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寺山修司の写真

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フォーマット 書籍
発売日 2020年11月
国内/輸入 国内
出版社青土社
構成数 1
パッケージ仕様 -
SKU 9784791773268
ページ数 332P
判型 B6

構成数 : 1枚

序章 寺山写真研究の現在
一 寺山と写真
二 本書の構成と目的

第I部 寺山修司と写真―一九六〇年代日本写真の伴走者
第一章 写真における〈ダイアローグ〉―時評「カメラによって"何を燃やす"」(一九六七年)
一 写真批評に見る〈ダイアローグ〉の理念
二 「無言劇」の黙示―中平、森山、寺山
三 三人の出会いとその仕事―一九六六年まで

第二章 一九六〇年代写真界との理念の共有
一 〈ダイアローグ〉と中平卓馬
「あゝ、荒野」における〈ダイアローグ〉
方法の優先
世界との出会い方

二 匿名という戦略―東松照明「I am a king」から「新宿」へ
「I am a King」
その人選
その意図
「新宿」の〈ダイアローグ〉
寺山と東松

第三章 開かれた書物―単行本『街に戦場あり』(一九六八年)の違和感
一 三つの連載―「ショウの底辺」、「街に戦場あり」、「世界の街角で」
二 〈ダイアローグ〉の功罪―横山明の介入

第四章 森山大道との緩やかな別れ―写真ジャンル論と方法の重複
一 処女写真集『にっぽん劇場写真帖』(一九六八年)の出版
二 寺山の読みの正当性―〈大衆演芸〉というテーマ
三 森山の選択―「等価」の思想
写真批評の写真集
複写という方法―「アクシデント」(一九六九年)
寺山の方法との重複 ―写真における自己遡及的批評

第五章 中平卓馬との理念的決別―写真家と被写体の関係を巡って
一 自己批判の内実―「なぜ、植物図鑑か」精読
写真に滲む〈詩〉の否定
あるがままたらしめる必要性
事物(もの)の視線の組織化

二 寺山の書評―現実か幻想か
カメラの呪術性と「幻想」について
中平への反問
称賛と決別

第六章 「無言劇」の示したもの
一 「見るものと見られるもの」のその後
二 ボクシングの予言

第II部 寺山修司の写真―半写真家の仕事
第七章 寺山写真の行方
一 〈私〉という主題―『幻想写真館 犬神家の人々』(一九七五年)の成立
二 ヨーロッパに於ける展開―映像誌『ズーム』での活動その他
三 自虐する半写真家

第八章 さらなる境地へ―仮想敵としての篠山紀信
一 果たされなかった企画
二 劇の写真―『篠山紀信と28人のおんなたち』(一九六八年)
三 『ガリガリ博士の犯罪画帖』(一九七〇年)で生じた亀裂
四 篠山の転機としての一九七〇年代
五 「激写」の〈ダイアローグ〉
「連載 決闘写真論」(一九七六年)
「女ともだち」
自己遡及的批評の放棄
自己遡及的批評の発現

第九章 嘘と〈ダイアローグ〉―写真集『犬神家の人々』(一九七五年)を読む
一 写真の機能―記録と複製への反発
出会いの口実
美術品としての写真

二 《母地獄》を読む
〈母〉のテーマ
《母地獄》のメディア変遷
解釈その一「記憶の修正」―映画、写真集の中の《母地獄》
解釈その二「母への愛憎」―一枚の象徴性
第三の解釈「自立の道程」―エクスプリカシオン・ド・テクスト
作為の果て―向き合うことと写真による写真批評

終章 再び、「街に戦場あり」の三人について
選ばれなかった二人
敬するも遠く―


年譜
あとがき

  1. 1.[書籍]

寺山修司にとって〈写真〉とは何か。
既成の芸術ジャンルに囚われることなく活動した寺山にとって、特別な意味をもっていた写真。現実なのか幻想なのか? 東松照明、中平卓馬、森山大道、篠山紀信、荒木経惟らとの交流を辿りながら、寺山にとっての撮る」ことの意味を問う。

作品の情報

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著者: 堀江秀史

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