PAST AND PRESENT
バンドでもソロでも長く活動を続けているアーティストには、常に新しいサウンドを追求していくタイプと、ひとつのスタイルを深化させていくタイプがある。今年、デビュー20周年を迎えたオリジナル・ラブは、まさしく前者に当てはまるユニットだ。優れたメロディーメイカーであり、ヴォーカリストであり、プレイヤーである田島貴男。彼の描き出す世界観を音楽で体現してきたオリジナル・ラブの歴史を辿ってみようじゃないか。
ポップとアートの境界線をめざして
オリジナル・ラブは85年、田島が大学1年の時に結成したTHE RED CURTAINがスタートのきっかけだ。THE RED CURTAINは、サイケ・ポップ色のあるギター・バンドで、当時の東京のインディー・シーンで60sサウンドを80年代の解釈でプレイするバンド勢〈ネオGS〉の枠組でも捉えられていた。
「10代の頃は、エコー・アンド・ザ・バニーメン、キュアー、ジョイ・ディヴィジョンとか、パンク/ニューウェイヴをさんざん聴いてたんですけど、バート・バカラックやビートルズのように、大衆的なポップスとアーティスティックな音楽とが同居しているような音楽をやりたいと、20歳くらいの頃思うようになって。ただ、THE RED CURTAIN時代は、80年代までのニューウェイヴ・バンドの影響が自分の意識にも残ってて。もっと脱ジャンル、脱イメージ的に、明確に〈ポップとアートの境界の音楽〉をやりたいって思いからオリジナル・ラブに改名したんです」。
ヴォーカル/ギターの田島と、のちにTHE COLLECTORSに加入する小里誠、村山孝志、秋山幸宏というTHE RED CURTAINのメンバーそのままで、87年にオリジナル・ラブはスタート。当時のライヴでは、アコースティック・ギターを掻き鳴らしながらキレ味の良い変則的なビートの上で洗練されたメロディーを歌うという、他にはない刺激に満ちたサウンドを聴かせていた(当時の音源は、88年のアルバム『ORIGINAL LOVE』に未発表ライヴ音源を加えた編集盤『RED CURTAIN (Original Love early days)』で聴くことができる)。時を同じくして、田島はバンド活動と並行してピチカート・ファイヴに加入。『Bellissima!』『女王陛下のピチカート・ファイヴ』、リミックス・アルバム『月面軟着陸』で、その足跡を残している。「60~70年代の音楽に、当時はまだそれほど詳しいわけではなかったんです。小西(康陽)さん、高浪(慶太郎)さんは、そうした音楽の百科事典みたいな人たち。3人で音楽の作り方をあれこれ模倣し学んでいた学校のような場所でした」と振り返るピチカート・ファイヴでの活動は、彼の音楽の幅をさらに広げる場でもあったのだ。
90年になると、田島はオリジナル・ラブの活動に専念するためピチカートを離れる。その頃からバンドは、ソウルやファンクなどブラック・ミュージックのテイストが強くなっていく。村山を除く初期のメンバーが脱退し、木原龍太郎、宮田繁男、森宣之、そしてサポートの井上富雄という新体制となってサウンドもメンバーも大きく変化したオリジナル・ラブは、91年、2枚組のアルバム『LOVE! LOVE! & LOVE!』でついにメジャー・シーンへ登場し、ブルー・アイド・ソウル的な躍動感溢れるサウンドで大きな話題をさらったのだ。
「メンバーが変わって、以前とは別バンドになったな、ひとりになっちゃったなって感覚はありましたね。新しくキーボードが入ったアレンジを考えてた時期でもあるし。ただ、当時から5、6枚分ぐらいのアルバムのアイデアはすでにありました」。
さまざまな音楽を昇華し変化し続ける〈オリジナル・ラブらしさ〉は、デビュー当時から持ち合わせていたものだった。
「音は違うけど、その根っこには、やっぱりパンク/ニューウェイヴの影響がありますね。クラッシュにしろP.I.L.にしろ、アルバムごとにチャレンジして音が変わっていった。それが創造的なアーティストの真の姿だと思ったし、普通だと思ってたんですよ」。
時代に迎えられたオリジナル・ラブ
そのときどきの音楽のトレンドをミックスしていくのも絶妙だった。デビュー当時は、ジャズやソウルをクラブ・ミュージックとミックスさせた、UK発信のアシッド・ジャズが旋風を巻き起こしていた時代。92年発表の『結晶 SOUL LIBERATION』は、そうしたジャズのグルーヴ感とポップさが見事に融合した作品となった。
「アシッド・ジャズは聴いてましたね。U.F.O.のメンバーとかDJの人たちとの関わりも多くなったし。〈結晶〉は、そのときのムードが出てますね」。
洒落ていながら高い音楽性を持つオリジナル・ラブには、コアな音楽リスナーだけでなく、より広い層まで巻き込むほどの勢いがあった。93年にミディアム・チューン“接吻”が大ヒットし、その人気は決定的なものとなったのだ。
