こんにちは、ゲスト

ショッピングカート

注目アイテム詳細

ベーム&BPO~1968年ザルツブルク音楽祭の初出ステレオ録音、ベートーヴェン第2&“火の鳥”他

カテゴリ : ニューリリース

掲載: 2016年06月13日 15:00

ベームの1968年ライヴ

TESTAMENT社より、カール・ベームの初出録音が2タイトルが発売となります。1枚目は、1968年のザルツブルク音楽祭でのライヴ、ステレオ録音です。ベームは1956年の初登場から、没年である1981年の四半世紀に渡り、この音楽祭に出演し、カラヤン(互いに好意は持っていませんでしたが、リスペクトはしていました。)と二人体制でこの音楽祭を維持発展させてきた功労者でもあります。二人体制は、当然、容易なものではありませんでしたが、最終的にこの音楽祭はベームにとって、静かに自分の音楽に没頭できる貴重な場所となっていったのです。

良く知られているように、ベームの指揮ぶりは非常に穏やかなものでした。スウェーデンの映画監督、イングマール・ベルイマンはベームの指揮ぶりを「指揮棒をほんの少し震わせただけで、音楽を聴いているように感じた。音符があるべきところにあり、仕掛けも奇抜さもない。テンポを刻むことさえなかった。」と書き残しています。確かに、最も好調な時のベームの音楽には「作為を感じさせない的確さ」があり、この特質が明確に発揮されているのが、この盤に収録されているベートーヴェンの交響曲第2番と言えます。さらに、ベルリン・フィルから室内楽的サウンドを引き出すことに成功しているモーツァルトの交響曲第34番。そして、R.シュトラウスの関係性からザルツブルク音楽祭で取り上げられることが稀だった、ストラヴィンスキーと、どれも聴き逃せない3作品です。

《世界初出・ステレオ》
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
1-4 交響曲第2番ニ長調作品36 (34分24秒)

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
5-8 交響曲第34番ハ長調 K.338 (25分12秒)

イーゴリ・ストラヴィンスキー
5-8 組曲《火の鳥》 (20分23秒)

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:カール・ベーム
80.14

録音:
1968年8月11日、フェストシュピーレハウス、ザルツブルク

日本語ライナーノーツ

 ザルツブルク音楽祭の DNAの奥深くに刻みこまれている作曲家は2人いる。1人は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。ザルツブルクが生んだ最も有名な天才である。もう1人は、リヒャルト・シュトラウス。1920年にマックス・ラインハルトとフーゴー・フォン・ホフマンスタールがこの音楽祭を発足させた頃、熱心なモーツァルト信奉者であり、そしてモーツァルト自身がそうであったように、当時のドイツ=オーストリアにおける最高の劇場作曲家であった。

 カール・ベームはこの両者の音楽に精通した指揮者であり、1956年から没年である1981年の四半世紀に渡り、同音楽祭におけるモーツァルト=シュトラウスの伝統の火を保ち続けてた。この期間における事実上の芸術監督は、ヘルベルト・フォン・カラヤンであった。この2人が互いに好意を持っていなかったことはここでは重要ではない。お互いにリスペクトがあったということだけで十分であるし、ザルツブルク生まれで幼少期からこの音楽祭に親しんできたカラヤンにとって、尊敬できる先輩との共同運営は幸せ以上のものであったであろう。

 最初は、この2人体制は容易ではなかったが、徐々にベームにとってザルツブルク音楽祭は、静かに自分の音楽に没頭できる良き場所となっていった。1956年、ベームはウィーン国立歌劇場の再建と再開を主導するという役割を終え、カラヤンに引き継がれた。当時、2人はどちらもザルツブルク音楽祭と3年という有期の契約を結んだ。もし、ベームが躊躇したならば、音楽祭の遺産も音楽祭における自身の重要性も放棄せざるを得なかったであろう。1943-45年、ウィーン歌劇場での音楽監督としての最初の任期の間に、戦後、伝説的なモーツァルト・アンサンブルとなる楽団を発足させたのは、他ならぬベームである。ザルツブルクは戦後、この楽団を拡大的に利用し、ベーム=カラヤンの2人体制でさらなる発展を目指そうとしたのである。

