こんにちは、ゲスト

ショッピングカート

NEWS & COLUMN ニュース/記事

第60回 ─ SUPERCAR @ studio coast 2月26日(土)2005年

第60回 ─ SUPERCAR @ studio coast 2月26日(土)2005年(2)

連載
ライヴ&イベントレポ 
公開
2005/03/03   17:00
更新
2006/01/19   18:37
テキスト
文/内田 暁男

A&R、富樫陸が語るSUPERCARとの9年

──まずはSUPERCARとの最初の出会いを教えてください。

富樫:僕96年の5月ぐらいに会社に入ったんですけど、そのときは全然ギターバンドとかっていうモードじゃなくて。それこそADS(ASTEROID DESERT SONG)とか中原(昌也)君だったりのオルタネイティブなシーンやドラムンベースのパーティーにのめりこんでたり。あと小林(弘幸/現HOT-CHA/AREGISTA)が〈FREEFORM FREAKOUT〉てイベントやってたりしてた時期。で、SUPERCARって名前で青森のバンドがいるっていう話はちょっと聞いてて、ある日会社に戻ってきたら、なんか流れてて。「これ誰?」って聞いたら「SUPERCAR」て。「あ、これなんだ」と。2、3曲だったんですけど、とにかく良くて。そういうモードじゃない僕にもなんか響いたんですよね。そのとき僕某インディーズ雑誌で、新人バンドを取材して紹介するページを持ってて、SUPERCARいいかもなと思って、音もインディーズですら世間に出てないのに紹介して(笑)。取材した日は96年の夏で、渋谷のギガンティックで関係者何人かの前で演るっていう東京での初ライブみたいな日だった。ちゃんと会ったのはそのときが初めてですね。そのときは単にいち取材者として会った。で、話したらおもしろかったんですよ。青森っていうなんにもないとこなのに普通に会話が成り立つ感じで。〈あぁ、こういう感性の子いるんだなぁ、逆に東京じゃないからいるのかなぁ〉とか思ったんですけど。そんときに一言も喋んなかったのがミキちゃん(笑)。けっこう喋べんないて聞いてたナカコーとか淳治が普通に喋ってましたね。

──そこから富樫さんがA&Rを担当するっていう経緯は?

富樫:そのときのディレクターのカナイ君から、いちばん押してくれるとこでやりたいっていうのがあって。で、dohbでできるかねぇ?てブレストやったときに、流れ的に僕が担当することになった(笑)。このバンドだったらdohbでやってもいいなって自分のなかでも見えた気がしたんで。その時点で曲は100曲ぐらいあって。それでも出し惜しみされてる感じっていうか。それ聴いてたら……いままでSUPERCARがやってきた音楽の変遷がいろいろあると思うんですけど、その時点でそれが見えてたっていうか。〈こんなこともできるし、あんなこともできる〉みたいな。で、多い時は一週間に一回くらいは青森に行く日々になって。(青森は)もうなんにもないですよ(笑)。飛行機も3便ぐらいしかないんで、乗り遅れると5時間後とかいうレベルですから。だからホントにそれまで青森でメンバーはヒマだったんだと思うんですよ(笑)。SUPERCARはヒマがいろんなものを作り出してきたバンドっていうか。最初はプロモキット用の音をまず上げようってなったんだけど、媒体向けに豪華なプレスキットを作って配って聴かせたのが97年の7月ぐらいで、実は実際音を聴かせるのはすごい遅かったんです。だから音も情報もない段階で、とにかくヤバイっていうのを周りに言いまくってて(笑)。「SUPERCARっていうバンドがデビューすることになって。青森に住んでてまだ18なんですよ。本当ヤバくって」みたいな。そのうち音も出してないのに、「SUPERCARってヤバイらしいね」っていうのをいろんな媒体から逆に聞くようになって(笑)。

──なるほど(笑)。最初の頃の東京でのレコーディングの様子はどうだったんですか?

富樫:レコーディングになるとメンバーは東京のホテルに40連泊とかするんですよ。東京に出てきても友達いないし、行くとこもない。だからなんにもしてないときは下北のdohbオフィスに必然的にいるっていう。僕、三茶に住んでたんで、ホテル代ないときはたまにウチに来たりとかしてましたね。デビュー半年前ぐらいのときかな。もう一緒に働いてる感じっていうか、もちろんアーティストっていう境界線はあったけど、仲間的な意識だったですね。東京にくるたびにナカコーの曲が増えてるんです。で、それをずーっとウチで聴いてるんですよ。「これは何?」て聞くと「自分でこの前作った」って。どんどん出来る。スゴイなぁって。あとそのプロモキット配った頃はライヴがとにかくヘタっていうのがまた噂になってたりとかして(笑)。

──俺プロモキットが配られて、“cream soda”が出る前の97年の〈ON AIR WEST〉でのイベントを見にいって。もう演奏はボロボロだわ歌はテキトー英語だわメチャクチャでしたね。

富樫:あんときはボロボロだったと思いますよ(笑)。だからイベントはとにかく一番最初に出て逃げるように帰るっていう。

──ボロボロなんだけど、4人の佇まいっていうかステージに並んだ感じがもう完全に新しい感じがしたのは強烈に覚えてます。もう超自然っていうか。

富樫:本当そうなんですよね。佇まいてすごい大事で。僕も最初渋谷のギガンティックで見たときに〈あっ〉て思ったんですよね。ライヴなんて2本目ぐらいだったと思うんですけど、音が一音出るまでで、なんか90%ぐらいOKていう感じ。あ、もう大丈夫ていう。だからすっごいヘタで歌詞もムチャクチャ英語だったけど、何かが伝わるっていう気持ちはあって。だからアルバム出るまではライヴでちゃんと歌わなくていいやぁていう(笑)。本当は良くないんですけど。

(→次ページに続く)