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特集

ひばりとジャズ、そしてシャープ──原信夫が見つめた「美空ひばり」(6)

昭和40年(1965年)
初めて英語で歌った『ひばりジャズを歌う〜ナット・キング・コールをしのんで』

東京オリンピックの翌年、原はまた雨森と膝をつき合わせ、趣きを異にした2種類のアルバム制作について話し合っていた。興行中の楽屋でひばりに伝えるとすぐに乗ってきて、ママも「お嬢がいいと言うなら」と承諾した。ひとつは昭和初年から太平洋戦争に至る期間の歌謡曲集。はやり唄が流行小唄と呼ばれだした頃に作曲されたもので、再びもてはやされるのをひばりの解釈で再編しようという趣向である。佐伯亮、甲斐靖文、山屋清、大西修に編曲を任せ、シャープの伴奏があれば再編効果もてきめん。哀切ある弦響も加え、抒情豊かに歌いあげてみせた。『この歌をひばりと共に』の円熟味は古くからの歌謡ファンを唸らせ、劇場のためのレパートリーもここから多数採用されることになった。

もうひとつは、原たちが4年前に共演をした稀代の黒人歌手ナット・キング・コールゆかりの曲集。彼は前年末に体の不調を訴え、検査を受けるとそれが悪性腫瘍と診断されて緊急入院した。しかし治療の甲斐もなくその年の2月、サンタモニカで亡くなったところだった。軽快な歌い口にしみじみとした哀愁を漂わせ、黒人特有の虐げられた悲しみを微笑みにかえる気丈さも持ち合わせた。それがどこかひばりの人生と相まってみえ、それで彼を偲び本格的にジャズを歌ってもらいたいと思ったわけである。雨森は「日本語だけでなく、次は英語でも歌わせたい」との意向を出した。ひばりの英語は評価が高く、専門にジャズを扱う歌手よりよっぽど正確であると伝えられてきた。ただ「聴衆に分かる詩句でなければせっかくの歌心も伝わらない」と日本語にこだわってきたひばりであるから、すんなりと「いいわ、歌うわよ」と返してきた時は逆に驚かされた。彼女もキング・コールの歌にぞっこん惚れ込んで、この企画を自ら望んで受け容れているふうだった。

ひばりにとっては、はじめて英語を主体とするジャズ作品。編曲はどちらもシャープの卒業生で、すでにその世界で認められた山屋清と大西修である。その大西から渋谷毅を経て、ピアノの席には菊地雅章が就いていた。彼は直前までシャンソン喫茶の銀巴里を拠点に、新しいスタイルのジャズに没頭していた(先頃、この銀巴里での未発表音源が半世紀ぶりにCD化された。『銀巴里セッション』[THINK! RECORDS THCD-219])。普通の歌手なら伴奏ピアノの良し悪しなど気づきもしないが、ひばりが「新しいピアノの子、なかなかいいわね」と言うのには原もさすがに感心した。菊地はジャズ界では次代を担う注目の新人で、そのとおり音楽には妥協がなかった。難があるとすれば演奏にのめり込むと唸り声を発しはじめ、これをマイクから外すのに苦労させられたことぐらいか。

ストリングスも加え、『ひばりジャズを歌う~ナット・キング・コールをしのんで』は録音された。外国人にひけをとらぬジャズ・シンガーはだしの名唱で、日本ジャズ界にも激震を走らせる会心作となった。なぜこれだけ歌えるのに歌謡曲しかやらぬのかと、多くのジャズ・フリークは首をひねった。ただ原も雨森ディレクターもその技量をとうに分かっていたし、彼女がそう易々と歌謡界から離れないこともよく知っていた。

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カテゴリ : BLACK OR WHITE

掲載: 2013年06月20日 18:24

ソース: intoxicate vol.104(2013年6月20日発行号)

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