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特集

小さな音楽/ジャズ - column 

掲載: 2013年11月19日 10:00

ソース: intoxicate vol.106(2013年10月10日発行号)

text:大石始



先日リリースされたコンピレーション『和ジャズ・プレイズ 民謡』を聴きながら、ふと考えた。60年代から70年代にかけて多くのジャズメンが取り組んだ〈民謡(俚謡)や古謡のジャズ化〉という試みが、なぜ一時代だけのものに終わってしまったのかということを。原信夫とシャープス&フラッツや中村八大モダン・ジャズ・トリオ、見砂直照と東京キューバン・ボーイズらが挑戦していたのは、“ソーラン節”や“八木節”“花笠踊り”といった〈日本のスタンダード〉を蘇らせ、アメリカの物真似に終わらない日本独自の音楽世界を築き上げようというものだった。その意味でいえば、彼らのスタンスは自身のルーツ音楽を盛り込みながらオリジナリティーを獲得しようとする、今日まで脈々と続く非西欧圏のジャズ・ミュージシャンの挑戦と何ら変わりはない。いわばジャズという〈大きな音楽〉に対してローカル・ミュージックという〈小さな音楽〉を対峙させ、その〈大小〉という構造そのものを切り崩そうという試み。

ヨーロッパではジャズ・ミュージシャンとエチオピア人ミュージシャンとの競演が盛んに繰り返されているし、中南米ではジャズ/非ジャズ(=ルーツ・ミュージック/フォルクローレ)の間に境界線を引くことすら困難だ。だが、ここ日本においては各地の音楽遺産――呪術的なミニマル感を伴う神楽の囃子、ダイナミックなグルーヴを持つ大漁節、不定形の揺らぎを内包する追分、バトゥカーダ的とも言える熱狂の祭り囃子など――が十分活用されているとは言いがたい。〈和〉という曖昧な記号がロマン主義的に表現されることはあっても、日本のフォルクローレが持つ構造的な魅力を掘り起こす試みはまだまだこれからだ。

この短い文章では、あまりにも説明しきれないことが多い。だが、日本のローカル(田舎)を肯定し、そこに揺るぎない逞しさや文化的魅力を見いだすことから始まるものだってある、僕はそう信じているというわけだ。



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