坂本龍一(2)
カテゴリ : Exotic Grammar
掲載: 2011年08月12日 17:24
更新: 2011年08月18日 13:27
ソース: intoxicate vol.92 (2011年6月20日発行)
text:小沼純一(音楽・文芸批評家/早稲田大学教授)
坂本九の2つの持ち歌を何人もがリレーするCFは、声のほか、ピアノのひびきのみだった。弾いていたのは坂本龍一。映像としてはでてくるのはわずかだけれども、ピアノの音はずっとひびきつづける。
ピアノの音は、それまで楽音のなかったところに、楽器の、音楽の音をおく。しかし、すぐに、減衰し、消えてしまう。その消えてしまう音を、物理的にというよりは耳にするものの記憶のなかで、むしろ聴き手側の意識/無意識として、つなげてゆくことで、音楽となってゆく。ひとつひとつの音が生まれてはすぐにいなくなるものを、イマジネーションによりつないでゆく。それがピアノだ。
坂本龍一が『にほんのうた』というシリーズを【commmons】でつくっているのは周知のとおり。わたしは《上を向いて歩こう》と《見上げてごらん空の星を》でピアノにむかっている坂本龍一をみながら、ピアノを弾くこと、〈うた〉をつづけること、を考えていた。あたらしいものをつくりだしてゆく。他方で、これまでにあったもの、ともすれば忘れられ失われてしまうかもしれないものをもふりかえり、あらたな手で再生させること。音楽は、そう、音楽は、再生することで生きていかないし、しかし、再生させればいくらでも生きてゆくことはできるのだから。
そうした意味で、『にほんのうた』と『schola』は、坂本龍一の創作の側面と相補的なものとしてある。前者はこの列島が近代になって生みだし、メディアをとおして多くのひとに親しまれてきた、詞とメロディが容易には分離できなくなったものとしての、うた。後者は、現在の音楽が生まれる土壌となり、共有財産である音楽。過去に培ったもの、積みあげてきたものへのおもいは、さらに深めれば、ヒトという種にさえかぎられることなく、動物から自然環境、地球へのまなざしとなる。Free Petsという「ペットと呼ばれる動物たちの生命を考える会」、失われゆく木々、森林を喚起する「more trees」といったことどもは、坂本龍一のなかではひとつになっている。
坂本龍一が抱いていることどもを〈トータル〉にあらわすひとつかたちとして特に注目すべきは、『堂島リバービエンナーレ 2011』。
2009年に第1回を開催したのみだから、もしかすると知名度はそれほど高くないかもしれない。今年はその第2回目で、アーティスティック・ディレクターに青森県立美術館チーフ・キュレーター、飯田高誉を迎え、展示は「ECOSOPHIA(エコソフィア)」──エコの哲学を実践する惑星──となる。
お気づきとおもうが、このディレクターは東北の美術館でしごとをする人物である。〈3.11〉を正面から受けとめなくてはならなかった東北。だからこそ、アートと建築というテーマを掲げながら、「自然環境、社会環境、人間の心理の3方向から考察する場」となるという。
〈3方向〉はまた、展示のありようにもあらわれている。「地圏:楽園の象徴──都市、森、砂漠」「水圏:生命体の象徴──海、川、池」「気圏:天地創造と精神の象徴──大気、宇宙」のすべてにかかわるのは音楽。これらが3つに(とりあえず)分けられているにしても、それらをつらぬき、つつみこむのが音楽であることは、それが物質性を持たず、目にみえず、これらのあいだを満たし、ながれることによる。それは、ほかのアートや建築が複数の作家によっているのとは異なり、坂本龍一ひとりでおこなわれるところに、惑星をひとつとするところと重なるだろう。
アートは、杉本博司、森万里子、石井七歩を、建築は磯崎新、隈研吾、原口啓+三木慶悟を中心とする人たち。
これまで、〈エコ〉は、たしかに地球の将来を考えるうえで重要だと認識されてきた。その一方で、いま生活している日々とはいまひとつ密接感がなかったひとも多かろう。まだ先のことというふうに。だが、〈3.11〉以後、すくなからぬ変化がおきていないだろうか。もっと身近な、切実なことになっていないだろうか。地震が、津波が、原発の影響が、政治のありようが、対岸の火事ではなくなっているはずだ。そうしたなかにあって、このビエンナーレが何を、どう、問い掛け、解の方向を指し示してくれるのか、期待しないでいられない。