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ヴェルディの「レクイエム」はオーストリア=ドイツ楽壇の歴史上、興味深い位置を占める作品である。この作品は、ヴェルディを得意とする多くの指揮者の中でも際立った地位にあったヘルベルト・フォン・カラヤンの人生とキャリアにおいても同様に重要な位置にある。
初演当初、この作品の評価は定まらず、1874年5月、ミラノのサン・マルコ教会で行われた初演の後、熱烈なワグネリアンでもあったハンス・フォン・ビューローはこの作品を「聖職者の衣をまとったオペラ」と皮肉った。このエピソードは、「レクイエム」という作品そのものというよりは、19世紀半ばの確立されたドイツ楽壇の他を見下すような権勢をよく物語っている。だからといって権威達の見方がそのまま一般的な意見とは言えない。1875年5月のロンドン初演での評価は冷淡なもので、立腹したヴェルディはロンドン滞在を早々に切り上げたが、翌月のウィーンでの演奏会は打って変わって大評判となった。皇帝フランツ・ヨーゼフは3回開催された演奏会すべてに出席し、その後で私的な勲章をヴェルディに与えたほどだった。これは、ヴェルディにとってドイツ語圏における最初の栄光であった。この事態を受けて、オーストリアとドイツのカトリック圏では、ドイツ楽壇の権威がこの作品に対する評価を修正しはじめた。伝統的ローマ教会の様式と"ドイツ的"ポリフォニーに熟達している点がことさら称賛された。
一方、若き日のヘリベルト・リッター・フォン・カラヤン(出生時のフルネーム)は1920年代初めにはザルツブルク・カトリック教会ですでにこの作品と出会っている。この頃にはこのレクイエムは音楽史上の重要作品として認められていた。しかしながら、この作品がザルツブルク音楽祭で演奏されるようになるのは、カラヤン自身が1949年8月に祝祭大劇場で実演した以降のこととなる。この時は大絶賛された。ただ、当時のザルツブルクの教会音楽の最高権威だったヨーゼフ・メスナーは演奏会もその後の大絶賛も容認しようとはしなかった。メスナー自身、毎年音楽祭の折、ザルツブルク大聖堂で行われていた"宗教音楽のコンサート"で、ロッシーニの「スターバト・マーテル」やヴェルディの「聖歌四篇」を演奏したことがあったが、カラヤンの祝祭大劇場での演奏は世俗化を促す不穏な活動であるとみなしていたのである。
カラヤンがこのレクイエムを初めて指揮したのは、1933年ウルムにて若き副カペルマイスターとしてであった。オケの力量は限られていたが、音楽上の"大胆で劇的な急転"が求められた。カラヤンがアーヘンに移った1934年、アルトゥーロ・トスカニーニがナチスによって暗殺されたオーストリアの首相、ドルフースの追悼コンサートをウィーン国立歌劇場で行い同曲を取り上げた。こうしてレクイエムはオーストリア=ドイツの音楽史の潮流の中でも確固たる地位を占めることとなった。(続く)
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レクイエムは1935年、カラヤンが27歳という若さでアーヘン歌劇場の音楽監督に就任した後、最初にプログラムに取り上げた合唱作品だった。この時になって、カラヤンは自分の裁量で音楽家達を招集することが出来るようになった。テオドール・レーマン率いるアーヘン大聖堂聖歌隊は世界的名声を得ていたし、アーヘン歌劇場の合唱指揮も新進気鋭のヴィルヘルム・ピッツであった。レクイエムは、4声部の卓越したソロなくしては成り立たない。妥協を許さなかったカラヤンは、ベルリン国立歌劇場からソリストを招集した。ゲルトルート・リュンガー、ヘルゲ・ロスヴェンゲ、クレメンス・クラウス夫人のヴィオリカ・ウルスレアクが告示されたが、ヴィオリカは後に辞退している。
