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We have a dream today.(3)

カテゴリ : Exotic Grammar

掲載: 2011年06月16日 19:25

更新: 2011年06月17日 12:18

ソース: intoxicate vol.91 (2011年4月20日発行)

text:小沼純一(音楽・文芸批評家/早稲田大学教授)

たとえば、何らかの集団、共同体のなかで伝えられてきた音楽。

世界音楽と呼ばれ、民族/民俗音楽と呼ばれるような音楽は。

日常があり、ハレとケがある。季節のうつりがあり、誕生と死がある。儀式がある。善なる霊を寿ぎ、悪なる霊を祓う。

特定の誰かがつくったかもしれないが、多くひとのあいだで伝わることで、アノニマスになった音楽。
経済的価値の交換としてではなく、素朴にみえながら、ヒトの知が、血がながれこんでいる音楽。
もしかすると、多くの災害に遭遇し、伝えるひとが少なくなってしまったかもしれないなかから、しかしふたたび息をふきかえすようなものもあったかもしれない。誰かのなかにのこっている、記憶されているものが、ふと、また大気中に発され、空気を振動させ、ほかの誰かの耳にとどく。そうした連鎖のなかで、少しずつ少しずつ広まってゆく。

そんな音楽のことを、あらためて想いおこす。想像してみる。そして、いま、こうしたものが身近に伝わっているかどうかをも。たとえ、自らのものではなくとも、ほかの共同体のものであっても、共有=分有できるものがあるのか、どうか。

異なった〈文化〉圏の音楽で、かならずしもその〈良さ〉は正確には〈わかって〉いないかもしれない。それでもおなじ〈種〉としてのヒトが、細胞の奥底で共振できるような。

しばらくすれば、ふたたび、コンサートに足をむけることにもなるだろう。自らがかかわっているならなおのこと、避けるわけにはいかない。いまだ床に散乱しているCDを棚に戻し、あぁ、そういえばこういうものもあった、随分聴いていなかったと、あらためて聴きなおすこともあるだろう。お店に行ったり、ネットショップで購入することもごくあたりまえにあるだろう。うんざりだ、と想像するだけで遠ざけたい音楽がふつうに日常に戻って来ることもあるはずだ。そのうえで、すべての音楽が〈これまでどおり〉になるかといえば、そうではないような気がする──あくまで〈気がする〉でしかないけれども。

音楽は生の側にある。生から、べつのところへと送りだすときに音楽が必要とされることはあるかもしれないけれど、それを必要とするのは、生の側に残るものたちだ。

ふと、想いだす、1月に身近で発されるのをきいた吉田秀和氏のことば──

「で、昔のことは今のことですね、やっぱり。そうやってるかぎりにおいて、あれは昔だなぁということは、片っ方では思うけども、でも、今、思いだしてみると、その思いだしかたで、新しく見えてくるというかな。その輪が、今やってても、やっぱり今の形、今のものとして広がってくる。/結局ね、それは変な言い方だけども、僕、未来はわかんないんだけど、過去と現在は同じもんだね。うん……未来はわかんない。未来も過去と同じだとは、ちょっとまだ……」(集英社刊『kotoba』2011年春号に掲載、但しここでは語り口はそのままで)

被災などしていない。自らは揺れを体験した程度にすぎない。阪神淡路の震災があり、ハイチがあり、ニュージーランドがあったにもかかわらず、遠いところでおこっていて、自らの想像力が充分に届いていなかったこと、今回の地震とともに、あらためて二重にも三重にもなってかえってくるものがある。

聴きはしなかったけれど、武満徹のいくつかのオーケストラ作品、モートン・フェルドマンのいくつかの作品、ジョン・ケージ晩年の「ナンバー・ピース」を、わたしは、あたまのなかでならすことがあった。あとは、スティーナ・ノルデンスタム、か。それにしても、どうしてこうした音楽たち、なのだろう? 
そろそろこの原稿を書き終わる。このファイルを閉じたら、スティーナ・ノルデンスタム《The World Is Saved》を聴く。音楽、を、自発的に。

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