イエジー・スコリモフスキ(2)
カテゴリ : Exotic Grammar
掲載: 2011年07月26日 21:56
更新: 2011年07月26日 22:31
ソース: intoxicate vol.92 (2011年6月20日発行)
text:北小路隆志
アイルランド生まれの画家フランシス・ベーコンとスコリモフスキの接点として、亡命状態にあった映画作家がイギリスで製作した『ザ・シャウト』(1978年)があげられる。ジョン・ハート演じる同作の主人公は音楽家だが、専ら様々なノイズをマイクで拾い加工するなど実験音楽(?)の製作に没頭しており、彼のスタジオに何枚かベーコンによる絵画の縮小コピーが貼られているのだ。もちろん「叫び」を描く画家としてベーコンが召喚されたと考えるのが順当だろう。比較的通常の劇映画に近い台詞のやり取りが聞かれるとはいえ、映画史上、最も早い段階でドルビー・システムを導入したサウンド面での意欲作である『ザ・シャウト』は、ある人物によって発せられる破壊的な「叫び」についての映画であり、近年の映画作家の仕事を予告するものであったといえる。言葉や意味に収斂されることのない「叫び」は、台詞や言葉以上にサウンドであり、後で触れるように人間と動物の境界を破壊するものでもある。『エッセンシャル~』でのムハンマドの声は「叫び」の次元において動物の声と対等となり、サウンド面でのスコリモフキの関心は、今やそうした「叫び」にのみ注がれるだろう。
「叫び」とは何か? 周知のようにベーコンは、写実的、説明的、物語的要素の徹底した駆逐こそが現代絵画の条件である……との認識を繰り返し主張した。ベーコンの絵画における「叫び」について、戦争や革命、暴力の世紀である20世紀の残酷やそこに生きる現代人の不安を描くものと説明することほど(いかにそれが便利であっても)画家の企てを裏切るものもない。ジル・ドゥルーズはスリリングなベーコン論『感覚の論理』でこう指摘している。「かくて残酷は何か恐ろしいものの描写と結びつけられることはますます少なくなり、単に身体への様々な力の作用、あるいは感覚(センセーショナルなものの対蹠物)の作用となるであろう。諸器官の各末端を描いている悲惨趣味の絵画とは違ってベーコンは、器官なき身体、身体の徹底した行為を絶えず描く」(山縣熙訳、以下同)。ベーコンの絵画における「叫び」(「残酷」)は、現代社会の悲惨や不安といった「恐ろしいもの」や「センセーショナルなもの」の描写とほとんど関係を持たない。そうした「悲惨趣味の絵画」の類いと袂を分ち、ベーコンの絵画は「単に身体への様々な力の作用」を捉える局面として「叫び」を描く。だからここで叫びをあげる人間=形体の口はテロリストが身を潜める洞窟のごとく空虚であり、「身体全体がそこから逃れ出る穴であり、人肉がそこから生まれ下りる穴となる」。
テロ組織の一員であるムハンマドは、なるほど米兵を殺害したかどで米軍に捕獲され、動物のごとき扱いで拷問を受ける。またそこからの脱出に成功した後も、追手を恐れての逃走劇が寒々しい森林地帯において展開される。ただし(『ランボー』紛いの!)センセーショナルな設定それ自体にスコリモフスキの関心はない、その証拠に(?)ムハンマドの逃走劇において次第に米兵=敵の存在感が薄まり、彼自身の身体からの逃走、言い換えれば、人間としての形態からの脱皮の末に「人肉」が生まれ落ちるまでの軌跡が描かれるだろう。米兵による監禁や追走は主人公を「身体の徹底した行為」に凝縮させるための前提でしかない。ただ生きること、食べること、飲むこと、彷徨すること、寒さに震えること、痛みに身をねじること、息を吐くこと……。スコリモフスキはムハンマド役のヴィンセント・ギャロを「動物の強さを表現できる俳優」と称えるが、「叫び」は人間に固有の行為ではなく、人間と動物の境界の不分明さにおいて発せられる。先の引用でドゥルーズの書く「人肉」とは「獣肉」と同一の次元にあり、「肉」である点において人間と動物は対等である。
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