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『復活の日』『家族ゲーム』『お葬式』――製作陣の証言から紐解く80年代大ヒット映画の魅力

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『復活の日』『遠雷』『南極物語』『家族ゲーム』など、1980年代に生み出された名作映画の数々は、多くの人の心を掴み熱狂させた。80年代の日本映画の魅力とは一体何だったのか。書籍「なぜ80年代映画は私たちを熱狂させたのか」は、数々の大ヒット作を手掛けた名プロデューサー・岡田裕を中心に、当時活躍した映画製作者・俳優陣の知られざるエピソードから、熱狂の理由を探っていく1冊だ。

●チリ軍事政権から潜水艦を借りた名プロデューサー

世界映画における80年代は、『E.T.』『スター・ウォーズ ジェダイの復讐(帰還)』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』などのハリウッドの大ヒット作が世界中の興行成績の上位を独占した時代だった。日本でも70年代からハリウッド映画を中心とする外国映画が日本映画の配給収入を上回っており、90年代、2000年代とその波は続いたが、80年代の10年間のみ日本映画が外国映画を押し返している。80年代の日本映画にはそれだけの熱量があり、その熱量を生み出していたのは撮影所出身のプロデューサー、監督、スタッフたちだった。

「プロデューサーの時代」とも言える80年代で特に注目すべきプロデューサーが、『ユー★ガッタ★チャンス』『家族ゲーム』『お葬式』など、大ヒット映画の企画を一手に引き受けた日活出身のプロデューサー・岡田裕だ。彼は角川映画『復活の日』も手掛けており、この映画の撮影では実に驚くべきことをやってのけている。

『復活の日』は、細菌兵器として開発された猛毒ウイルスが事故によって世界に蔓延、潜水艦で南極に逃れて生き延びた僅かな人々の姿を描いた作品だ。この企画で岡田たちの頭を悩ませたのが、「潜水艦が南極に浮かぶシーン」をいかに撮るかだったという。

七八年ごろから、南極ロケの拠点となる南米のチリに何度も行ったんです。何のコネクションもなく、当てもなく情報収集するうちに、当時のチリの独裁者、アウグスト・ピノチェトの腹心に日本人がいることを聞きつけたんです。 (※注)

岡田は伝手を辿って腹心と会い、その縁をきっかけに、1億円程度でチリ海軍から潜水艦と、それを撮影するための2機のヘリコプターを搭載した輸送船を借りた。独裁政権から本物の潜水艦を借りるなんて現代なら許されない話だが、それだけの熱量があったからこそ、『復活の日』は名作となったのかもしれない。

●『ヨコハマBJブルース』誕生のきっかけは松田優作の“ひらめき”

岡田がラインプロデューサーとして参加した、松田優作主演の名作『ヨコハマBJブルース』。この作品は、松田がウィリアム・フリードキン監督の『クルージング』を見て、劇中で流れる音楽に感動したことを発端に生まれた。松田から脚本の執筆を託された脚本家の丸山昇一は、当時のことを以下のように語っている。

優作は東映洋画からもらったサントラ盤のテープを僕に聴かせ、「丸山。このノリで頼む」。「映画を観てみますよ」と僕が言うと、「観なくていい。この音楽みたいな感じで書いてくれ」と。 (※注)

丸山曰く、『ヨコハマBJブルース』は、松田の「感じ」や「空気」「ニュアンス」といった曖昧なものを共有できるスタッフたちとともに作ったプライベートフィルムであり、楽しめるB級ピクチャーだった。製作者側が映画作りを特に楽しんでいた時代――それが80年代だったのではないだろうか。

●名プロデューサーが見た監督・伊丹十三のこだわり

岡田が手掛けた映画の1つに、製作費1億円に対して配給収入が12億円という記録的大ヒットとなった名作映画『お葬式』がある。監督は、伊丹十三。伊丹の撮影へのこだわりは凄まじかった。

伊丹さんは徳利やお猪口、数珠、白いロールスロイスにいたるまで細部に凝り、しばしばベテランの小道具係や衣裳やメイクアップ係が音を上げるほどでした。 (※注)

葬儀のディテールを丁寧に細密に撮ったことで、撮影終了時点でのOK尺数は3時間もあったという。岡田は編集でシーンを削ることを勧めたが、伊丹はどのシーンにも思い入れがあるため、なかなか尺を縮められない。編集の工程で、岡田と伊丹は随分衝突したようだ。

本書を読めば、80年代の日本映画を支えてきた作り手のこだわりと熱量に触れられる。当時の映画に興味がある人や、映画製作の裏側を知りたい人はぜひ手に取ってみてほしい。

※注)伊藤彰彦「なぜ80年代映画は私たちを熱狂させたのか」より引用

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タグ : レビュー・コラム

掲載: 2025年08月20日 17:44