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生誕100年記念リリース~「チェリビダッケ・コンダクツ・ブルックナー」

掲載: 2012年11月19日 19:58

更新: 2012年11月19日 20:30

チェリビダッケ

セルジュ・チェリビダッケ生誕100年記念リリース
「チェリビダッケ・コンダクツ・ブルックナー」
交響曲第4番・第6番・第7番・第8番

※SACDハイブリッド仕様盤;6枚組ジュエルケース

ルーマニア出身の巨匠指揮者セルジュ・チェリビダッケ(1912~1996)の生誕100年を記念し、彼が最も得意としたブルックナーの交響曲を収めたSACDハイブリッド仕様によるボックス・セットがリリースされます。
収録作品は、1989年~1991年にかけて収録された交響曲第4番、第6番、第7番、第8番の4曲。この時期はまさにチェリビダッケとミュンヘン・フィルが最も密度の濃い演奏をおこなっていた文字通りの絶頂期にあたり、特に第7番と第8番は、1990年10月の日本公演中、サントリーホールでライヴ収録された伝説的な演奏として知られています。第6番は地元ミュンヘンでの定期演奏会でのライヴですが、チェリビダッケがこの交響曲を演奏したのはこの時だけでした。
※第4番「ロマンティック」は、1989年2月のウィーン・ムジークフェラインザールでのライヴで、チェリビダッケの生前からその存在は知られながら未発表だった幻の録音です。
※ソニー・クラシカル所蔵のオリジナル・マスターからの初のDSDマスタリングによるSACDハイブリッド化。マスタリングはベルリンのb-sharpスタジオで行われています。

