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第60回 ─ SUPERCAR @ studio coast 2月26日(土)2005年

第60回 ─ SUPERCAR @ studio coast 2月26日(土)2005年(3)

連載
ライヴ&イベントレポ 
公開
2005/03/03   17:00
更新
2006/01/19   18:37
テキスト
文/内田 暁男

──そんなこんなで、あのマスターピースとも言えるファースト・アルバム『スリーアウトチェンジ』が98年に出てしまうわけですが。

富樫:『スリーアウトチェンジ』は目から鱗なのかなっていう。すっごい普通だと思うんですよ。普通に音を鳴らして普通に歌が乗ってるっていう。そういう普通のことがみんなやれてなかった時期だと思うんで。そこに衝撃があったんじゃないかなっていう。ものすごいひねった作品でもないから。4人でしか鳴らせないものだった。しかもバラバラの4人ていう。

──ですね。で、その時期からSUPERCARを取り巻く周りの状況が一気に加速していった感はありますよね。

富樫:実感はしてなかったんですけど、ただ取材が異常にあるなぁっていう(笑)。アルバムまでは取材はしなかったんですね。インタビューはあんまり得意じゃなくて。初めて取材をやったんですけど、三日間青森から東京出てきたら、その三日間で30本ぐらい取材入れたり。60誌以上やったかな。普通に朝から夜中の0時くらいまでこなして。僕は『スリーアウトチェンジ』が出た98年の初ワンマンライブのクアトロでデカくなってる実感を初めて感じたかな。チケットは売り切ってて、業界向けの招待も足りなくなったのでインビを増刷して600枚くらい配ったら300人ぐらい来たんですよ(笑)。クアトロ1000人越えてもう大変なことになって。入れないから人が下のロビーで待ってて、何人か出てくとそこに入れたりとかもう最悪な状態で(笑)。前のクアトロの店長は超怒ってるっぽくて、僕とか受け付けにいないほうがいいって言われてたから、とにかく逃げてて。「来たのに見れないよ!!」みたいな感じで、途中でみんな帰ったりとか。

──それ以降は『JUMP UP』『OOYeah!!』『OOKeah!!』『Futurama』『HIGHVISION』『ANSWER』と次々に音楽スタイルを変えていくのが驚きでしたよ。

富樫:ある人がSUPERCARは〈場〉だよねって言ってたんですけど、そこで遊べる感じがある。いろんなものを持ってきたり試したりできるバンドだったんですよね。たとえば“Sunday People”(98年)とか初めて打ち込みを入れて、そこからプロトゥールレコーディングに変わってきたり。そのときドラムンベースのイベントで〈Rhythm Freaks〉ていうパーティーがあって、それにデザートストームっていうでっかいサウンドシステムが入ってたんですね。それを98年のSUPERCARのライヴで試してみたり。

──富樫さん的には、SUPERCARが辿ってきた、ここまでの音楽性の変遷、進化を予想できました?

富樫:正直予想はしてました。それがいいのか悪いのか別として。もちろん新しく何かを得てっていうものもいっぱいあったと思うんですけど。基本的には97年の最初のバリエーションにすでにあった可能性というか。だからSUPERCARは普通のギターバンドじゃないんです。いしわたり淳治、田沢公大、フルカワミキ、中村弘二ていう4人がいてSUPERCARっていう意識。ギター、いしわたり淳治、ドラム、田沢公大ていう感じじゃなくて、この4人でなんか作るものがSUPERCARになっていくっていうか。それこそ全部打ち込みで作り上げてもSUPERCARになると思うし、ドラム叩いてないからコーダイやってないよね、とかそんなところでもないかなっていう。

──ですね。で、『ANSWER』でまた驚くべき進化を果たしたあと解散にむかっていくわけですが……。それまでにも内部では何回も緊迫した状態はあったんですか?

富樫:もう何回それがあったかっていう(笑)。バンドはそれが普通なんじゃないかと思うんですが、小さい危機は『JUMP UP』のときぐらいから少なからずはあったと思うので。だから98年ぐらいからすでにそれは始まっていたんじゃないかな。『HIGHVISION』のとき、外部の人といっしょにやろうっていう話で納まったときに、ナカコーとミキちゃんとでメシを食ってたらミキちゃんが「やっぱやめたい」って。「えぇ~何を言ってんの?!」ってけっこうビックリして。ナカコーも寝耳に水みたいな感じで、「まぁ頑張ろうよ」みたいに説得してて。でも僕はそういう話があっても敢えて聞かないようにしてたところあるし、聞く耳を持たなかった。「じゃあ次レコーディングいつから入ろうか」みたいな。「次ここでリリースしてこの辺でプリプロ」とか話を進めていっちゃうように。

──ずっとSUPERCARと密に接してきた富樫さん的に、解散が本決まりになったときどうでした?

富樫:最初は「何そんな勝手なこと言ってんの? いいかげんにしてくれ!」て感じですよ(笑)。「もう次のアルバム作るよ。冗談じゃないよ」っていう。そのあと時間をかけて話して納得しましたけどね。「あぁムリかな」っていう。ラスト・ライヴ終わったあと、コーダイが「どうでした?」とか聞くから、「バカヤローだよ」て言って(笑)。まぁよくやったっていう感じなんですけどね。全然実感がなかったんですけど、ライヴの最後の曲になったときぐらいに〈あぁ…〉てけっこうキましたね。『A』『B』とか過去の音源を聴くことが多かったんで、正直、この作業は辛いなぁなんて思ってたんです。曲を聴くと場面が浮かんでくるし、その年にあった自分のことまでが浮かんでくるし。あんまりいい気分じゃなかったんですけど、ライヴで“TRIP SKY”になったときに〈あ、終わるんだな、もうこの4人では出さないんだな〉っていう。やるせなさはもうないですね。みんなも前向いてんでしょって感じ。スタッフも前向いてますよっていう。いつまでも故人を偲んでるわけじゃないんで。会ってから9年ぐらいですかね。おっきなものがいっこ終わったていう感じですね。あぁ全部思い出になってくんだなっていう。