「快感でしたね(笑)。〈オレなんかがヒットしていいの?〉って(笑)。ただ、目標としてた〈ポップとアートの境界にある音楽〉は作ってたし、決して低いクォリティーの音楽はやってなかった。それが一般に広がったのが嬉しかったなって」。
その頃から、オリジナル・ラブやピチカート・ファイヴ、小山田圭吾のコーネリアス、小沢健二といったアーティストが〈渋谷系〉と呼ばれるようになる。渋谷系というと、ネオアコ的なギター・バンドをイメージする人も多いが、当時はジャズ・グルーヴ勢、ヒップホップ勢なども含め、オーヴァーグラウンドの概念をひっくり返す音楽を作っていたアーティストを指していたキーワードだった。さらに言えば、音楽だけなく、デザインやファッションなどカルチャー全般に影響を与えた、90年代に起きたひとつのムーヴメントの総称なのだ。
「当時の日本のメジャー音楽は、大人が故意に作った〈作り物〉みたいな歌謡曲やロックにまだ支配されていて、それを変えることができたのが嬉しかった。オッサンたちに指示されて作った音楽じゃない、自分らの感性で良いと思ったものを作って、それで大きな波が起きたなって感じはありますね」。
オリジナル・ラブは本誌の表紙を飾った
初の邦楽アーティスト(94年7月号)
続いていく音楽探究の〈ひとり〉旅
話をオリジナル・ラブに戻そう。ニューオーリンズのセカンドラインなどアメリカ南部のリズムを採り入れたアルバム『風の歌を聴け』『RAINBOW RACE』を発表したあと、デビュー時からのメンバーが脱退し、オリジナル・ラブは田島のソロ・ユニットになる。サウンドは、彼個人が興味を抱く音楽がよりリアルに反映されていくこととなった。96年の『Desire』のときには「ギリシャやインド、トルコの音楽、ジプシー・ミュージックにハマってた」という。
「古いイスラム圏やヨーロッパの音楽って、音階も違うしビートの拍も違うしすごくおもしろくて。『Desire』の頃はよく聴いてました。僕のなかでは、ストーンズの『Beggars Banquet』とかビートルズの〈サージェント・ペパーズ〉のアラビア版って解釈でしたね。ビートルズはインドの楽器でやったけど、僕は中東の楽器でやる、みたいな(笑)」。
その後も彼の音楽探究は続き、2000年の『ビッグクランチ』では、オルタナティヴ・ロックへの傾倒が爆発する。
「〈ルーツミュージックの探求〉から〈現在の潮流の変化〉へ視点を変えました。ベックやジョン・スペンサーとかのオルタナティヴ・ロック、DJとバンドが融合したミクスチャー・ロックとか、90年代以降のアメリカのロックを聴きましたし。曲作りの取っ掛かりが、自分のギターからじゃなくサンプリングのフレーズから作ったりもしました。サンプラーが楽器としていちばんクールだった時代ですね。それで曲を作るのがおもしろかったし」。
2001年には、同世代のバンド、東京スカパラダイスオーケストラのシングル“めくれたオレンジ”のフィーチャリング・ヴォーカルを務めるというトピックもあった。そしてその年に発表されたアルバム『ムーンストーン』から、彼はまた新たな方向性──「それまでの情報量を詰める音楽」から「真逆の、音を削ぎ落として自分の原曲のまま作っていく」スタイルへとチェンジ。それと同時に彼のなかで、〈歌詞の追求〉というテーマにスポットが当たる。
「『ムーンストーン』の頃から、美空ひばりや昔の演歌をよく聴くようになったんです。昔の歌詞っていまよりも全然エロかったり、その道の作詞家が作っていたので表現が高度なんです。歌詞のおもしろさに改めて気付いた時期ですね。それ以前よりも歌詞に時間をかけるようになりました」。
〈歌詞の追求〉は、60年代の洋楽のカヴァーをみずからの訳詞で歌った2006年の『キングスロード』でさらに深まった。
「いろんなカヴァーの方法があるけど、僕は原曲の良さを活かしつつ日本語に訳すやり方をしたかった。そして元の歌詞の良さに驚かされたんですよ。“Ruby Tuesday”はメロディーがいいと思ってたけど、これは英語がわかる人なら歌詞で聴いてる曲だなって思いましたね。ミック・ジャガーはワイルドを装ってますけど、実は文学青年なんですよね。“Ruby Tuesday”の歌詞は、失恋して〈君が変わってしまっても好きだよ〉っていう男の敗北を認める歌なのだけど、実は失恋しながらなお女の子を立てている、とても男らしい失恋の歌なんですよね。そういう歌詞ってなかなか書けないんですよ。『キングスロード』で得た経験は、次のアルバム『東京飛行』(2006年)に反映されていると思います」。
その後も、田島はオリジナル・ラブとしてライヴを続けながら、2009年にはEvery Little Thingの持田香織とのユニット=Caocaoでフィンガー5の“個人授業”(映画「おっぱいバレー」の主題歌)をデュエットするなど、精力的に活動を続ける。
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