チェリビダッケとミュンヘン・フィル、最盛期の貴重な記録 吉村溪氏

周知の通りセルジウ・チェリビダッケは「録音嫌い」で知られたマエストロである。その理由を訊かれたとき、彼がよく引き合いに出していたのはフルトヴェングラーの言葉だった。録音した演奏のプレイバックを聴いて、フルトヴェングラーはこう叫んだという。「何もかもが変わってしまった!」と。もちろん1950年代当時と現代とではすでに録音技術にも大きな差があるし、再現度は格段に高まっているはずなのだが、それでもオーケストラが響く空間のアコースティックや聴衆の醸し出す雰囲気といった、何気に重要なパラメータを含むアンビエント――参加意識も含めた「共時体験」としての――は、排除されないまでも、少なくとも圧縮され薄まらざるを得ない。各々の演奏会場の音の響き方によって採るべきテンポも当然変わってくると考えるタイプのマエストロは、生演奏に接することしか音楽の真実に迫るすべはないと主張する。それは確かにその通りだろう。一期一会の演奏会は、突き詰めれば一瞬たりとて同じ音がなく「時間とともに消えてゆく」現象の集積なのだから。
しかし、フルトヴェングラーにせよチェリビダッケにせよ、我々は過去に偉大な演奏があり得たことを「知って」しまっている。その記録がいかに(彼らにとって)不完全なものだとしても、現に音楽として「追体験」できる音源が存在する以上、聴いてみたくなるのが人情というものだ。ライヴ体験と切り離され録音された演奏だけで評価を下す危険性は常に意識しておかなくてはならないが、次々に発掘される名演の「記録」は、一種の文化的世界遺産ともいうべき価値を有している。生きて飛んでいる蝶を間近に見るのが最上の観察だとしても、絶滅した蝶の姿は標本から類推するしかない。
ここに集められたのは、チェリビダッケがミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団という楽器を得て、自分の意図を毎回十全に浸透させられるようになった時期の貴重な記録である。一切の妥協を許さない徹底したリハーサルと個人攻撃をも辞さない舌鋒が災いして、戦中戦後の苦難の時期を通じあれほど貢献したベルリン・フィルを追われるように去った彼は、イタリアや北欧、フランス、ドイツのオーケストラなどで数年単位の首席もしくは首席客演ポストを務めはしたものの、ひとつの楽団の音楽監督として芸術面での四半世紀以上の長きにわたり君臨するのはこのミュンヘン・フィルが初めてだった。かつてはマーラーの交響曲第8番の初演などを担った名門楽団でありながら、強力なヴィルトゥオジティを誇るバイエルン放送響の勢力の陰に隠れがちだったミュンヘン・フィルは、チェリビダッケの時代遅れとも思える芸術面での全権的要求を受け入れることによって全く世界に例を見ないほどの完璧さで磨き上げられ、世界に冠たるコンビとして名を馳せることになったのである。 
チェリビダッケの演奏会を聴くことは、誇張でなくある種の“儀式”に臨むようなものだった。彼が舞台上に姿を現しても、演奏はすぐには始まらない。まず最初に、長い長いチューニングの時間が待っているのだ。コントラバスから、しかも弦の一本一本からスタートしてチェロ、ヴィオラ……と徐々に音域を上げていき、最終的に全体の「調律」が豊かな倍音とともに鳴り響くまでゆうに10分はかかる(読売日本交響楽団に初めて客演したときは30分近くかかったとも伝えられる)。充分合っているように思えてもマエストロはかぶりを振り続け、その執念とも思える時間を、我々はじっと待ち続けねばならない。現代においてその事実だけを取り出すとまるで奇矯と言っていいような印象を受けるかも知れないが、当時はその時間さえ“これから始まる空前絶後の体験”の前段階として必要不可欠なものだと感じられたのである(実際、彼の演奏はホールの隅々まで、どこで聴いても細部と全体がベストなバランスで響いた)。だがこの儀式も、彼が最晩年にさしかかる頃にはミュンヘン・フィルがこの調律方法を会得したこともあって徐々に時間短縮されていった。名実とも完全に「チェリビダッケの楽器」となり得た、ほとんど唯一無二のオーケストラの姿がここにある。
ようやくチューニングが終わると、暫しの間ホールは深い静寂に支配される。そしてさらに時が満ち、チェリビダッケが緩やかに指揮棒を持ち上げたのち頂点からの落下運動の極で最初の打点を示した瞬間、ブルックナーの音楽は生命を得て動き始めるのである。「始まりの中に終わりがある」、すなわち音楽作品の本質は一音一音が推移する意味連関の総体であり、大きな意味で最初の音はすでに音楽が閉じる最終音まで包含しているという哲学ないし箴言に近い世界観が、聴き手である我々の知覚を通じた体験の集積として形成されてゆく。またオーケストラの理想を「大きな室内楽」と捉え、「(誰かに)合わせる」という発想を離れて弦の最後尾に至るまで個々の奏者が互いに注意深く音を聴き合うことにより、各自あくまで自発的に弾いた結果が全体として有機的に響き合うという理想も彼らの演奏の中で実現されるのだ。
この稀有なオーケストラには、チェリビダッケを慕って有数の名手たちが集まってきていた。彼を文字通り追いかけてバンベルク交響楽団からシュトゥットガルト放送響、さらにミュンヘン・フィルへと移籍してきたファゴットのフリードリヒ・エーデルマンを筆頭に、ヴィオラのヘルムート・ニコライ、フルートのマックス・ヘッカー、ホルンのヴォルフガング・ガーク、トランペットのウーヴェ・コミシュケ、そしてティンパニのペーター・ザドロといった面々である。ニコライはコンツェルトマイスターの称号(当時のミュンヘン・フィルにはヴァイオリンだけでなくヴィオラやチェロのセクションにもこの肩書があった)を持つ名手、ヘッカーはチェリビダッケが木管を支える達人として最も信頼を寄せていた楽員のひとり。金管の輝かしく柔らかな音色はガークやコミシュケの牽引力によるところ大だった。見た目に派手なアクションで繰り出すザドロの打撃は、しかし音を全く濁らせることなくこのオーケストラの心臓部を堅固に支えた。こうして個別に挙げれば枚挙に暇がないが、チェリビダッケが38年ぶりにベルリン・フィルの指揮台に復帰したとき「いま私はミュンヘン・フィルとなら完璧なブルックナーを演奏することができる」と豪語したことも、このCDに刻印されている演奏を耳にすれば大方の人はなるほどと納得するのではないだろうか。
チェリビダッケのもうひとつの偉大さは、彼のそうした哲学的な音楽の捉え方が単なる観念論でなく、きわめて高度な職人技の上に成り立っていたということである。たとえば交響曲第7番の第1楽章、冒頭に姿を現す弦のさざめきを表現する際、一人一人のトレモロに関し微妙に弓幅を変えることでムラのないヴェールのような広がりを醸し出すテクニック。また交響曲第4番のフィナーレにおけるコーダでは、ユニゾンで奏される弦の刻みの拍の頭に楔を打ち込むがごとく短いアクセントを施し、最後に回帰してくる凱歌を気宇壮大に迎え入れる素地がつくられる。こうした処理はスコアの“改変”ではなく、現場主義的な発想のもとに楽譜の意図する効果を最大限発揮させるための熟練された方法論に他ならない。緻密に練られた解釈と、それを実現するのに必要な「楽器」とが揃った80年代後半から90年代初めこそが、彼らの最盛期だったと言っていいだろう。さらにチェリビダッケの最晩年、亡くなる数年間はまた一層深化した異形の境地が訪れるのだが、より均整のとれたフォルムという意味でもその前の時期のほうが一般的な評価は高いはずである。
このCDセットに所収されているのは何れもその実り多い時期のライヴで、交響曲第6番は彼らの本拠ミュンヘンのガスタイク、交響曲第7番と第8番は来日公演時のサントリーホールにおける収録。すでに稀代の名演として定評のある演奏だが、今回は幻ともいうべき1989年のムジークフェラインザールでのライヴが入っているのが貴重だ。前述の通り演奏会場の音響やアンビエントも演奏の大きな構成要素と捉えるチェリビダッケにとって、ムジークフェラインはいささか荒ぶる音楽への志向を誘われるホールだったのかも知れない。特に両端楽章での激しいアゴーギクを伴った凄みのある音楽運びは、他に残された演奏にはあまりみられないほどの変動幅を含んでいる。完全かどうかという見方をすれば粗もあり、これがチェリビダッケの〈ロマンティック〉の代表盤だとは言えないが、彼らの垣間見せた意外な「貌」という意味では非常に貴重な音源と言って間違いない。
[資料提供;ソニー・ミュージック]

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