
無になることのできる男が近くにいた。
彼の日常には、完全に何も考えていない瞑想中のような時間があるという。昨日、スタジオのダイニングで、彼が明かしてくれた。
ある集まりで、仲間たちが談笑していたときに、ある人がひとり離れたところで沈黙していた自分の姿を見ていてね、その人が〈そういうときって、何を考えているの?〉と訊いてきたんだけど、自分は〈何も考えてないんだよね〉と答えた……。
このやりとりを聞いたスタジオの仲間たちは、「本当? 絶対そんなのありえないわ」「それって無になってるってことだよね?」「意識的にそうできるの?」「世の中には無になりたくてもなれない人がゴマンといるのにすごいな」と熱く反応した。
ちなみに彼は「防音の壁に取り囲まれているのかな?」と思わせるほど仲間の話を聞いていないことがある。このスタジオでの会話の最中でも「トイレに入っているとき、いま地震がきたらどうしようって思うんだよね」とまったく関係のない話をはじめた。
インドの自由人・クリシュナムティが書いた日記に「故意に瞑想しようと試みることは瞑想ではない。それは起こるべきものであって、こちらから招き入れるものではない」という文章がある。「いま考えていること、行為していることだけに気を留めなさい」「欲は盲目だ」と続く。
誰しもがそれぞれの欲をもっているが、一点に集中しているのと分散された状態では生き方が大きく違う。欲を集中させればさせるほど人生の振り幅が大きくなっていくのではないか? ダイナミックな人生には凝縮した強い欲がつきまとっているのだ。
ところで、〈禁欲的〉と云われる状態とはどんなものなのだろう? ベジタリアンが肉食をしないのも、食肉産業に関連する環境の改善や自身の健康を強く求めた欲のあらわれだし、ヴォーカリストが規則正しく生活し、日々のエクササイズをかかさないというのも、のどを大事にして良い唄を歌いたいという強い欲からの行動だろう。僧侶が節制したり、戒律を守ったりして暮らすことも、精神的に上のレヴェルに上がる為であったり、悟りを開いたり無になるという強い目的とそれを渇望する欲によってもたらされた生活と云える。
おいしいものを無節操に求め食べることも、食べ物を制限し選ばれたものを食べることも、まったく同じ欲望の質量だとわたしには思える。
わたしはもちろん無になったことはない。それに、無になることを求めたこともない。ただ、ある対象と完全に一対一になり、意識がその対象の空間(世界)に滲みだしていくような経験はある。それは日常に突然訪れた静けさのなかにもあるし、創造的な現場でもよく起こる。自分にとっての瞑想のようなものだ。
PROFILE
青柳拓次
サウンド、ヴィジュアル、テキストを使い、世界中で制作を行うアート・アクティヴィスト。LITTLE CREATURESやDouble Famousに参加する他、KAMA AINAとしても活動。最新作『たであい』も好評リリース中。タワレコ限定でリリースされたコンピ『Happy Holiday! by commmons』に、『たであい』収録の“映してながめる”を提供。