20世紀の最も探究心に富み、影響力のある歌手の一人である
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ生誕100年記念!
フィッシャー=ディースカウは、何よりもその卓越したリート(歌曲)の技術と洞察力で称賛されています。HMV、EMIエレクトローラ、テルデック、エラートのために録音されたリートと歌曲の完全コレクションが、ここに初めて一堂に集められ、彼の並外れた才能と共に、1951年から1992年までのキャリアを通じての芸術性と声の進化が紹介されています。彼のジャンルを刷新し続ける情熱は、シューベルトからシェーンベルクに至る広範なレパートリーにおいて発揮され、歌の芸術に新たな次元をもたらしました。
各ウォーレット(紙ジャケ)は、オリジナル・ジャケットのデザインを使用。
70ページのブックレット付(欧文のみ)※歌詞対訳は付いておりません。リートと歌曲作品集ですので、宗教的作品などは収録されておりません。
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、1925年5月28日にベルリンで生まれ、両親は共に学者でした。彼は幼少期から歌っていましたが、16歳で初めて本格的な声楽のレッスンを受け始めました。2年後、高校を卒業し、ベルリン音楽院で1学期を修了したところで軍に徴兵されました。1945年、イタリアで捕虜となり、アメリカの捕虜収容所で2年間を過ごす間にリートを歌う機会を得ました。ドイツに戻った後、ある主要ソリストの体調不良により、ブラームスの《ドイツ・レクイエム》でリハーサルなしで歌う機会を得ました。
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ワーナーミュージック・ジャパン
発売・販売元 提供資料(2025/03/07)
1947年秋、フィッシャー=ディースカウはライプツィヒで初のリート・リサイタルを開催し、すぐ後にはベルリンのティタニア宮殿での成功を収めたコンサート・デビューが続きました。翌年には、ベルリン州立歌劇場の主力抒情バリトンとしての契約やウィーン、ミュンヘンでのゲスト出演でオペラ界から注目されました。フランス、イタリア、オランダへのコンサートツアーを通じて、彼はドイツ語圏以外の人々からも認知されるようになりました。26歳のとき、ザルツブルク音楽祭でヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮でマーラーの《さすらう若人の歌》を歌い、イギリスではトーマス・ビーチャム卿とともにディーリアスの《人生のミサ》を歌ってデビューを果たしました。同年には、ピアノ伴奏者のジェラルド・ムーアとの長い協力関係も始まりました。ムーアは彼の著書『Am I too loud?』の中で、「彼が一節歌うだけで、私は自分が巨匠と共にいることを悟った」と回想しています。
オペラはバイロイト音楽祭(1954年-1961年)、ザルツブルク音楽祭(1956年から1970年代初頭)や他の歌劇場での定期的な出演により、彼のキャリアにおいて重要な部分を占め続けましたが、彼はまた合唱作品の優れた演奏者でもありました。メンデルスゾーンのオラトリオ《エリア》と《パウル》、そしてバッハ受難曲での深く感動的な《イエス》役をレコーディングしているのも素晴らしいことです。しかし、最終的にはリート(芸術歌曲)でこそ彼は最も記憶されることでしょう。彼はリートの全領域、特に優れた詩を用いた作品を探求することに尽きない欲求を持っていました。シューベルト、シューマン、ブラームス、マーラー、ヴォルフ、リヒャルト・シュトラウスといった偉大な作曲家の作品を演奏するだけでなく、文字に音楽をつけて自己表現することを新しい世代の作曲家に促したのです。彼の呼びかけに応えた現代の偉大な作曲家の一人にブリテンがおり、彼の《戦争レクイエム》で重要な役を作曲したほか、《ウィリアム・ブレイクの詩と箴言》も彼の独特の声を想定して作曲しました。その他にもバーバー、ヘンツェ、ルトスワフスキがいます。
1992年に歌手として引退した後も、彼は指揮や執筆、絵画活動を行いましたが、その天才は現代の歌手への指導、そしてレコーディングを通じて、卓越した音色、驚異的な音のパレット、優れたリズム感、そして完璧な発音で歌う方法など、後世に受け継がれています。
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