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特集

M.O.S.A.D.



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どこで生まれ育ち、どんな環境にあろうと、人それぞれの持ち味が各々の方法で発揮されることにこそ、ヒップホップのおもしろさがある……とはいえ一昔前までは、その魅力を誰もが世間に発信できたわけではなかった。いわゆる〈業界〉は東京に存在するもので、地方との差はいま以上に歴然としていたからだ。96年7月、東京・日比谷野外音楽堂で行われたイヴェント〈さんピンCAMP〉は、ECDの旗振りによって当時の日本語ラップ界から精鋭が集まった、画期的な試みだった。YOU THE ROCK、BUDDAH BRAND、RHYMESTER、キングギドラ、LAMP EYE、MUROら——小さな一枚岩が大きく広がっていく瞬間、会場を埋め尽くしたヘッズたちにとって、ステージ上の面々はすでに説明不要なスターたちだったろう。が、そこにはまださほど知られていない顔もあった。名古屋から招かれたDJ HAZUと、マイクを握った17歳のTOKONA-Xだ。

いまでこそティーンのMCと聞いても驚きは薄いが、当時は異例のことだったに違いない。ちなみにその96年には、奇しくもTOKONAと同年生まれで、後に〈78年組〉と括られる先導者たちもそれぞれ興味深いアクションを起こしており、般若と名乗る東京の2MCが一部で話題となったのも、中学の頃からDS455で活動していた横浜のMACCHOがOZROSAURUSを結成したのも同年のことだ。が、そのMACCHOにしても〈さんピン〉を客席側から観ていたわけで、まだ若く、しかも地方のMCが大舞台に出番を与えられたことは、以降に起こる変動の前ぶれだったのかもしれない。

当日、オーディエンスの反応は芳しいものではなかったそうで、後にビデオ化された際にも彼らの出演部分は収録されていない。それでも、イヴェントの模様をレポートしたメディアのいくつかは、TOKONAの発した一声と共にそのインパクトの大きさを伝えていた——〈名古屋だがや!〉。



ナゴヤクイーンズ

そんな96年、TOKONA-Xが名古屋で結成したトリオこそMASTERS OF SKILLZ、後のM.O.S.A.D.である。メンバーはこれまた78年生まれの"E"qualとAKIRA。名古屋生まれの幼馴染み同士だった彼らは同じ中学に進み、AKIRAの実兄DJ OLEE LOUの影響もあってラップを始めている。そして、横浜で生まれ育ったTOKONAが愛知県の常滑市に引っ越してきたのも中学の頃。やがて彼らはヒップホップを媒介に交流を持つようになり、ブランド・ヌビアンをもじってBRAND NAGOYANなるグループを結成している。地元の常滑(トコナ・メ)とヌビアンのサダト・Xを引っ掛けてTOKONA-XというMCネームが生まれたのもこの頃のことだろう。彼らは、80年代からTWIGY(TwiGy)とBEATKICKSを組んでいたDJ HAZU(後の刃頭。OLEE LOUの師匠でもある)を中心にcipher maze(後にnobody knowsを結成するg-tonを輩出)らを擁する音韻王者というクルー/レーベルに参加。当時の名古屋では、DJ MOTOの統率するW.C.C.(PHOBIA OF THUG、AK-69らを輩出)がUS西海岸のヒップホップをいち早く啓蒙し、他方ではDJ MITSU(後にnobody knowsを結成)らも独自のパーティー・スタイルを模索し……というようなクラブ事情も後から知られていったことで、当時は現地にいない者が情報を得ることすら難しかった。なればこそ、TOKONAの東京への顔見世がいかに大きな出来事だったかも推し量れよう。

もともと〈さんピン〉ではBEATKICKSのコンビが登場予定だったものの、TWIGYのキャンセルを受けて刃頭が〈名古屋代表〉としてTOKONA-Xを抜擢したのだという。出演にあたってILLMARIACHIを名乗ったコンビは、96年に音韻王者から12インチ『荒療治/Tokonaizm』を発表。翌年には初の全国流通EP『Nagoya Queens』、そしてフル・アルバム『Tha Masta Blasta』をリリースしている。



