フランスの濃厚なチェロ・ソナタを情熱的な演奏で
フランス近代の室内楽は濃厚な抒情の美しい作品が多く、室内楽ファンには注目されています。ここでは、オルガンの巨匠でもあるボエルマンとヴィドールの力作チェロ・ソナタに加え、ヴァンサン・ダンディ晩年の瀟洒なバロック風チェロ・ソナタを収録。第1集(ラロ、ケクラン、ピエルネ)に続くアルバムです。
作品について
ボエルマン:チェロ・ソナタ
1897年にパリのデュラン社から出版。3楽章形式。ボエルマンはこの年、結核のため35歳と2週間で亡くなっています。このチェロ・ソナタは亡くなる少し前に書かれた作品ですが、病身とはいえまだ若かったボエルマンの創作は情熱的で、フランス・ロマン派後期のイディオムともいうべき力強さの中に豊かな情感が示された見事な作品に仕上がっています。
ヴィドール:チェロ・ソナタ
1907年にパリのウジェル社から出版。3楽章形式。ゆったりと大きなスケール感をもった作品。ピアノの存在感も大きな作品。
ダンディ:チェロ・ソナタ
1926年にパリのルーアル・ルロル社から出版。作曲時期は1924~25年。4楽章形式。ダンディ晩年の作品。古楽復興にも尽力していた時期で、この作品もソナタと命名されながらも、実際にはバロック風組曲の形式をとっています。冒頭のアントレーはエレガント。続くロンド風のガヴォットでは、チェロのピツィカートが魅惑的。エールは、ソフトでメランコリックなアリア。最後はバロック舞曲のジーグで生き生きと締めくくります。
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発売・販売元 提供資料(2023/07/03)
作曲家について
レオン・ボエルマン
1862年、アルザス地方のエンシサイムに誕生。普仏戦争[1870-1871]でフランスが負けると、アルザスがフランス領ではなくなったためパリに転居。パリではエコール・クラシック・エ・ルフェーヴル音楽院でオルガン、ピアノ、作曲を学び、優秀な成績で卒業。卒業後はパリ10区のサン・ヴァンサン・ド・ポール教会のオルガニストとして採用され、6年後にはカントルも兼務。1885年、ボエルマンはギュスターヴ・ルフェーヴルの娘で、高名なオルガニストで作曲家のウジェーヌ・ジグー[1844-1925]の姪でもあるルイーズと結婚。ジグーは子供がいなかったため、ボエルマンは養子となり、ジグーの学校でオルガン演奏と即興演奏を教えるようにもなります。ジグーがボエルマンを楽壇関係者に紹介したことで、各地で多くのコンサートを開けるようにもなり、知名度もさらに向上。しかし、結婚から12年後の1897年、ボエルマンは35歳の若さで結核により亡くなり、翌年には妻も亡くなってしまったため、ジグーは彼らの3人の遺児を引き取って養育。そしてそのうちの1人、マリー=ルイーズ・ボエルマン=ジグー[1891-1977]は、オルガン教師として有名になっています。
シャルル=マリー・ヴィドール
1844年、リヨンに誕生。オルガン職人、オルガン奏者の家系で、父シャルル=フランソワ・ヴィドール[1811-1899]にオルガンを習って、11歳の時に父の代理で教区でのオルガン演奏も務めるようになり、1860年、16歳の時にはサン=フランソワのオルガニストに就任。1863年にはブリュッセル音楽院に入学し、ジャック=ニコラ・レメンスにオルガン、フランソワ=ジョゼフ・フェティスに作曲を師事。卒業後はパリに移り、1868年からはマドレーヌ寺院でサン=サーンスのアシスタントを務めています。1870年には、カヴァイエ=コル、サン=サーンス、シャルル・グノーの働きかけにより、サン・シュルピス教会の暫定オルガニストに任命され、以後64年間に渡って折に触れ演奏することになりますが、オルガニストとして国際的に活動していたヴィドールにとっては副業だったため、正オルガニストにはなりませんでした。1890年にはセザール・フランクが亡くなったため、後任としてパリ国立高等音楽院の教授に就任。オルガン科では、ルイ・ヴィエルヌ、アルベルト・シュヴァイツァー、シャルル・トゥルヌミール、マルセル・デュプレなどを教えたほか、作曲科では、アルテュール・オネゲル、エドガー・ヴァレーズ、ダリウス・ミヨーらも指導。その間、1892年にはレジオン・ドヌール勲章を授与され、1910年にフランス芸術アカデミーの会員に選出されています。1920年、76歳の時に、37歳のマチルド・ド・モンテスキュー=フェザンサックと結婚。1921年、ダムロッシュ、フランシス=ルイ・カサドシュらと共に、フォンテーヌブローにアメリカ音楽院を設立し、1934年まで同音楽院の院長として活動。1937年、93歳で死去。
