日本のニューウェイヴを確立したPLASTICS(結成25周年!)をはじめ、MELON、TYCOON TO$Hと70年代後半~80年代をとおして次々に刺激的な活動を繰り広げてきた中西俊夫。そんな彼がニュー・プロジェクト、PlasticSexとして始動! そこでbounce.comでは中西俊夫のレジェンダリーなキャリアを前後半にわたって総括します。新しいムーヴメントの生まれる瞬間に立ち会った貴重なキャリアには、いまもなおフレッシュな発見があるはずです。では、前編のスタート!!
自身のバイオグラフィーが、まんま30年あまりのカッティング・エッジなポップ・ミュージックの歴史の一断面になったりもしてるミュージシャンなんて、世界中を見回してたぶんどこにもいないのでは。中西俊夫さんはそんなタフかつレアな才能を持ったアーティストです。PLASTICS、MELON、WATER MELON GROUP、TYCOON TO$H、SKYLAB、MAJOR FORCE WEST……70年代半ばのパンクからスタートして、ノーウェイヴ、ニューウェイヴ・ファンク、エキゾチック、エレクトロ、ヒップホップ、アブストラクトと〈今ここで何か起こってるぞ!〉という然るべき現場に中西さんは然るべき音楽家として居合わせ、その空気をたっぷり吸いながらも、ひねりとユーモアを効かせた然るべきことをやり、内外の多くのアーティストに影響を及ぼしてきました。でもコマーシャリズムとか〈シーンを盛り上げる〉ことにはあまり関心がないみたいなんですよね。退屈しちゃうとまた別のことをやりはじめちゃう。そんな思い込みと思いきりのよさで、アングラにもセレブにもならず〈現役選手〉のままでサヴァイヴしてきたわけです。
このたび、結成25周年のPLASTICSのベスト&レアな音源&映像、それから中西俊夫/MELONの80年代初頭のレア音源がめでたく発掘/再発されます。それに〈アダルトになったPLASTICS〉を連想させるPlasticSexというユニットもスタートさせ、フル・アルバム『Here Comes SEX Education』を発表。なんだかこのところリリース・ラッシュです。これをいい機会にと、PLASTICS結成前夜から現在までの30年あまりの音楽史を中西俊夫さんに振り返ってもらいました。
音楽的なルーツ
「最初はビートルズとかストーンズから入って。その前は〈若大将〉かな。加山雄三(笑)。そこは(立花)ハジメちゃんとけっこう共通点があるね。そのあとグラムがあって。デヴィッド・ボウイはショックだった。シアトリカルで歌唱力もすごかった。渋公(渋谷公会堂)の〈ジギー・スターダスト〉のライヴも鳥肌が立った。で、セックス・ピストルズにぶっ壊されるっていう。ジョニー・ロットンとかセックス・ピストルズは〈あいつらにもできるんだから俺にもできる〉っていう勇気を与えてくれたね。それまではロキシー・ミュージックにしろレッド・ツェッペリンにしろ、みんな上手いからさ(笑)」。
76年
PLASTICS結成
「最初はパーティ・バンドで50'sの曲ばかりやってた。ブライアン・フェリーがソロで50年代の曲をカヴァーしてたじゃない? ブライアンじゃなくてウチらが選んだらこうなるという感じ。メンバーは僕と(佐藤)チカとハジメちゃん、それからキーボードとドラムもいた。その頃はお金のないロキシー・ミュージックっていう感じだったね(笑)。ロキシーのカヴァーとかもシンセがないからピアニカで代用したり。当時ハジメちゃんはグラフィック・デザイナーで、チカはスタイリスト、僕はイラストレーターというか雑誌〈ビックリハウス〉で毎月2ページもらってジャーナリストみたいなことをやってた。自分で企画考えて、ネタ集めて、写真を撮って、手書きで文章とかイラストも書いて〈セックス・ピストルズ出てきたー〉とか(笑)。ウォーホルの雑誌〈INTERVIEW〉みたいなことをやりたかったんだ」。
77年(?)