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初期のILLMARIACHI



映画「エル・マリアッチ」から引いたグループ名の通り、〈尾張名古屋のマーリー・マール〉こと刃頭のビートは任侠映画などのサンプリングを凝らした劇画的な格好良さに溢れ、野太い名古屋弁で野放図にフロウするTOKONAの語り口も絶妙。それまでの日本語ラップ曲にはない独創性を獲得していた。なかでも“Nagoya Queens”は、MCシャン“The Bridge”というネタ選びも併せて〈東京ブロンクス〉への対抗姿勢を露にしたもの。もちろん、〈さんピン〉出演時の反応への悔しさも背景にあったのだろうが、対東京という構図を示すことで否応なく〈名古屋〉を業界の地図に描き込んだことは、新進の勢いと共に彼らの謎めいた新鮮さを明快に届ける助けとなったはずだ。リリックではPHOBIA OF THUGや"E"qualといった地元勢の存在も明かされ、その"E"qualが客演したオールド・スクールなパーティー・チューン“For Da Bad Boys & Ladies”ではMASTERS OF SKILLZの名もレップされている。注目をひと回り拡大することに成功したTOKONAは、仲間たちとの活動に力を注いでいくことになるのだった。



デカいセンセーション

仲間たちの溜まり場だったskillzというレコード店から名を取ったグループは、シングル“M.O.S.”を経てDJのFIXERを加え、2000年にM.O.S.A.D.へと発展。並行してSYGNALやENDLESS FILE(DJ RYOW & WATT)ら後進の若手と結成したクルー=BALLERSでは同名のレギュラー・パーティーも開始し、地元での支持を確固たるものにしていった。また、OZROSAURUS & MAGUMA MC'Sとの“YOUNG GUNZ”や餓鬼レンジャー“GETTIN' HI 5 MIC”という縁を活かした客演を通じて、M.O.S.A.D.の3本マイクも徐々に注目の的になる。そうやって大きく噂を広げつつも、自主レーベルのNOTORIOUSとして、MS RecordからM.O.S.A.D.のCDをようやく投下したのは2002年。すぐ回収された“The Players”も含めてシングル3枚を連発し、合間にはコンピ『HARLEM ver.1.0』に提供した熾烈なディス曲“EQUIS.EX.X”(D.O.I. feat. TOKONA-X名義)でも界隈を騒がせながら、12月にはファースト・アルバム『THE GREAT SENSATION』のリリースに漕ぎ着けたのだった。

この〈不良音楽〉史上指折りのクラシックにてM.O.S.A.D.が提示したのは、細かい技法を凝らしたリリック表現やスキルフルな語り口ではなく、気持ち良く発語する/されるためのノリに重きを置いた言葉とそれをシンプルに盛り上げるギラついたビートのコンビネーション。つまり、着流しで粋な漢ぶりを見せるILLMARIACHIでのTOKONA像とはチャンネルが違っていたのだ。それゆえに当時の日本語ラップ界隈における評価は必ずしも高くなかったが、技巧に走らない表現のギリギリな生々しさも含め、いま聴いてもピカレスク的な爽快感は半端じゃない。作中ではBALLERSからSYGNALやWATTを抜擢し、トラックメイクも主に"E"qualとDJ RYOWが担当。さらに、NOTORIOUSから同年CDデビューしていたPHOBIA OF THUGとB-Ninjah & AK-69も助太刀し、グループだけでなく名古屋〜東海シーンの猛者ぶりに圧倒される内容でもあった。向こう見ずな勢いでラフに迫るAKIRA、ざらついた存在感でパンキッシュに斬り込む"E"qualとのコントラストを得て、いなせなTOKONAのフロウも大らかな迫力とバリバリな余裕を湛えたものにパワーアップ。誰と絡んでも個性がまったくかぶらず誰もが一目置かざるを得ない、そんな最強のMCを周囲が放っておくはずはなかった。