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発売・販売元 提供資料(2023/07/03)
ヴァンサン・ダンディ
1851年、パリに誕生。貴族の家系で伯爵の称号を持っていました。5歳からアントワーヌ・マルモンテル[1850-1907]らにピアノを習い、14歳からはアルベール・ラヴィニャック[1846-1916]に和声学を学んでいます。1870年、普仏戦争開戦により19歳で出征。翌1871年にはパリ音楽院に入学してセザール・フランクに師事し、1875年に卒業。在学中は、ビゼー「カルメン」の初演でプロンプターを担当したほか、ドイツを訪れてリストとブラームスと交流するなど学業以外も幅広く活動していました。卒業後しばらくは作曲の傍ら、シャトレ座管弦楽団の打楽器セクションに加わったり、コンセール・コロンヌでは合唱指揮もおこなったりもしていました。また、1876年のバイロイトでの「ニーベルングの指環」初演には大きな感銘を受け、以後、熱烈なワグネリアンとしても知られるようになります。1894年、ダンディは、アレクサンドル・ギルマンらと共に、パリ・スコラ・カントルムを設立。亡くなるまでそこで教えています。並行してパリ音楽院でも教えており、さらに個人指導などもおこなっていたのでかなり教育熱心だったことが窺えます。
<マリーナ・タラソワ>
1960年、モスクワに誕生。母リディア・タラソワはコントラバス奏者。6歳よりチェロを始め、モスクワ・グネーシン音楽学校でアレクサンドル・フェドルチェンコに、モスクワ音楽院でナターリア・シャホフスカヤに師事。1975年、プラハ国際コンクールで優勝し、1979年フィレンツェ国際コンクールでも優勝。1985年、パリ国際コンクールでグランプリを受賞。モスクワのフィルハーモニー協会のソリストとしてソ連全国で演奏したほか、早くからドイツ、ハンガリー、ポーランド、チェコスロヴァキア、ポルトガル、フィンランド、チュニジアなどでも演奏。1995年にはロシア連邦の名誉芸術家の称号を授与。17世紀から20世紀までをカバーする幅広いレパートリーを持ち、豊かな表現力で、情熱的な演奏を聴かせます。CDは、Brilliant Classics、Challenge Classics、Melodiya、Alto、Olympia、Nothern Flowers、Musical Concepts、Regis、Russian Discなどから発売。
<イワン・ソコロフ>
1988年、モスクワに誕生。10歳で初のソロ・コンサートを行い、12歳で校歌を作曲。ムソルグスキー音楽学校でP.E.バルセギャンに師事。モスクワ音楽院ではピアノ、室内アンサンブル、音楽理論を学び、2013年に大学院を卒業。コンクール歴は、スクリャービン国際ピアノ・コンクール、ノヴィエ・ルメナ・コンクール、モスクワ国立音楽院と国立音楽教育学院の2つの音楽理論アカデミック・コンクールなどでいずれも入賞。ロシアの「クラシチェスコエ・ナスレーディ」協会が主催するコンクールでは優勝。モスクワ音楽院在学中からロシア国内外で演奏する機会が増える一方、ピアノ曲、室内楽曲、管弦楽曲、劇音楽などを手がける作曲家でもあります。また、モスクワ音楽院やグネーシン音楽学校で室内アンサンブルのクラスを受け持ってもいました。CDは、Brilliant Classics、Challenge Classics、Nothern Flowers、Musical Conceptsなどから発売。
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発売・販売元 提供資料(2023/07/03)