 1894年、グラーツに生まれたベームは、指揮者としての基礎を歌劇場で学んだ。特に、1920年代のはじめには、ミュンヘン歌劇場にてブルーノ・ワルターとリヒャルト・シュトラウスの傍らで学んでいる。このミュンヘン歌劇場こそがモーツァルトにおける彼独特の様式を獲得した場所でもある。説得力があり、バランスが良く、繊細でありながら時に燃え立つようなベームのモーツァルトである。モーツァルトのオペラティックな牽引力を紡ぎだし、鮮明かつ正確に音楽を推進させる方法を学んだことによって、ベームはモーツァルト以外の作曲家の作品、もしくはオペラに限らず交響的作品にまで精通することになった。

 ベームのキャリアは、「伝統とは怠惰のことだ」というマーラーの名言が正しくないことを示している。ベームは確かに伝統主義者であるが、怠惰とは無縁の人物だ。それどころか、茨の道を燃えるような情熱で突き進み、頑ななまでの真にオーストリア的な手法にまで昇華させ、爆発するほどパワフルな演奏へと結びつけている。これは、同年代の偉大な指揮者、ジョージ・セルにも言えることである。レコーディング・スタジオという閉鎖された空間においてのみ、ベームは時に慎重でペースが遅いように見えた。

 このような音楽制作のイメージが今の私の心にも残っている。ウィーン・フィルとザルツブルクのモーツァルテウムで行った衝撃的なモーツァルトの《ジュピター》では、指揮棒は激しく彼の頭上にまで振り上げられ、高電圧の蓄電池を作動させるようであった。ザルツブルクの大劇場で行われたアルバン・ベルクの輝くような《ヴォツェック》では、ベームは頻繁にオケピットの椅子から立ち上がり、指揮棒はまたしても頭上高くから打ち下ろされ、クライマックスを迎える度に彼のかかとは指揮台を打ち鳴らした。

 多くの場合、ベームはもっと穏やかに指揮をしていた。スウェーデンの映画監督、イングマール・ベルイマンの自伝《The Magic Lantern(幻灯機)》 (Viking Press,1988; University of Chicago Press,2008)の中には、ベルイマンがベームの演じたベートーヴェンの《フィデリオ》のドレスリハーサルに立ち合い魅力されたという記述がある。少しだけ前かがみに座ったマエストロが、指揮棒をほんの少し震わせただけで、ベルイマンは音楽を聴いているように感じたという。「すべては非常にシンプルだった。音符があるべきところにあり、仕掛けも奇抜さもない。テンポを刻むことさえなかった。」

 ベームの最高の出来の演奏はこのような「作為を感じさせない的確さ」という特質を持っていた。この特質は、この1968年のザルツブルクでのベートーヴェン、交響曲第2番にも聴いてとれる。この演奏は、古典派の正統的アプローチがされており、リズムにもフレーズにもまったく欠点が見当たらない。次世代の多くのベートーヴェン指揮者とは違い、ベームは作曲家の偶像的側面を取り上げようとはしない。不協和音と中断はなんども現れるが、我々はそれらを音楽として聴くことが出来る。ベームが不協和音を音楽の進行に影響を与えさせない確固とした技術を持っているからである。ベルイマンが言ったように、まさに「音符があるべきところにあり、仕掛けも奇抜さもない。テンポを刻むことさえない」のである。

 1959年のザルツブルク音楽祭において比類なき流暢さで演じられた《コジ・ファン・トゥッテ》を聴き終えて、有名なハイドン学者でありオーストリア通の H.C.ロビンズ・ランドンはベームを以下のように書き記している。「派手さがなく、仕事熱心な劇場指揮者の典型だ。彼は音楽を作るのに、秘書も、タキシードも、ベンツのレーシング・カーの助けも借りない。」虚飾のなさは、ベームの性格的、音楽的、そして人物的な重要部分である。

 1968年の音楽祭では、珍しく、古典もしくは古典以前の作品が取り上げられた。確かに演奏はベルリン・フィルによるものだが、意識的に室内楽曲的なアプローチが成されている。ジョージ・セルは、モーツァルトの交響曲第29番、ベートーヴェンの交響曲第 8番、ハイドンの交響曲第 93番を演奏した。若き日のクラウディオ・アバドはヴィヴァルディ、ペルゴレージ、シューベルト(交響曲第2番)のプログラムを取り上げた。カラヤン自身は、モーツァルテウムでの2夜のコンサートで、バッハの6つのブランデンブルク協奏曲を披露した。