山下達郎プロデュース『Tokyo Banzai』
「最初に録音したPLASTICSのデモ・テープはピストルズっぽい。この頃ようやくシンセを買えるようになって、デモではチカが猫手奏法でピロピロ弾いてる。実はそのデモのマスターが(桑原)茂一のところから最近出てきた。それイイよー。しかも山下達郎がプロデュースしてる(笑)。茂一が頼んだみたいなんだけど、ピストルズをプロデュースしたクリス・トーマスの線を考えてたんじゃないかな。ちゃんと音が作れる人っていう。僕たちはスタジオに行ったら髪 の長い人がいるなあって。誰だかわからなかったもん」。
78年
佐久間正英、島武実加入
「その後ドラムとキーボードが抜けるんだけど、マーちゃん(佐久間正英 四人囃子のベーシストだった)はライヴをよく観にきていて。本当はプロデューサーとして入ったつもりが、いつのまにかメンバーにされてたっていう。彼はテクニカルなことを全部解決してくれた。僕らはシーケンサーの使い方とかわからなかったし。それからドラムの代わりにリズム・ボックス(ローランドのCR-78)を入れることにしたんだけど、あれ2小節前に押さなくちゃいけないからタイミングが難しくて、けっこうちゃんと〈演奏する〉っていう感じなんだよね。島(武実)ちゃんは高田みづえとか歌謡曲の作詞家だったんだけど、テレビゲームがすごく上手かったんだよ。それでCR-78を操作してもらうにはいいかなと思ってメンバーに誘った」。
79年
ラフトレードから7インチ・シングルでPLASTICSデビュー、5月12日渋谷屋根裏ライヴ(「HARD COPY」CDに収録)
「デビュー前の屋根裏でのライヴを聴き返すとPLASTICSってこんなにパンクなバンドだったんだ、って改めて思う。ハジメちゃん(実質的なリーダーだった)は当時からあまり政治的なこととかヘイトとか出すのはいやだって言ってたね。社会性を出すのはやめようって。だからあのライヴには“JAL Punk”とか“Hate”とかって曲が入っているんだけど、そういうパンクっぽい部分は全部デビューの時に落っことしたんだよ」。
79年
トーキング・ヘッズ初来日
「(トーキング・)ヘッズが最初に来日した時にデヴィッド・バーンと仲良くなって、NYに行った時もデヴィッドの家にはよく遊びに行った。僕は最初ギターを持っていなくて、デヴィッドから買ったっけ(笑)。PLASTICSの昔のビデオを見ると、みんな借り物ばかりなんだよ(笑)」。
80年
PLASTICS 『Welcome Plastics』でメジャーデビュー
「(ニューウェイヴは斜にかまえたものが多かった、という聞き手の発言を受けて)僕らは斜にかまえるよりユーモアが大事だったね。モンキーズのカヴァー (“Last Train to Clarksville”)をするなんてニューウェイヴの時代はダサイことだったけど、だから逆に面白いんじゃないかなと思ってた。ビートルズとかバブルガム・ポップとかみんなが捨てちゃった部分をあえて取り上げてみたって感じはあるね」。
80年
2回の海外ツアーを企画
「海外に積極的にツアーに出かけたのは、B-52'sの事務所が引き受けてくれたからだと思う。まだレコードは向こうで出てなかったんだけどね。最初はパリ、ロンドンでライヴをやって、それからNY、サンフランシスコ、LAを回ったのかな。その次は50か所とか回っている。印象深いのはフォトグラファーのボブ・グルーエンが〈ジョンとヨーコからのメッセージを持ってきた!〉って、コンサートが始まる前に楽屋に来てくれた時のこと。〈日本からきたバンドのプラスチックス、がんばってください〉って書いてあって感激したな」。
80年
トーキング・ヘッズ『Remain In LIght』、PLASTICS『Origato Plastico』
「PiLの『Flowers Of Romance』(81年作)とかイーノ&バーンの『Bush Of Ghosts』(81年作)とか時代はアフロな感じに流れていったね。ア・サートゥン・レイシオとかリキッド・リキッドとかESGとかも、NYで見てかなり影響を受けた。僕も途中からギターを弾くのに飽きちゃって、パーカッシヴなことをやりたくなった。セントラル・パークで12人編成になったアフロなトーキング・ヘッズがデビューした時のコンサートを見たショックもあったね。ヘッズのクリスとティナのロフトに遊びに行ったら別の階にドン・チェリーが住んでいて、部屋の中がほとんどアフリカ。あの影響も大きかった。バラフォン(アフリカの木琴)叩きながら“Robot”やったら面白いんじゃないかと思ったんだ(『HARD COPY』でそのアレンジのライヴを聴ける)。でもハジメちゃんとかはPLASTICSがアフリカ(なスタイル)でやる必要はないと思ってたみたいで。それが『Origato Plastico』のテンションになっている。僕とハジメちゃんがおたがい譲らない部分があって、マーちゃんはレコーディングの時も〈方向決まってから呼んでよね〉って(笑)」。
81年
PLASTICS『Welcome Back』(コンパス・ポイントで録音)、3度目にして最後のPLASTICSアメリカ・ツアー(『HARD COPY』の映像はこの時のアトランタでのライヴのもの)、PLASTICS解散
「最後のツアーの後も僕とチカは NYに残っていたんだけど、〈新しいアルバム作るから帰ってこい〉って言われて、その時にリハーサルをやってみたら明らかに方向が違っていた。ハジメちゃんはリズムボックスでやりたいって言うし、マーちゃんはキング・クリムゾンみたいな曲を書いていて、メンバーみんなが〈ちょっと違うかなあ〉って思い始めていたはず。マーちゃんが一番最初にやめるって言ったんじゃないかな。今だったらそれぞれがソロ作って〈またやろうや〉っていう話になるんだろうけど、当時は〈じゃあね〉って感じで終わっちゃったんだ」。
81年
中西俊夫と佐藤チカを中心にしたセッション・バンドとしてMELON始動。スネークマンショー『戦争反対』(「I Will Call You」「 Honey Dew」収録 )、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴ“The Adventure Of Grand Master On The Wheel Of Steel”
「PLASTICS解散前にNYにいた時に〈ペパーミント・ラウンジ〉でライヴ・セッションをやったんだよ。それは、僕とチカ以外はバーニー・ウォレルとダグ・ボーンとブランドXのパーシー・ジョーンズとスティーヴン・スケールズっていうNYのミュージシャンで。そこで“I Wiill Call You”とか“Honey Dew”とか、あとジャガーズの“君に会いたい”をギャグで演った(笑)。バーニーがウケちゃって、あの曲をクラヴィネットですごくファンキーに演ってくれたんだ。そのあたりの曲をNYのミュージシャンと細野(晴臣)さんとか(高橋)幸宏とか土屋(昌巳)くんを交えて改めて録音したのがMELONの最初だね」。