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アルド・チッコリーニ

公開
2010/03/10   12:52
更新
2010/03/10   13:05
ソース
intoxicate vol.84 (2010年2月20日発行)
テキスト
text : 池田卓夫(ジャーナリスト)

PHOTO: 三浦興一

85歳の〈美しい矛盾〉~アルド・チッコリーニの芸術

1925年生まれということは今年85歳。世界でも最長老格のピアニスト、アルド・チッコリーニが2年ぶりに東京すみだトリフォニーホールへ戻ってくる。前回はリサイタルがリスト《詩的で宗教的な調べ》全曲、協奏曲がシューマンとラフマニノフの第2番。今回はリサイタルがシューベルトの《ソナタ変ロ長調D960》とムソルグスキーの《展覧会の絵》、協奏曲がベートーヴェンの第3&4番。LPからCD、実演とチッコリーニを長く聴いてきて、ふと思い浮かんだのは〈矛盾の巨匠〉の見出し。先ずナポリ出身のイタリア人ながら長くパリ音楽院教授を務め、今やフランスを代表する巨匠と目されること。

次いで加齢と逆行するかのように、重量級の曲目へ移行したこと。30年ほど前は「時差がつらい」と言い何度かキャンセル。いざ来日してもサティのソロ、サン=サーンスの協奏曲などで軽妙洒脱の印象が勝った。上野の東京文化会館小ホールでシューベルトの《D960》を弾いた映像をNHKでみて重量級での見事さに驚いたのは10数年前のことだと思う。一昨年、演奏活動60年を機に引退したアルフレッド・ブレンデルは「最後の10年、体力的にきつい曲をレパートリーから周到に外してきた」と語ったが、チッコリーニは逆らしい。

昔は「パテ・マルコニ」と呼ばれたフランスのEMIが1950-91年に制作したチッコリーニの全録音がCD56枚組で出ている。そこには57年録音のラフマニノフの協奏曲第2番なども含まれていて、円熟の軌跡を辿ることもできる。「人間の声や弦楽器と違い、音と音の間に切れ目のあるピアノは人工の楽器。ピアニストは生涯かけて微分音をつなぎ、レガート(滑らかに歌わせる状態)の幻想を究めなければならない」。自らが重視するレガートの源流はスカルラッティ、パイジェッロ、メルカダンテらナポリ楽派の鍵盤奏法に求められるが、チッコリーニの偉大さは〈作曲家と聴衆の間の司祭〉あるいは〈(天からの)弾け!との命令に忠実な一兵卒〉に徹し、カンタービレの流麗さを失わないまま、内面の芸術を深めてきた点にある。〈形而上的ベルカント〉とも呼べる円熟は、最も美しい矛盾だろう。

第2次世界大戦が終わった時、20歳の若者だったチッコリーニは「戦争のおかげで10代を楽しめなかった。すべての戦争は人類にとって、必要のないもの」と言い切る。「人間の気品を象徴し、平和への願いをこめた真摯なメッセージ」と信じ、音楽と向き合ってきた。こうした音楽観は、ベートーヴェンのヒューマニズムや理想主義とも見事に重なる。戦後の混乱期、バーで弾き生計を立てたころの思い出を訪ねると、「誰も聞いてくれない場所で音楽と向き合うのは過酷だが、最高の学校だった」と答えた。酔っ払いや女性目当ての客の喧騒の中で弾かれるピアノが次第に心をとらえ、ホールが静寂になる瞬間の喜びの記憶が「深いのに、わかりやすい」、もう一つの矛盾の根源にある。


『ジ・アート・オブ・アルド・チッコリーニ』
アルド・チッコリーニ(P)ハウシルト(指揮)新日本フィルハーモニー交響楽団
会場:すみだトリフォニーホール
3/14(日)15:00開演 演目:シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番/ムソルグスキー:組曲《展覧会の絵》
3/16(火)19:00開演 演目:ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番&第4番
http://www.triphony.com