新たな地元の熱へ

M.O.S.A.D.としてはPHOBIAらとヒップホップ/ハードコアの融合を謳ったPOUND名義でのコンピを発表し、MAGUMA MC'Sとの再会も印象的だった2003年、MUROやMr. BEATSといった大物とのコラボからDOUBLEやaileのようなR&B作品まで引っ張りだことなったTOKONAは、Def Jam Japanとソロ契約を結ぶ。日本語ラップ・ブームの記憶が鮮明だった時代背景もあり、後に自嘲めかして“Nexxxt Big Thing”で明かされたようなメジャー各社の争奪戦があったようだ。ただ、SYGNALを配した限定シングル“I Just Wanna...”はPOUNDで披露した“CHICAIN COCAINE”のリメイクだったし、Kalassy Nikoff(AK-69)のメロディアスな歌唱を従えた正式なメジャー・デビュー・シングル“Let me know ya...”ではPHOBIAのMr. OZにPV監督を委ねるなど、地元マナーのインディペンデントな舵取りに変化はなかった。



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bounce2004年3月号より、TOKONA-Xと"E"qual



そして、翌2004年初頭に満を持して発表されたのが問答無用の『トウカイXテイオー』だ。メジャー感全開なバックワイルド製のビートでDABOらとマイクを交わす“HOW We ROLL”から、ANTY the 紅乃壱やMASH、KEISHIら地元の若手をフックアップした“女子大ROCK”までヴァラエティー豊かな曲を取り揃え、最高に下世話なパーティー・バウンスで豪快に突進する“I'm in Charge”と、〈ファミリー〉と出会うまでの〈いらん話〉を吐露した極めてパーソナルな“Where's my hood at?”が隣り合い、主役の多様な人間味を伝えた唯一無二の傑作である。また、そこから間を置かずに"E"qualも『Get Big "The Ballers"』でソロ・デビュー。BALLERSの個々を前に出した作りは、総体での成功と固い結束を強くアピールするものだった。が、さらなる展開を期待されていた最中、11月22日——TOKONA-Xは急逝する(享年26歳)。

ただ、哀しみを受け止めながらも仲間たちの動きは速かった。映像に残る8月の〈MURDER THEY FALL 7〉でTOKONA自身が次なる展開を告げていた通り、翌2005年にはコンピ形式のクルー作品『SHOW MUST GO ON』が登場。その先行シングルとなったDJ RYOWの“WHO ARE U?”は、イントロから数秒で格の違いに身震いさせられるTOKONA一世一代の名演となった。一方、同年にソロでメジャー入りした"E"qualは、DIY的な行き方を貫いてDJ RYOWらとBALLERSを束ね、ローカルから血気盛んな若手が出てくる流れを整えていく。同様に地方での独立独歩を選んだMr.OZがBIGG MACを設立したのも同年の出来事だ。哀しみを原動力にした個々の動きが、現在にまで至る新たな名古屋の熱を生み出したということだろう。AK-69が〈地方馬がダービーを制す〉とボーストするマイクに、かの名馬の遺志が背負われているのは言うまでもない。そしてそんな思いは、M.O.S.A.D.の看板を守りながら我が道を行く"E"qualとAKIRAにしても同様なのだ。



▼関連盤を紹介。
左から、ブランド・ヌビアンの90年作『One For All』(Elektra)、クールG・ラップ&DJポロの92年作『Live And Let Die』、MCシャンの87年作『Down By Law』(共にCold Chillin')

 

▼TOKONA-Xの参加作を一部紹介。
左から、刃頭の2000年作『最狂音術大全集』(Pヴァイン)、2003年のコンピ『REDDA DAN RED HOTTA DAN HOT』(RED HOT)、MUROのベスト盤『BACK II BACK-MURO BEST ALBUM-』(cutting edge)、DOUBLEの2003年作『WONDERFUL』(フォーライフ)、Mr.BEATS a.k.a.DJ CELORYの2004年作『BEATS JAPAN』(FUTURE SHOCK)、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDの2004年作『STRAIGHT FROM THE UNDERGROUND』(コロムビア)、Kalassy Nikoffの2004年作『PAINT THE WORLD』(MS)、刃頭の2004年作『日本代表』(Pヴァイン)、ROWSHIの2011年作『AFFECTION & HATE』(HOOD SOUND/Village Again)、DJ RYOWのミックスCD『BEST OF TOKONA-X』(MS)

 

 

 

▼このたびリイシューされた、TOKONA-Xのアルバム未収録シングル“知らざあ言って聞かせやSHOW”(Def Jam Japan/MS)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2013年12月04日 18:01

更新: 2013年12月04日 18:01

ソース: bounce 361号(2013年11月25日発行)

文/出嶌孝次

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