イエジー・スコリモフスキ(3)
カテゴリ : Exotic Grammar
掲載: 2011年07月26日 21:56
更新: 2011年07月26日 22:31
ソース: intoxicate vol.92 (2011年6月20日発行)
text:北小路隆志
スコリモフスキ作品の多くに動物が登場するが、とりわけ『エッセンシャル~』でのそれは重要である(ポーランド映画史上、最も動物にお金を使った映画である、と来日時の映画作家は冗談めかして語った)。動物たちは時に主人公を追いつめ(軍犬など)、また時に彼を救う(彼を護送中の車の前に出現し、転倒させてしまう猪らしき動物など)。そして、そうした様々な動物との出会いを通し、ムハンマド自身がやがて動物となる。再びドゥルーズに耳を傾けよう。「ベーコンの絵画が構成するのは、人と動物との間の、識別不可能な地帯、確定不可能な地帯である。人が動物と成る。しかしそれには動物が同時に精神、それも人の精神、……身体的精神となることが必要である。それは決して諸形態の組み合わせではない。それはむしろ共通の事実である。すなわち人と動物との共通の行為である」(邦訳でフランス語の“Fait”は「行為」や「事実」と訳し分けられ、いずれも「こと」とルビが振られる)。テロリストを動物扱いする米軍の人権蹂躙を非難したいわけではなく、また環境保護の観点から(?)テロリストの動物化に共感せよ、というわけでもない。この映画が捉えるのは、人と動物との識別が不可能となる地帯であり、両者間の「根底での同一性」である。動物への憐れみではなく、人と動物の識別不可能地帯である獣肉(=人肉)への憐れみ……。ムハンマドの身体は、確かに傷つき、疲労感に苛まれるが、そこで生じる「叫び」を「みえない力の身体への働きかけ」として捉えねばならない。そしてドゥルーズによれば、絵画(視覚芸術)や音楽(聴覚芸術)――僕らはそこに映画(聴視覚芸術)を付け加える誘惑に駆られるが──など芸術全般にあって「問題は形態を再生したり、工夫したりすることではなく、力をうまく捉えることである」。
ベーコンとスコリモフスキは、「みえない力の身体への働きかけ」を捉えるべく「叫び」を描く点で共振を果たすのだ。『エッセンシャル~』のムハンマドは果てしなく広がるかのようで、むしろ徹底して彼を閉じ込めてもいる森林を彷徨うが、その彷徨は人と動物の識別不可能地帯の開拓でもある。「すなわち世界は私の上で自らを閉じ、かくしてこの私自身をまさに捉える。他方私は世界に向かって自らを開き、かくてこの世界そのものをまさに開く」。こうして、「人」と「動物」のみならず、「世界」と「私」の区別さえもが融解し識別不可能となった地帯が『エッセンシャル~』において開かれる。もはやムハンマドの生死どころか彼の形体=人体さえ問題にはならない。彼は雪に覆われた白い世界に消失する。ここでも「希望が全然なくても楽観的になれるものです。人間の本性はまったくもって悲観的ですが、神経組織は楽観的な素材からできているのです」なる画家自身の言葉を踏まえたベーコンの表現方法へのドゥルーズの巧みな言及が想起される。「それは象形的には悲観的だが、形体的には楽観的である」。そう、『エッセンシャル~』は、そこでの物語 (象形的なものや主人公の命運がいかに「悲観的」に僕らの目に映ろうとも、優れて「楽観的」な方法や思考に基づく映画であり、僕らを楽天的な興奮へと導くアクション映画(行為-映画)の純粋形態なのだ。
イエジー・スコリモフスキ
(Jerzy Skolimowski)
映画監督・俳優。1938年5月5日ポーランド、ウッチ生まれ。大学では民俗学、歴史、文学を専攻し、ボクシングにも興じる。一方、ジャズにも魅せられ、クシシュトフ・コメダと知り合い、彼の紹介で俳優ズビグニェフ・ツィブルスキと出会い、更にアンジェイ・ムンク、ロマン・ポランスキーとも出会う。ポランスキーのデビュー作『水の中のナイフ』で台詞を執筆。20本ほど監督作品を撮るが、『30ドア鍵(91)』以降、監督業からしばらく遠ざかっていたが、「アンナと過ごした4日間」で17年ぶりに監督復帰。『エッセンシャル・キリング』では、ヴェネチア映画祭でも絶賛され二冠に輝き、続くマル・デル・プラタ映画祭でも三冠となるなど、数々の栄誉に輝いた。
映画『エッセンシャル・キリング』
監督・脚本・製作:イエジー・スコリモフスキ
音楽:パヴェウ・ミキーティン
出演:ヴィンセント・ギャロ/エマニュエル・セニエ/ザク・コーエン/イフタック・オフィア/他
配給:紀伊國屋書店、マーメイドフィルム(2010年 ポーランド、ノルウェー、アイルランド、ハンガリー)
http://www.eiganokuni.com/EK
◎7月下旬、渋谷シアター・イメージフォーラムにて公開後、全国順次公開
寄稿者プロフィール
北小路隆志(きたこうじ・たかし)
映画批評家。京都造形芸術大学映画学科准教授。東京近代美術館フィルムセンター客員研究員。主な著書に「王家衛的恋愛」、共著に「映画の政治学」、「ゼロ年代+の映画」など。朝日新聞や装苑などで映画評を連載。今回も書いたが、映画における人間=動物のアクション(行為)という主題に今は関心あり。
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