カヴァー・ポップス時代
欧米ポップスの輸入が盛んになったことを受けて、それらを日本語でカヴァーしたポップ・ソングがウケた60年代初頭。当時、カントリー歌手に憧れ、レコード・デビューまでこぎつけたムッシュだったが……「自分の過去で消したいものが誰でもあると思うんだけど、ことにこのころの作品は消したい(笑)。レコーディングができるっていううれしさはあったけど、コニー・フランシスの曲を歌わなきゃいけないなんてこともあって」。
ザ・スパイダース
60年代半ば。ヴェンチャーズの上陸によって日本の若者はエレキ・ギターを手にし、ビートルズの出現でオリジナル・ソングを書き始めた。そして、グループ・サウンズという形で回答。なかでも高い音楽性とエンターテイメント性を誇っていたのが、ザ・スパイダースである。メンバーは、ムッシュのほかに、田辺昭知、堺正章、井上順、井上孝之(現・堯之)、大野克夫、加藤充。ヒット曲は“夕陽が泣いている”“あの時君は若かった”ほか。
「最初のころは、ちゃんと自分で、快適な気分でやってたけど、後半がちょっぴりね。やっぱりファースト・アルバムが好きですね。それから、シングルで出した曲のB面とか。“バン・バン・バン”も“なればいい”もB面だしね。いろんなことに挑戦してみた曲をA面にするのはおこがましいっていうかね。やりたいものが頭のなかに全部入ってて、それをコーディネイトしてた感じ」。
『コンプリート・シングルス』(テイチク)
ソロ・アーティストとしてスタート
ザ・スパイダースが終焉に近づいていたころ、当然のようにソロ活動への興味を示したムッシュ。楽曲、楽器演奏、プロデュースのすべてを自身が手掛けたファースト・ソロ・アルバム『MONSIEUR』を69年に発表する。
「スパイダースの後期に、ヤダヤダと思っていたアドバンスとして、この多重録音があるんですよ。一方でストレスを抱えてるときに、自分で納得のいくものが作れたりするんだなって思ったなあ」。
その後、ソロ作品をリリースしていくなかで、ジャズ・シンガーであり父上でもあるディーブ釜范との共演盤を発表。
「ウチの親父は、とにかく忙しい人だったんですけど、あるとき奇跡的に〈飲み行こう!〉ってなって。そんなこともあってから、日記帳みたいな感じでやってもいいかなあって思って作り始めたんですよ。ホント、作っておいて良かったと思いますよ。そのあとしばらくして、親父がこの世からいなくなったわけですから」。
74年には、吉田拓郎が楽曲提供した“我が良き友よ”(B面は“ゴロワーズを吸ったことがあるかい”)が大ヒットする。
「あの当時、B面はなにやっても良かったの。なにやろうかなって考えてたときに、タワー・オブ・パワーが来日してたんですよ。たまたま呼び屋の人が知り合いで、ダメもとで電話して、レコーディングしてもらえないかって言ったらOKになっちゃって。でも、レコーディングが明日とか明後日って話になっちゃって。曲なんか作ってなかったから、好きなコード進行だけ書いて、タワー・オブ・パワーのメンバーに渡して。で、今度は、詞をどうしようかってことになって。そのときゴロワーズを吸ってたから、じゃあこれって」。
『FATHER AND MAD SUN』(ヴィヴィド)
80年代
「もう、手も足も出なくって。ニューウェイヴとかパンクをやるには歳をとりすぎてたし、フュージョンをやるにしても技量が少ない(笑)。行く場所がなくって、セッション・シンガーみたいなことをやったりしてた。YMOとフュージョンじゃないですか? ビーチ・ボーイズとかやっても、重く聞こえてた時代で、時代の空気ってすごいなって思うな」。
90年代~〈ゴロワーズ〉ふたたび
「あるとき“ゴロワーズを吸ったことがあるかい”がロンドンのクラブでかかっているっていうことを聞いて……」。
レア・グルーヴ・ブームにも後押しされて、ムッシュがふたたび第一線に。そして、トシ矢嶋プロデュースのもと、ブランニュー・ヘヴィーズ、DC・リーほかアシッド・ジャズ・シーンの立役者たちが一同に集結したアルバム『Gauloise』を発表する。
「DC・リーがポール・ウェラーの奥さんだってこととか、そういうこともなにも知らなくて(笑)」
94年のアルバム『Gauloise』(トラットリア)