない。そういう意味で、Corneliusは90年代ノットデッドの人たちにとっての希望と言ってもいいくらいの作品を出したという感じだよね。ほとんど変わらないルックスで、服装もセンスも変わらないままきている。しかもそれが十分に通じるものである。

――ある程度の年齢以上になると、CDを買わなくなる人が多いんですが、〈Corneliusだけは買う〉という人もいると思います。

菊地 いやあもう凄いよなあ。素晴らしいよ。あくまでこのチアー&ジャッジの回ということに関してだけ言っても、かようにみんな批判的な気持ちはまったく持っていないという事に感動さえ覚えた。エッジ感がなくとも素晴らしい。という事と、エッジだから素晴らしい。というのは、どっちが素晴らしい事だと思う? という古くからある問いかけを、Corneliusは現代の人々にリアルに発したし、今回の結果(チアー勝利)という事だけではなく、殿堂入りしたということでしょう。一番いいところにいったよね。90年代以降の日本はなかなかそういう人が生まれづらいから。

――殿堂入りというと、スタジアム・バンド的な支持のされ方というのもありますね。キッスやクイーンのような。その辺のものが好きな人は、エッジ感よりも安定を求めている感じがします。

菊地 スタジアムなんかどうでもいいだろ、90年代ノットデッド派は(笑)。80年代の文化なんだからスタジアムロックなんて(笑)。クラブとレイブの時代における殿堂よ。ロックで殿堂。っていう現象自体が、大人/子供の無化だけどさ。そもそも。

――もし子供を演じているとすれば、それはどういった理由ですか?

菊地 ロックというジャンルが持っている、ジャンル・ミュージックとしての青臭さでしょう。〈大人のロック〉というのは、文字通りAORのことで、小沢健二さんはそれに正面から体当たりしたんじゃないかな。『Eclectic』とか、『Ecology of Everyday Life 毎日の環境学』で、一直線に〈大人の音楽〉を、ある意味形式的に作ってみせた。俺はあのアルバムどっちも大好きだけれど、じゃあ目的果たして大人に感じるかと言えば、まったく感じない。そこが素晴らしいんだよ。

――いま、小沢さんは子供向けの童話の執筆をしていますね。

菊地 童話作家って老人のすることだよね。もう大人を飛び越して老人へ(笑)。だから、それは作為なんだよ。いい意味でね。でも、ルックス自体が老けて来たでしょ?そうなった以上、そんな作為は全部無作為になる。ナチュラル・アングルで老けてしまったんだから。

――大人のルックスになってしまっているのに、さらに大人を演じているわけですね。

菊地 ものすごく倒錯的な訳よ。本当に素晴らしいよ。天才ってのはキ○ガイなんだからさ。最初に〈オザケンは天才だ〉って言っていた人は、終生それを受け入れるべきでしょう。その点、小山田さんは天才とはいえないかもしれないけれど、大衆のある時代の世代の支持をちゃんと受けた、一流の大衆音楽家という感じがする。でも、僅差で半分はジャッジしているからね。支持層から離れた視線っていうのはあるのかもね。〈つまんねえ〉っていうのは、まあ、現代消費者の必殺技にして、自殺行為でもあるから(笑)。

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