鎌倉・光明寺でのマントラ・セッション
────ライヴとは思えないパフォーマンスと、ライヴでしかありえないアンビエンス
ヘナート・モタ&パトリシア・ロバートというブラジルの男女デュオをご存知だろうか? ボサノヴァの人気ばかりが異常に高い日本では、ミナス地方出身のこの男女デュオの位置づけは難しいかもしれない。透明感のあるアコースティックな音楽を主体にはしているものの、リオのボサノヴァの伝統からは遠い。ジャズ的な要素も多くはない。彼らの音楽の底にあるのは、むしろクラシックや教会音楽。あるいは、古いサンバ・カンソンであったり、ミナス地方の多様な伝承音楽であったりする。となると、そんな彼らがさらにインド古典音楽へと接近したなどといったら、これはもう一般的なブラジル音楽ファンの興味の範疇を越えてしまうだろう。
もっとも、ブラジルの音楽界というのは、ある意味、日本のそれにも似て多様で、メタルもあればハードコアもあり、ヒップホップもあればテクノもある。どんな音楽情報でもたやすく手に入る現代的状況は、もはや世界のどこでも変わりないことを思えば、インド古典音楽に接近するブラジル人ミュージシャンがいたって決して不思議はない訳だが、とはいえ、2007年に発表されたアルバム『サウンズ:平和のための揺らぎ』を聴いた時には、僕もその音楽に特に熱狂した訳ではなかった。美しい音楽だとは思いつつも、今一つ、実体が掴めぬまま、記憶の中にしまいこんでしまっていた。
ところが、昨年4月、鎌倉の光明寺で行なわれたヘナート・モタ&パトリシア・ロバートのコンサートを観に行って以来、『サウンズ:平和のための揺らぎ』をひたすら聴き返す日々が始まった。光明寺以外の四公演では、彼らは08年発表のアルバム『ジョアンに花束を』(ちなみに、このジョアンとはジョアン・ジルベルトではなく、ブラジルの作家のジョアン・ギマランエス・ホーザ)からの曲を中心に、MPBのデュオとしてのコンサートを行なったのだったが、僕のスケジュールが許した光明寺公演だけは違った。日本人ミュージシャン二人を加えたそれは、『サウンズ:平和のための揺らぎ』での試みを発展させたマントラ・セッションと呼ばれるものだったのだ。
『サウンズ:平和のための揺らぎ』はヘナート・モタ&パトリシア・ロバートがヨガのマントラに、オリジナルのメロディをつけて歌ったものだった。マントラというのは、ヨガの修行に使われるサンスクリット語による短い祈りの言葉だ(聖言、真言などとも呼ばれる)。
マントラを歌うモダーン・ミュージックはインドはもちろん、欧米にも幾つかの例がある。特に人気があるのはドイツの女性歌手、デーヴァ・プレマールだろうか。他にも何人かの女性歌手が見つかるが、いずれも、エンヤなどにも通ずるニューエイジ的なサウンドに包まれているものが多い。
ヘナート・モタ&パトリシア・ロバートの『サウンズ:平和のための揺らぎ』にも、そういう雰囲気はない訳ではなく、だからこそ、CDを聞いただけではピンと来なかったところもあったのだが、光明寺でのマントラ・セッション・ライヴを体験して、その印象も一変した。コントラバスにショーロ・クラブの沢田穣治、シタールにヨシダダイキチを加えた演奏は、自在に時空を駆け巡り、魔術的とも言えるような美しさを現出させていた。ブラジル音楽とインド古典の音楽の融合などという単純な説明では、とても、その音楽の持つスケールと奥行きには届かない。時には、アイルランドの音楽のように聞こえたり、時には、アフリカ音楽やイスラム音楽のように聞こえたり。まさしくワールド・ミュージック、という言葉が口をついて出てしまうが、それでいて、ヘナートとパトリシアの極めてパーソナルな情熱の発露であることも伝わってくる。ヘナートもパトリシアも口を大きく開けることなく歌う。観客に聴かせるというよりは、ひたすら、自身の内奥へと向かうような、その表現も清冽だった。
そんな光明寺での至福の体験以来、僕は『サウンズ:平和のための揺らぎ』を何度となくリピートするようになり、ことあるごとに人に薦めたりもするようになったのだが、その光明寺でのライヴが録音されていたとは、夢にも思わなかった。なんだ、もっと早く教えてくれたら良かったのに!
それが9月に【NRT】から発売されるアルバム『イン・マントラ』。前半こそ『サウンズ:平和のための揺らぎ』と重なる部分が多いが、後半に向けて、ヘナート・モタ&パトリシア・ロバートのマントラを歌う試みが、さらなる高みへと飛翔していく。ライヴとは思えないパフォーマンスと、ライヴでしかありえないアンビエンス(それも寺の本堂の)。僕のように、その場に居合わせた者でなくても、彼の日の光明寺公演がいかに特別な時間であり、空間であったかが分かるだろう。レコーディング&マスタリングも素晴らしく丁寧な仕事がなされている。
10月には再来日。再び同じ4人に加えて、ハルモニウムのMaya、さらに東京公演ではタブラのU-Zhannを加えたセッションも予定されているようだが、ともあれ、この『イン・マントラ』は全音楽ファンに薦められる一枚。あらゆる音楽ジャンルから外れていながら、あらゆる人に開かれている、そんな作品だ。
『RENATO MOTHA & PATRICIA LOBATO Japan Tour 2010 “In Mantra”』
10/30(土) 山形 文翔館議場ホール
10/31(日) 鎌倉 浄土宗大本山 光明寺 大殿
11/2(火) 福岡 アクロス福岡・円形ホール
11/3(水・祝) 鎌倉 cafe vivement dimanche
11/6(土) 東京 表参道 EATS and MEETS Cay
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