メセニー回路〜意外な世界音楽思考[北米]
昨年3月に、パット・メセニーはベン・ウィリアムズとジャマイア・ウィリアムズとのトリオで、インドネシアで毎年開かれている“ジャワ・ジャズ”に出演した。ぼくはそのフェスを見に行ったのだが、メセニーがハービー・ハンコックの電気傾向バンドやスティーヴィー・ワンダーのショウをにっこり客席側で見ていたことには驚いた。特にワンダーの方では嬉々として写真もパチパチ撮っていて(同祭は客の撮影を許容する)、もう真っすぐな音楽ファンの様がまるだし。でも、それこそが、この現代ジャズ界きってのスター奏者の素顔なのではないのか。インタヴューをすると快活にオトナな受け答えをする御仁であるが、その実、相当にメセニーはキラキラした子供の心を持ち続けている人であると思う
だから、興味ひかれる音楽家には、躊躇なく飛びつく。それは昔から、自由すぎるほどに。例えば、▶フリー・ジャズ/ハーモロディック・ファンクの創始者オーネット・コールマン(1985年『ソングX』。コールマンには相当愛着があるようで、それ以前にはチャーリー・ヘイデンやビリー・ヒギンズ、デューイ・レッドマンらコールマン・バンド在籍者を呼んでリーダー作を録音している)、▶現代/ミニマル音楽の巨匠であるスティーヴ・ライヒ(1987年『エレクトリック・カウンターポイント』)、▶フリー・インプロヴァイズの権化的ギタリストのデレク・ベイリー(1996年『ザ・サイン・オブ・フォー』)、▶先端NYクリエイターとしての自負とジューイッシュとしての矜持を秤にかける異才ジョン・ゾーン(2013年作『タップ』)、といったように。そして、そうした動きを見て行くと、その歩みは胸のすく“好奇心の歴史”であったとも書けるのではないか。
先に子供の心と書いたが、そんな部分が鮮やかに花開いたのが、2010年に大々的にアルバムやライヴでお披露目されたオーケストリオン表現だろう。その根底には、子供のころ見かけたヴィンテージな自動演奏装置に対する多大な憧れがあったようだが、彼は新たに酔狂極まりないからくり装置を作り上げ、開かれた場で実稼働させ、思うままギターを弾きまくる。その様はまさにドン・キホーテ。2012年暮れにはライヴDVD/CDも出しているが、彼は大掛かりなオーケストリオンを一過性のものとして終わらせるつもりはないようで、今年5月のユニティ・バンドでの来日公演でも、そのアップデイト版とも言えるものをステージ背後に置き、グループ演奏との併用を披露している。
ところで、そのオーケストリオン作やドラム以外の音をすべて自分で作ってしまっている最新作『タップ』で露になっているのが、サウンド・デザイナー/マルチ・プレイヤー的な姿だ。実はパット・メセニー・グループのアルバムでも大分前から彼のクレジットにはいろんな楽器が記されてきたが、その事実に触れると、メセニーは永遠のギター小僧であるとともに、曲の青写真をまず頭に描く、アンサンブル重視の人間なのではないかと思えてきたりもする。
そこにまずあるのはメロディや曲趣と一体化した楽曲全体に対する着想であり、それが活かされた総合サウンドの上で有機的に自分のギター音を泳がせたいという明快な気持ち。別な言い方をすれば、ソロで生ギターを爪弾くときでも、彼の奥では音群が渦巻き、それらと彼は渡り合っている。そう、メセニーはいつだって、彼だけに聞こえる広大なサウンドと対峙〜相乗してきた。それゆえに、彼のギター・ソロは当初からオルタナティヴな響きや間を埋めるような流動性を抱えていたし、もう一つの視点や快感を聞き手に与えた。彼が長年にわたって“特別銘柄”であり続けているのは、そんな〈メセニー回路〉があるからではないのか。オーネット・コールマンからジョン・ゾーンまで、 彼がこれまで見せてきた意外性ある手合わせも、彼らが背後に抱えた総体にメセニーが着目したからだと、今にしてぼくは感じている。
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