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特集

イエジー・スコリモフスキ

カテゴリ : Exotic Grammar

掲載: 2011年07月26日 21:56

更新: 2011年07月26日 22:31

ソース: intoxicate vol.92 (2011年6月20日発行)

text:北小路隆志

「叫び」を描くスコリモフスキとフランシス・ベーコンの接点

17年にも及ぶ長い沈黙を破り、祖国ポーランドを拠点に映画製作を再開させてから矢継ぎ早に発表されたイエジー・スコリモフスキの近作2本は、〈ポスト・ヌーヴェルヴァーグ世代〉の代表格としてかつて脚光を浴びた映画作家の満を持しての復活や成熟といった印象を越えて、紛れもない現代映画の不意を突いた出現を思わせ、とりわけ若い観客の間では実質的に新たな映画作家の衝撃的デヴューと受けとめられたはずだ。『アンナと過ごした4日間』(2008年、以下『アンナ~』)と最新作『エッセンシャル・キリング』(2010年、以下『エッセンシャル~』)に接して誰もが気づく大きな特徴は、台詞を最小限度に抑えたスタイルの採用であり、若き日のスコリモフスキが1960年代半ば以降に発表した初期作品での饒舌な台詞のやり取りを知る者にとって両作品群は驚くべき対照を成す。『アンナ~』の主人公レオンは、密かに愛する女性の部屋への夜の潜入劇をひたすら寡黙に繰り返す。そして『エッセンシャル~』の主人公ムハンマドはといえば、アフガニスタンに潜伏するイスラム原理主義系テロ組織の活動家であると示唆されるだけで、いったんは米軍側に捕獲された後にたまたま逃亡に成功、その後も台詞をほとんど排した逃亡劇が描かれるばかりで、彼の口から明確な意味を帯びた言葉が漏れ出る瞬間は終幕までついに訪れることがない。

映画『エッセンシャル・キリング』

こうした言葉への禁欲を貫く映画作家のアプローチは、言葉の助けを安易に借りずに視覚的な手段ですべてを物語る技量への映画作家の自負の表れである一方、映画における台詞以外の聴覚的領域の傾聴へと僕らを誘うことになる。要するに、近年のスコリモフスキ作品は台詞のやり取りを必要とせず、だからこそ僕らは彼の映画で響くサウンドに耳をそばだてるよう要請される。『アンナ~』ではレオンの足音や小さな町に響き渡る教会の鐘の音、パトカーのサイレン音、炎の燃え上がる音など、冒頭から聞こえるサウンドの連なりが僕らに緊張感を与え、そうした(視覚面とも密接に結びつく)聴覚面での大胆かつ繊細な企てが、近年の彼の映画の現代性を際立たせる。さらに言葉への禁欲を押し進めた『エッセンシャル~』においてもサウンド面での充実は驚きに値する。前作『アンナ~』で悲喜劇的な交響楽と主人公の密かな夜の冒険に終止を打ったヘリコプターの轟音と光を継承するかのように、冒頭から荒涼とした大地を見下ろしつつ響くヘリコプターのプロペラ音、同機での無線通信や地上での米兵の緊張感を欠いた会話、そしてそれらの饒舌を遮断すべく(?)発せられるムハンマドによるロケット弾の炸裂、目隠しをされて連行された主人公を取り巻く収容所の異様な喧騒や米兵の怒声、逃亡した彼を追いつめる軍犬たちの唸り声……。そう、この映画では、饒舌が破壊され沈黙が選びとられる。だけどそれは、別種のサウンドを画面上に響き渡らせるためでもある。

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