ホットハウス──ポスト″クラブ″としてのダンスパーティーの再生(2)
カテゴリ : Exotic Grammar
掲載: 2011年06月30日 17:00
更新: 2011年06月30日 21:10
ソース: intoxicate vol.92 (2011年6月20日発行)
text:湯山玲子
菊地成孔はポストクラブ時代、いわゆる、クラブという音質と音圧の、そして、踊る肉体を持って参加する〈視聴体験〉を経た時代に、ジャズが何ができるか、ということを考え抜いた上で、ふたつの大きな実地回答を出している。
そのひとつが、70年代のマイルス・デイビスの身体的な熱狂と蘇りを、生の演奏でしかなし得ないアフリカのポリリズムを取り入れることによって実現させた「デートコース・ペンタゴン・ロイヤルガーデン」。もうひとつは、クラブのシステムを逆説的に捉え、今では身体をコンサートホールの座席に拘束し、踊ることをエステティックなマナーで禁じ、故に観客の心が、トランスの忘我とは質が違う、陶酔の極地に陥らせる「ぺぺ・トルメント・アスカラール」だ。また、彼はこのクラブの身体性を意識した二つのユニットの〈押さえ〉をした上で、彼はサックスを吹くプレイヤーとして、ベーシックな演奏ジャズバンドとしてのセクステッド・コンボ「ダブセクステッド」をメンバーの一人に、パードン木村というダブマスターを入れた上で実現してもいる(この存在によって、大学ジャズ研出身者による好事家領域になっていたジャズが、いかに時代性を伴った〈生きた〉音楽になったかは、バンドの動員を見れば明らかなのだ)。
私は、2007年に出した、クラブ/DJカルチャーについての文化論考集「クラブカルチャー!」の中で、菊地にインタヴューを試みているが、そのときびっくりしたのが、彼自身が、めちゃくちゃ〈踊り体験が豊かな人〉だったということだ。地元の千葉は銚子のディスコに始まり、週末は東京に出てきて、赤坂の「MUGEN」に足を伸ばし、全盛期の「ニューヨーク・ニューヨーク」に「ツバキハウス」、最も激しく踊ったのが、1991年、ワシントンDC発のゴーゴーというジャンルの代表格、チャック・ブラウンとソウルサーチャースのライヴだったそう。ということは、菊地は、ダンスという快楽に奉仕するための機能音楽の身体的快感も、踊るという行為の身体性もその遊び体験から、十分知っていることになる。デートコースもぺぺも、その、ディスコ〜クラブへと続く、ジャズと踊る主体の身体性の実感無くしては、つくり得なかった表現である。
©Philip Ameil
「HOTHOUSE」ではアモーレ&ルル両氏によるステップレッスンもある
さて、「ホットハウス」は、デートコースとぺぺに続く、ポストクラブ時代のダンス回答であることは間違いがない。彼は自らこの企てに対し、以下のようなコンセプトを上げている。
曰く「DJカルチャーでも所謂クラブジャズ・カルチャーでもなく(パーティーのレジデントDJとして菊地成孔本人とNadjaが配され、今回は世界的な支持を集めるジャズDJ沖野修也がゲストDJとして参加するが)、菊地の呼びかけで集まった東京ジャズシーンの一線級メインストリーマー達が、あくまでダンス・ミュージックとしてビバップを演奏する。という点と、楽曲のBPMに沿って、ニューヨーク式のカップルダンサー(リンディ・ホッパー)と、ロンドン式のソロダンサー、更にはラテンのダンサーが同一のフロアで一堂に会し、バトルにも似たせめぎ合いを見せる。というバリアフリーぶりがパーティーの要」であると。
彼は確信的に、当時はダンス消費音楽に対抗したはずの、「踊れないジャズ」であるピバップを、それも選りすぐりのプレイヤーのガチの演奏にて、今回の「ホットハウス」の音楽に据えた。大丈夫か? このあたりは、彼のカンどころでもあるが、現実は、非常にスリリングで活気のある現場になった。これが、かつてのスタイルに乗っ取ったスィング系だったとしたら、その適性マッチングがあまりにもレトロに安定的で、あのフロアの爆発は見られなかっただろう。何せ、クラブを通して、私たちは繰り出される音のインプロとセッション対峙することになれてしまってもいるからだ。