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第7回 ─ 中西俊夫のニューウェイヴな世界 前半

第7回 ─ 中西俊夫のニューウェイヴな世界 前半(2)

連載
ミ ュ ー ジ カ ル・ジ ャ ー ニ ー
公開
2005/07/14   19:00
更新
2005/08/11   20:52
テキスト
文/丹羽 哲也

82年
アフリカ・バンバータ『PLanet Rock』、MELON『Do You Like Japan?』、映画「ワイルド・スタイル」

「『Do You Like Japan?』をNYで録音していた時にアフリカ・バンバータのライヴを観に行ってびっくりした。ラジオではもう“Planet Rock”はガンガンかかっていたけど。なんか不思議な場だったね。観にきているのはニューウェイヴの人ばっかなんだけど、バンバータが引き連れてきた地元のブレイクダンサーが会場のあちこちでいきなり自然発生的に踊り出して。そっちのほうがすごかった。〈なんか横でクルクル回っている人がいる。でもアタマで回ってるしー〉(笑)って。それで『Do You Like Japan?』にもスクラッチを入れたくなって、“O.D.”のアウトロでレコードじゃなくてオープンリールのテープをエンジニアにコスってもらってる」。

82年
原宿にクラブ〈ピテカントロプス・エレクトス〉オープン。“O.D.”のCMソング・ヴァージョン“P.J.”のレコーディングでヤン富田と出会い、WATER MELON GROUPを結成するきっかけとなる。

「ヤン富田に“O.D.”のトラックの上からスティールパンを叩いてもらったんだけど、当時スティールパンを弾けるスタジオ・ミュージシャンってトミヤン(ヤン富田)ぐらいしかいなかったんだよ。トミヤンが『Rush Hour Music』っていうレス・バクスターとかマーティン・デニーとかのエキゾチック・ミュージックの曲が入ったテープをくれて。その手の音楽を前に聴いた時はピンとこなかったのに、トミヤンからテープ10本ぐらいもらって聴いたらピンときちゃって。で、〈こういうのをやりたいね〉って話をしたらトミヤンの中では終わってたみたいで〈あんまりやりたくない〉って。そこを説き伏せた(笑)。今度2枚組のCD『Full Grown』(CD-1はMUTE BEAT、東京ブラボー、ショコラータの混合メンバーがバック。CD-2は後期ピテカントロプスでのライヴ+未発表曲)が出るんだけど、その1枚目のCDにちょうど82年ぐらいのMELONが入っているんだよ。WATER MELON GROUPはまだなくて、エキゾチックをどうやって着地点に持っていくかまだわかってない。その流れでけっこうダブとかレゲエとかもやっていて、アーカイヴ的にも自分の中で位置づけが面白いなと思う。MELONの過度期がよくわかる」。

83年
中西俊夫『HOMEWORK』

「これは映画〈ワイルド・スタイル〉の直後って感じ。コラージュ的なヒップホップ作品だよね。スクラッチは(藤原)ヒロシにやってもらってる。ラフォーレ(原宿)に行くといろいろなブティックから違う音楽ががーっと流れてんじゃん。それがたまたまひとつになる瞬間がある。あれ見て思いついたんだよね。カットアップすると面白いなって。『Adventurre On The Wheel Of Steel』からの影響もあるかも。あの曲はすごかったね。いまだに好きでDJをやる時によくかけるんだけど、若い世代の子たちもびっくりする」。
 
83年
スネークマンショー『ピテカントロプスの逆襲』。MELONにMUTE BEATのドラマーだった屋敷豪太とピテカン・トロプスのDJ/エンジニアだった工藤昌之がMELONに加入、4人編成のバンドになる。

「『full grown』には、ピテカンでやった4人編成のメンバーでの初期のライヴも入っているんだよ。やっている曲はまだ『Do You Like Japan?』の時のものが多いけど、ターンテーブルだけになっていて、工藤ちゃんが初スクラッチしてる。MELONは最初ニュー・ウェイヴ・ビッグ・バンドって感じだったけど、そこからエレクトロに移行していくドキュメントがよくわかる」。

