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伊丹十三『FILM COLLECTION Blu-ray BOX Ⅰ・Ⅱ』

カテゴリ
EXTRA-PICK UP
公開
2012/01/16   19:17
ソース
intoxicate vol.95(2011年12月10日発行)
テキスト
text : 磯田健一郎

©伊丹プロダクション

映画になろうとした男

小國さんは妙な顔をした。
「伊丹万作? 万作は弟子を取らないことで評判だったが・・・・・・弟子がいたのか?」
「他には誰もいなくて、私一人だけでした」
(橋本忍「複眼の映像」)

わたしが最初に伊丹十三(いや、一三か)という名前を覚えたのは、子どものころに見た『北京の55日』のスチールではなかったかと記憶している。どこで見たのかはもう定かではないが、当時ディミトリ・ティオムキンの旋律に魅せられていたから、そうした類のLPの解説か何かだとおもう。なぜか妙に近づきがたい鋭角的な何かを感じ、その印象がずっと後年まで消え去らずにいたのである。

そのころ、伊丹は映画をすでに一本撮っていた。1962年に製作された32分の短編、『ゴムデッポウ』。先ごろ東京国際映画祭と連動した回顧上映が行われたが、未見だったわたしは、今回初めてこの作品を鑑賞した。

ひとつの部屋に若者たちが集まっている。彼らはビールをあおりながらおもちゃのゴムデッポウで標的のサイコロを落としゆく。喧騒。停滞。倦怠。閉塞。そうしたものがシニカルな語り口と俯瞰をも多用した独特の構図で濃密に描き出される。映像の音作りにも関わっている身としては、最初の数分の室内の喧騒のミックス(何を誰が話しているのかわからないレベル設定だ)、駅や電車内から見える広告の文字をただ執拗に読み上げていくミニマリズム、ピアノの鍵盤上を行き来する猫が生み出すチャンスオペレーションのみによる台詞のないカット等々、考え抜かれたであろう音響演出にも注目した。その細部の突き止め方は、後年の伊丹組の仕事に受け継がれているもののように思われた。

ゴムデッポウ ©1962 ITAMI


ここにはのちの伊丹のエンターテインメントへの強い意思はまったくないと言っていい。しかしながら微視的な構造を拡大してていねいに再構築するアプローチや、恐らくは過去の〈実験映画〉の記憶から昇華させた独自の繊細な映像のコンポジションなど、その後の「演出家・伊丹十三」のなかに流れる個性がすでにあふれ出ている。

伊丹自身が醸し出した、パブリック・イメージとしての彼自身のキャラクターも刻印される。しなだれかかる女への倦怠に飽いた伊丹自身が演じる男が聞くフランス語のテープの──日本語字幕としても映し出される「お前はいつもそうだ。全くイライラさせられるよ」、に。

〈妙に鋭角的な、近づきがたい何か〉は、そこにあった。多くの場合、それは若さゆえの過剰な生命力と攻撃性とを濃厚にまとった、羽化を待つ〈才能〉というやつなのである。

この作品をも含めた『伊丹十三 FILM COLLECTION Blu-ray BOX Ⅰ・Ⅱ』が、リリースされることとなった。Ⅰには『お葬式』『タンポポ』『マルサの女』『マルサの女2』『あげまん』の5作品、Ⅱには『ミンボーの女』『大病人』『静かな生活』『スーパーの女』『マルタイの女』と、両ボックスで主要全10作品を網羅。両ボックスに特典ディスクとして「映画監督伊丹十三ができるまで」、および「伊丹十三映画ができるまで」が付されている。前述の『ゴムデッポウ』は前者に収録され、さらに「伊丹十三記念館の"13"」、「ピクチャー・イン・ピクチャーで見る『お葬式』絵コンテ」も合わせて収められている。のみならずⅠには文庫サイズの「映画『お葬式』シナリオつき絵コンテノート」も封入特典として入っており、たいへん充実したパッケージとなった。

最初とされる『ゴムデッポウ』に続き、最後の『マルタイの女』を見直す。シニカルな批判精神、堆積された映画の記憶たちへの狂おしいまでの愛情、映像構成へのフェティシズムと多様なディティールへの執拗なまなざしなど、彼の特質はいささかも変化していない。前者になく後者にあるものは乾いた笑いと大衆性だけだ。だが後者に三谷幸喜の名がクレジットされているのは、笑いのエッセンスへの訴求だけではなく、映画内映画、映画内演劇の延長線上に、自らの人生と映画の関係性をも〈シニカルに〉メタなものとしてとらえようとした思考の表出のような気もしているのだ。

津川雅彦の最後の台詞を思い出そう。

「人生は実に中途半端な、そう、道端のどぶのようなところで突然、終わるもんだよ」

伊丹万作は
自分に誠実な人であった。
自分に非常に厳しい人であった。
自分に嘘のつけない人であった。
伊丹十三

それは映画人としてのその息子にも言えることだったはずである。そうした資質を十三が確実に受け継いだという意味で、小國英雄も橋本忍も認識を誤っていたのかも知れない。

マルタイの女 ©1997 伊丹プロダクション