演奏はアーヘンの最も権威のある評論家ヴィルヘルム・ケンプ博士により評論された。「カラヤンの指揮法は、あらゆる場面において細やかな指示を出すと同時に独特な内面的没頭により音楽を具現化するという方式をとっている。カラヤンはこの作品を壮大に威厳を持って演奏した。スコアに対しては挑戦的だったが、しなやかさと快活さを保っていた。歌手陣を伴っていたが、どの瞬間にも彼らが貢献できる最大限をそれぞれが思うように歌うことを許していた。」1962年ザルツブルクでもその演奏スタイルはほとんど変わっていない。
ひとりのカトリック信者として、そしてこのレクイエムの中では非常に感動的に表れる人間の声を愛する音楽家として、カラヤンは本質的には祈祷の音楽としてのアプローチをとっている。だからといって、潜在的なオペラ的要素をも失っていない。彼のキャリアの初期には、現代ではバッハの受難曲の舞台で行われるような"舞台効果"への興味を示していた。1948年ウィーンでは、一人ではなく二人のソプラノを起用した。リューバ・ヴェリッチがこの作品のメイン・パートを歌い、華やかな声を持つエミー・ルースが後方のギャラリーから"レクイエム・エテルナム"を歌った。1958年、指揮者でありトスカニーニの弟子だったマッシモ・フレッチャの兄弟であるヴィエーリ・フレッチャがこのレクイエムをザルツブルクのフェルゼンライトシューレ劇場にてギリシャ悲劇の様な演出で上演することを提案した。カラヤンはこの提案を受け実演したが、大成功とは言えず、ソンエリュミエール(音と照明を駆使したスペクタクルショー)かのようだと批判を浴びた。
それでも、ギリシャ悲劇のテーマは忘れられなかった。1965年9月のアテネ・フェスティヴァルの一環として、カラヤンはエピダウロスの古代ギリシャ劇場でこのレクイエムを演奏している。ロンドン・タイムズ紙は「ヴェルディ自身、日曜日の夜のイベントで彼のレクイエムを聴くことを人生の中でも最良の経験と位置付けていたかも知れない。午後8時、空は黒いビロードのようで、風はそよぎもしない。カラヤンが指(この時は指揮棒を用いなかった)を上げるやいなや"レクイエム・エテルナム"のささやくような冒頭が始まった。エーゲ海の悠久の歴史とたそがれの美しさが演奏にえも言われぬ趣を加えた。まさに神に捧げられた音楽というのがふさわしく、通常のコンサート・ホールでは味わえない感動であった。」とレポートした。(続く)
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カラヤンはキャリアの後半においても、このレクイエムを彼のキャリアの節目で数多く指揮している。重病から復帰した年、1976年のザルツブルク復活祭音楽祭でもこの作品を取り上げている。歌手陣の中でも特にモンセラート・カバリェの卓越したブレス・コントロールはカラヤンさえも驚かせた。そして、レクイエムは1989年の死の直前、ベルリン・フィルを指揮した最後の作品でもある。
興味深いのは、LPが1972年以降制作されていないことである。1967年にすべてのオフィシャルな記録の中でも最高の映像を残したにも関わらずである。この演奏はミラノ・スカラ座で撮影され、アンリ=ジョルジュ・クルーゾーにより監督された。ソリストとしてはレオンタイン・プライス、ニコライ・ギャウロフに加え、まだ無名であった若き日のルチアーノ・パヴァロッティが参加している。もちろん、1949年から89年の間には、多くの放送音源が残され、そのうちいくつかはリリースもされている。その中でも、今回の初出音源は他の録音より興味深い点を持っている。
