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特集

粟津潔と山下洋輔

カテゴリ : Exotic Grammar

掲載: 2013年02月14日 16:00

ソース: intoxicate vol.101(2012年12月10日発行号)

text:北川フラム


粟津潔邸の裏山で山下洋輔の《ピアノ炎上》が行われたのは1973年で、これを山崎博が写真に撮り、粟津潔が映画に撮っている。私はこの出来事に立ち会うことができた筈なのに、それは果たせず映画で見るだけだった。残念。

粟津邸は原広司の設計による、谷間を降りていくように通路を挟んで居室が相称的に配置されている建築で、原広司自邸(1974年)に先立つ反射型住居である。建築工事中、出来てからと折にふれて伺った僕にとっては馴染み深い家で、今はすっかり風景が変わってしまった柿生の雑木林のなか、荒れていく雑然とした郊外のなかに、離立して建っている。高度経済成長で拡散する風景のなかの孤塁。粟津潔はこの自宅のアトリエのなかで、人間の肌触りのする独特な仕事をし続けた。

粟津潔は原広司の義弟である僕に様々なことを教えてくれたし、仕事もさせてくれた。何よりも凄いことは、最後まで蜘蛛の糸を垂らし続けていてくれたことだ。このことは一度書いたことなので具体的なことを繰り返さないが、糸を垂らし続けることは並大抵のことではない。糸にしがみつこうとする人間にとって、糸を垂らし続けてくれることは、自分が人間であることを辛うじて自覚できる最後の機会であり、人間社会からの究極の信号なのである。粟津さんが僕を信頼してくれたなどということでは決してない。人を信頼しなければならないという、とてつもない覚悟のようなものがどこかになければこんなことはできない。私は多くの人を裏切り続けてきたが、それでもなお、今、人間として生きていこうとしていけるのは、粟津潔が僕に垂らし続けてくれた糸が、今も見えるからだ。

粟津潔を通して多くのことを知ったが、それらは単なる記号・情報ではない。粟津潔がそれらにかけた体重の重さ、それを語る時の情熱によって記号は生理をもった生々しい存在として感じられてきた。

ガウディ
英泉
象形文字
アメリカインディアンの壁画

挙げていけばキリはない。対象が自分を包むようになるまでにならなければ、それは血肉にならない。

山下洋輔のジャズに出会ったのは明治大学和泉校舎だった。このことも既に書いたことであるが、僕にとっては、初めて、対象がこちらを動かすという経験だった。こんな演奏をどうして知らなかったのか。知ることが人生を変えるほどの体験であること、そういう表現があるという驚きは決定的だった。僕は氏のトリオを故郷の人たちに聴いて貰いたいと思った。それが今も続く裏方人生の始まりだった。演奏が人生を変えることができるのだ。音楽は耳で聴くだけのものではない。演奏家が、空間が蠢き、歪んでくる。

ここまで書いてきて、僕があの時、なぜ柿生に行かなかったか、何となく分かってくる。僕にとってお二人はあまりにも切実な存在だったからではなかったか。粟津潔邸での山下洋輔ピアノ演奏に手ブラで見学とはいかなかったのだと思う。それに拮抗する身体、受けとめる日常がなかったのだ。


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