84年
Water Melon group『Cool Music』、アート・オブ・ノイズ『Who's Afraid Of...』

85年
MELON「Serious Japanese」

「当時はそういう意識は全然なかったんだけど、今聴くとこのシングルはもろエレクトロだね。ヴィジュアル的には〈ブレードランナー〉とか〈マッドマックス〉とか〈デューン 砂の惑星〉とかに影響されてた。Virginに音が渡って気に入られて、Virgin/10からも発売された。でもこのシングル1発だけの契約。〈カムデン・パレス〉とかマンチェスターとかでライヴをやったね。スクラッチを入れて、デイグロの服(衣装に蛍光塗料がペイントしてあり、ブラックライトでそれが浮かびあがる)で演ってたんだけどみんなびっくりしてたな。今でもああいうパフォーマンスをやるバンドはいないよね」。

86年
マイロがレゲエDJとて来日したことがきっかけで、ワイルドバンチが3か月に渡る東京ツアーを敢行。ランDMC『Walk The Way』発売

「ネリー(・フーパー)とか3Dとか、毎晩原宿のクラブ〈モンクベリーズ〉から青山のクラブ〈トキオ〉までラップしながら歩いてた(笑)。ワイルドバンチとは仲良くなったねー。ロンドンに行ってからもよく会うようになったし。ワイルドバンチの連中はレア・グルーヴについて早かった。ソウルIIソウルよりも早かった。そう考えると僕もいい時にいい場所にいたな。レア・グルーヴは当時アーティスト名も曲名がわからないから、その手のレコード屋に行って“Cross The Track”(Maceo & The Macks)のイントロを口ずさんで、お店の人に〈わかる?〉って聞いたりしてた。マイロは音楽知識がハンパじゃなかったね。レコード屋に行くと必ずいるんだよ。帰りのバス賃だけ残して全部お金がレコードに消えてた(笑)。でもネタは絶対教えてくれないんだよ。レコード(のラベルの部分)を塗りつぶしたりして」。

86年
ロンドンに長期滞在。『Deep Cut』レコーディング

「日本で『Deep Cut』用のデモテープを録ったあと、アルバムをレコーディングするまでの間、ロンドンに行ってずーっとだらだら合宿生活してたんだよ。たぶん8か月ぐらい。今だとありえない話だよね。で、ロンドンに生活するようになってアフリカンセンターのイベント〈SOUL II SOUL〉に行ったり、ワイルドバンチのネリーともよく遊んだな」。

87年
MELON『Deep Cut』発売

「アート・オブ・ノイズを好きだったから、プロデュースもトレヴァー・ホーンとかJJ・ジェクザリクに頼みたかったんだけど、アシスタントのニック(・フルーム)になっちゃった。で、ロンドンに行ったらランDMCとかL.L.クールJとかビースティー・ボーイズとか〈デフ・ジャム〉一派がロンドンに来て、それを見たショックが大きくて。僕ってまたそういうものを見ちゃうタイプなんだよね(笑)。ネリーとかマイロからの影響もあったし。それをレコーディングに反映させようと思うから、現場でどんどん変えてっちゃった。アルバムを今聴くと、エレクトロからヒップホップ方向に向いつつあるのがわかる。(当時リリースされた12インチ〈Hard Core Hawaiian〉B面の“Hawaiian Break”について)あれはたぶん“Funky Drummer”を使った初のレコードなんじゃないかな。あのシングルでデフ・ジャムがリミックスしてくれたのはうれしかった。L.L.クールJのDJボブ・キャットがやってくれたんだよね。『Deep Cut』のロンドンでの反響はあまりよくなかったんじゃないかな。ただUKで作られたヒップホップとしてもかなりMELONは早かった。ネナ・チェリーの“Buffalo Stance”(88年作)もそのあとだし。『Deep Cut』の録音中にネリーとかマイロとかジャジー(・B)がよくスタジオに遊びにきてたんだけど、ネリーは〈MELONのメチャクチャさがあったから、おれたちもメチャクチャにやれるようになった〉って言ってたね。なんでも取り入れていいんだって。“Time Enough For Love”はプリンスを意識してるし、確かにプリンスだろうがマイケル・ジャクソンだろうがハワイアンだろうがなんでも取り入れちゃったアルバムではあるよね」。

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