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第3回 ─ NICKY SIANO、もう一人のマエストロが語るディスコ世界

連載
ミ ュ ー ジ カ ル・ジ ャ ー ニ ー
公開
2005/03/17   13:00
更新
2005/08/11   20:52
テキスト
文/bounce.com編集部

久しぶりに登場のWEBオリジナル連載〈ミュージカル・ジャーニー〉。今回は、70年代から80年代にかけてのアンダーグラウンド・ディスコ・シーンを描いた映画「マエストロ」のDVD化を記念して、ディスコ黎明期を支えたパーティ〈Gallery〉のDJであり、故ラリー・レヴァンの師としても知られるニッキー・シアーノにインタビュー。bounce次号掲載予定の360°「マエストロ」特集より、誌面には掲載しきれなかったインタビュー記事の〈完全版〉をお送りします。

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――映画「マエストロ」はご覧になりましたか? 率直な感想をお聞かせ下さい。


ニッキー・シアーノ(以下、ニッキー)  楽しんで観ました。ラリーと80年代の音楽についての素晴らしいトリビュート作品だと思います。

――あなたはデヴィッド・マンキューソの〈Loft〉で開眼しDJを始めたと言われていますが、当時他に影響を受けたDJはいましたか?

ニッキー  マイケル・カッペラ、デヴィッド・ロドリゲス、そしてリッチー・カズコーから影響を受けました。当時は誰かが誰かに教えるというのではなく、みな同時代のDJとしてお互いに影響を与えあっていましたね。

――当時、ゲイ達の間で社会運動が盛り上がり見せて、それとシンクロする形でアンダーグランド・クラブが発展していったと言われていますが、当時の様子をお聞かせ下さい。

ニッキー  70年代から80年代のシーン全体というわけではありませんが、70年代はじめのゲイ・プライドのムーブメントとダンス・ミュージック・シーンは重要な繋がりがあります。当時のニューヨークでは男同士での踊ることは法律で禁止されていました。1969年には〈ストーンウォールの反乱〉が起き、その後にやっと警察に捕まるという恐怖なしで、男同士で踊ることが可能となりました。ですのであの反乱によって、警察による不当な検挙がクラブで行われることがなくなっていったのです。

――映画「マエストロ」に出てくるフランソワ・ケヴォーキアンのエピソードで、わずか何ヶ月かの間に大勢の友達をエイズで亡くしたという話に愕然としたのですが、差し支えないようでしたら、当時の状況をお聞かせ下さい。

ニッキー  私の親友ではデヴィット・ロドリゲスが最初のエイズの被害者となりました。そして80年代はじめに彼が亡くなったのは、非常につらい経験でり、またその経験が後に私がエイズ患者の為に働くきっかけになった体験でもあります。(注:ニッキーはDJ業を一度引退し、福祉関係の学位を取り、エイズについての書籍などを発表している)。ただ、なぜあなたが〈愕然としたのか〉は理解しかねます。80年代のニューヨークのシーンではエイズが蔓延しており、私と同世代の多くの若者が亡くなりました。実際、私の〈Gallery〉時代のほとんどの友達はエイズによってこの世を去ってしまったのです。とても悲しい体験でした……。

――〈Gallery〉のクラブとしての様子ををお聞かせ下さい。

ニッキー  〈Gallery〉は何もない空間を改造して作られた最初のクラブでした。最初のロケーションではキャパシティが600から700人規模の小さいクラブでした。2つめのロケーションは1200人ほどのキャパシティがあり、そこで6年ほど運営されていました。〈Gallery〉での思い出はロレッタ・ハラウェイのニューヨークでの初めてのパフォーマンスが行われたことです。彼女は2曲だけ披露する予定でしたが、5曲もやってくれました。クラブのみんなな叫んだり大騒ぎしていたので、ロレッタの歌声はしだいに大きくなり、非常に盛り上がりましたよ。

――あなたは初めてターンテーブルを3台使ったDJと言われています。当時としては画期的なアイデアだったと思うのですが、使い始めたいきさつををお聞かせ下さい。

ニッキー  今日の私のDJプレイでもそうですが、当時から多くのエフェクトを使うようにしています。ターンテーブルの3台目は2枚のレコードをミックスしている間も、サウンド・エフェクトが音のレイヤーとしてずっと重ねられているように使い始めました。最初にその実験を試した夜、“Love Is The Message”に重ねられたエフェクトにクラウドは「TURN THIS MOTHER FUCKER OUT!」と大合唱し、あまりの騒音に警察がやってきたのを覚えています。

――若き日のラリー・レヴァンとフランキー・ナックルズがパーティーを手伝っていたそうですが、彼らは当時どんな若者だったのでしょうか? ラリー・レヴァンにDJを教えたのはあなただと言われていますが、何かエピソードがありましたらお聞かせ下さい。

ニッキー  私がまだ18から19歳の頃ラリーとフランキーに出会いました。彼らは当時まだ高校生だったと思います。そして彼らはデザイナーになることを夢見ていました。みな踊るのが好きで、よく8時間、9時間もダンスフロアーで踊り続けたものです。ラリーのDJについては、彼のディスコグラフィーを見ればわかると思いますが、彼は他のDJよりも沢山のヒット・ダンスチューンを回しました。今日でもよくかけられる曲という意味でです。また、ガラージは80年代で最高のアンダーグラウンド・クラブで、12年間という長い期間オープンしてましたからね。

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