ヴェルディの音楽はザルツブルク音楽祭でも時折取り上げられてきた。トスカニーニの1936-37年の「ファルスタッフ」の演奏を忘れる人はいないであろう。この時は、カラヤンもリハーサルに参加している。しかしながら、ヴェルディのオペラ作品群が、イタリア生まれのイタリア人歌手、もしくはイタリア的なスタイルを熟知している歌手達を起用して演奏されたのは、1957年にカラヤンが音楽祭総監督に任命されてからのことだ。1962年のレクイエムの演奏では、唯一バスだけがロシア人のニコライ・ギャウロフ(1929-2004)を起用し、彼にとってはザルツブルク音楽祭デビューとなっている。対照的に、ジュゼッペ・ザンピエーリ(1921-81)は1957年以来変わらず出演している。当時音楽監督であったウィーン国立歌劇場の"専属テノール"であり、イタリア・オペラへの出演を続けるようになる前には、カラヤンによるベートーヴェンの「フィデリオ」でフロレスタンを演じザルツブルクにデビューしている。偉大なるイタリア人メゾ=ソプラノ歌手、ジュリエッタ・シミオナートはカラヤンの音楽仲間でも中心的存在であり、このレクイエムの演奏からもそれが窺える。1957年から59年の間、彼女は「ファルスタッフ」でクイックリー夫人、「ドン・カルロ」でエボリ公女、そして1948年にオスカー・フリッツ・シューとカラヤンが組んで大成功を収めたグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」のリバイバル上演でオルフェオを演じている。1962年には、カラヤンの演劇的には陰鬱だが声楽的には壮麗な「トロヴァトーレ」でアズチェーナも演じている。(続く)
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シミオナートのアズチェーナに対し、レオノーラはレオンタイン・プライス(1927年生まれ)で、二人はトロヴァトーレの役でもレクイエムでも絶妙なコンビを見せている。カラヤンが若きレオンタイン・プライスに出会ったのは1956年ニューヨークでのこと、この時カラヤンはプライスを「未来のアーティスト」と絶賛し、プライスのピアニストを解雇しカラヤン自身がその役をかってでるほどであった。1959年にベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」でザルツブルク・デビューを果たすと、1960年7月26日、新しい祝祭大劇場のこけら落としに招待され、さらに新演出の「ドン・ジョヴァンニ」でドンナ・アンナを歌った。レーダーホーゼンをはいた地元民たちは、ザルツブルクの舞台に黒人歌手が立つというニュースをビール片手に信じられないという顔で注目した。何一つ公にはされなかったが、バーやカフェではそのようなことで"カラヤンの判断力のなさ"を議論する輩が大勢いたのだ。それでもプライスは1984年までザルツブルク音楽祭に出演をし続け、その頃にはすでに最も尊敬される名ソプラノになっていた。"音楽祭の黄金"とも称された。いかに、プライスとカラヤンは微笑んだことだろう。
カラヤンは人間の声が内に秘めた力を愛していた。それゆえに、静かに歌うことのできる歌手の能力を強く称賛する傾向があった。歌詞も重要な問題で、信頼する歌手と歌詞に関して精査することも多かった。同様に重要であったのは、歌手自身の力量であり、また彼自身が率いたベルリン・フィルのソリストの力量でもあり、それぞれを傾聴していた。こうした特性こそがヴェルディのレクイエムの精神を具現化するカラヤンならではの才能だったのであろう。1935年にケンプ博士がいった「独特な内面的没頭」とはまさにこの部分を指している。
(C) Richard Osborne, 2013
訳:堺則恒
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巨匠カラヤンによる絢爛たるヴェルディ:レクイエム!
1962年8月、ザルツブルク音楽祭におけるライヴ音源。50年代後半以降のザルツブルク音楽祭は、正にカラヤンによる"帝王時代"であり、ベルリン・フィルが参加するようになり、カラヤン主導の下、祝祭大劇場が1960年に完成しています。順風満帆なカラヤンがベルリン・フィルを指揮したお得意のヴェルディであり、L.プライス、G.シミオナート、G.ザンピエーリ、N.ギャウロフと歌手も超一流なメンバーで固められ、合唱はウィーン楽友協会合唱団と万全。収録合計時間…81.37。
タワーレコード(2013/09/13)