 この流れにおいて、ベームはモーツァルトの交響曲第34番を演奏したのである。ベームはこの作品を特に気に入っており、この音楽祭の段階ですでに、2回のスタジオ・レコーディングを行っていた。1回目は、ウィーンでの1954年のもの、2回目はベルリンでの1966年のものである。この交響曲は、23歳のモーツァルトが1779年の前半にザルツブルクで書いた2曲のうちの1曲である。2本のオーボエ、2本のファゴット、一対の変ロ管のシングル・ホルンでなぞられる弦楽器セクションは、作品に緻密さと深みを与えている。当時、このスタイルはオーストリアの交響曲としては珍しいものであった。

 さらに、その緻密さゆえに、この交響曲は驚きと予期できないほどの奥行を持っている。第1楽章は、リピートが省略されている。その代り、音楽はまっすぐに展開部へと進む。展開部は4つの音符からなるモチーフ、古代のグレゴリアン・チャントの“クレド”で始まる。このモチーフは、ジュピターの最終楽章でも再度用いられている。静かで瞑想的な緩徐楽章は、当時の一般的な形式を覆し、完全なソナタ形式で書かれている。活気のある終楽章は、ベートーヴェンが彼自身の壮麗な交響曲第 8番の終楽章を作曲する際に心中で参考にしたと言われている。この交響曲はもともとメヌエットとトリオを持たなかった。この第3楽章はモーツァルト自身によって1784年か1785年にウィーンで加筆されたものであり、すべてが完全に統合されている。絶妙なオーボエが主導するトリオはこの上なく美しい。

 ベルリン・フィルによる6つの古典とバロックをテーマにしたプログラムにおいて、異質なのは、ベームのコンサートの最後に演奏されたストラヴィンスキーの組曲である。この作品は、1910年に作曲されたバレエ《火の鳥》から1919年に編成されたものである。音楽祭の後見的立場にあり神格化されていたのは、リヒャルト・シュトラウスであったため、ストラヴィンスキーの作品が取り上げられることは稀であった。だからといって、彼の作品が完全に無視されていたという訳ではない。1950年の音楽祭でフルトヴェングラーが3楽章の交響曲を振り、10年後にカラヤンが交響曲ハ調を演奏している。1952年には、イゴール・マルケヴィチが《春の祭典》を振っているし、翌年にはヴィクトール・デ・サバタが交響詩《ナイチンゲールの歌》を典型的な折衷主義プログラムの一部として取り上げている。組曲《火の鳥》自体、それまでに3回演奏されている。1929年にベルンハルト・パウムガルトナー、1936年にアルトゥール・ロジンスキー、1947年にエルネスト・アンセルメがそれぞれ指揮している。

 ベームは、カラヤンのような膨大なレパートリーをこなす指揮者を目指さなかった。(そもそもカラヤンほどのレパートリーを持つ指揮者はほとんどいない。)モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ワーグナーそしてリヒャルト・シュトラウス。ベームが得意としたのはこのあたりの作曲家に限られる。バッハを取り上げることは比較的少なく、ハイドンに関しては事実上演奏したことがなかった。多くのオーストリア=ドイツ系指揮者がそうであったように、マーラーに関しては慎重であり、シベリウスは無視した。フランス音楽はほとんど扱わず、イタリア音楽は-メインはヴェルディであるが-ドイツ語によりドイツ的スタイルで演奏された。さらに、いわゆる“ライト・ミュージック”も取り上げず、指揮者としての気質や職業観が覗い知れる。

 だからといって、ベームが現代音楽の門外漢であった訳では決してない。ベームが演奏した数多くのシュトラウス作品を別にしても(《影のない女》や《ダフネ》はベームによって初演されている)、ベルクの《ヴォツェック》《ルル》、ヤナーチェクの《イエヌーファ》、ヴァーグナー=レゲニーの《Der Gunstling》、さらにストラヴィンスキーの《エディプス王》の演奏では高く評価されている。

 ベルリン・フィル側としては、当時のレコーディングで評価が高かったものは、ドビュッシー、ラヴェル、シベリウス、ストラヴィンスキー等の作品であった。もしも、《火の鳥》組曲のライヴ・パフォーマンスにおいて指揮者との隔たりをほとんど感じなかったとしたら、それは、ベームに提示されたオーケストラのサウンド・パレットがいかに尋常ならざるものであったかの証明である。
(c) Richard Osborne,2015
訳:堺則恒