刀根康尚── 『万葉集』を全部音にしてしまった作曲家(3)
カテゴリ : Exotic Grammar
掲載: 2011年06月09日 17:00
更新: 2011年06月10日 18:10
ソース: intoxicate vol.91 (2011年4月20日発行)
text:片山杜秀
『ムジカ・シミュラクラ』の作曲プロセスを思い出してください。『万葉集』に基づくかなりシステマティックな仕方ですよ。フリーやアナーキーの遥か彼方。恣意性はかなり排除される。とっても厳格で有意味。無意識の身体的ルーティーンや思いつくまま気の向くままの展開とは何の関係もない。でもプロセスのパラダイムのシフトの仕方が超越的というか神的です。いっちゃってる。漢字が写真になる。そこまではいい。しかし写真が音になる。確かにその置換はこれまたカッチリとシステマティックに行われているらしい。とはいえ結果として生じた電子音から元の漢字や写真を想像することは不可能と言っていい。完全にナンセンスでフリーでアナーキーなノイズにしか聴こえない。ああ、それなのに作品の能書きを一度でも教えられれば聴き手の想像力はノイズの海に『万葉集』を発見したくなるのです。なぜなら人間はどんな無意味にも意味を探す生き物だからです。探しても見つからなかったら投げてしまいますが『ムジカ・シミュラクラ』は『万葉集』に意味づけられ徹底的に依拠しているんだという能書きと不可分に供される。しかも『万葉集』は歌としては意味があるけれど漢字の用法についてはアナーキーだ。『ムジカ・シミュラクラ』は『万葉集』によって厳正に基礎づけられているけれど『万葉集』が一面アナーキーなのだからアナーキーのシミュラクラはこれまたアナーキーなんじゃないか? 豊かな意味連鎖に支えられた無意味というおかしな世界が広がる。能書きがなければただただ無意味にしか聴こえず大方の聴き手の忍耐をすぐに超えるだろう長大なノイズは『万葉集』という不可視・不可聴の秩序をどうしても発見し幻視し幻聴したくなる我々の心理によって、何か意味が見出だせるのではないかとずうっと聴いていたくなるものに変身する。けれどやっぱりそこで聴かされるのは決して『万葉集』ではなくてアナーキーなノイズとしてしか知覚されないわけの分からないものなのですよ。ベンサムのパノプティコンも裸足で逃げ出すとんでもない発明なのではないでしょうか?
純粋にアナーキーな世界は人間にとって永遠に見果てぬ夢かもしれません。いくら憧れても実際には耐えられはしない。しかし、純粋ではないけれどほとんどといってよいくらいアナーキーでしかも耐えられる世界は『万葉集』を撒き餌にした刀根さんの作品によって実現されている。奇跡の芸術と呼んでも過言ではない。映画『砂の器』の今西刑事の台詞に倣えばこうなります。「刀根は『万葉集』、『万葉集』の中でしかアナーキーに出会えないんだ!」
刀根康尚 (とね・やすなお)
1935年生まれ。千葉大学(日本文学専攻)卒業後、60年に、小杉武久らと即興音楽集団、「グループ・音楽」を結 成。62年にはフルクサスに合流する。日本初のコンピュータ・アートのコンサート(65年)の企画、『美術手帖』の顧問編集員など経て、72年に渡米。現在まで活動の拠点としている。93年、ロバート・アシュレイが主催する【Lovely Music】より、初のアルバム『MUSICA ICONLOGOS』を、96年にはジョン・ゾーンが主催する【ZADIK】から『SOLO FOR WOUNDED CD』をリリース。2002年には、アルス・エレクトロニカにおいて、デジタルミュージック部門のゴールデン・ニカ賞(金賞)を受賞している。
寄稿者プロフィール
片山杜秀(かたやま・もりひで)
1963年生まれ。慶應義塾大学准教授。音楽評論・政治思想史。2006年京都大学人文科学研究所より「戦前日本の作曲界の研究」で人文科学研究協会賞を授与される。2008年『音盤考現学』『音盤博物誌』で吉田秀和賞およびサントリー学芸賞受賞。著書に『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ)『音盤考現学――片山杜秀の本1』(『音盤博物誌――片山杜秀の本2』『クラシック迷宮図書館――片山杜秀の本3』『続クラシック迷宮図書館――片山杜秀の本4』(アルテスパブリッシング)。最新刊『ゴジラと日の丸 片山杜秀全コラム集』(文藝春秋)